第19話

「失礼します」

 土日を跨いだ月曜日。チャイムとともに、クラスメイト達が「やばい、今日新作のパン出るから早く」と、走っていく中、僕は職員室へ歩いていった。

 声を上げてノックをした後、ガラガラと扉を引く。職員室に、あの禿頭の数学教師を確認すると、真っ直ぐに彼の元へ向かった。

「遅れてすみません」

 僕はそう言って軽く頭を下げながら、課題だったワークを提出する。

「一学期はきちんと出せてたのに、最近たるんどるんじゃないのかね」

 担任でもある禿頭の教師が言う。

「数学係なんだから、数学の課題くらいはちゃんと出しなさい」

 続けてそう言われたので、

「ごめんなさい」

 と、もう一度謝った。五百木さんの家に行くようになってから、勉強する時間が減りつつある。昔は桜井さんの推し活と勉強くらいしかすることがなかったため時間は膨大にあった。でも今は、五百木さんと話すことに放課後のほとんどの時間を費やしている。

 それも、もうすぐ終わるかもしれないが………。

 僕は五百木さんに嫌われてしまったかもしれない。昨日は間違いなく、拒絶された。それはそうだ。どうして、部屋に入ろうなどと調子に乗ってしまったのだろう。ドアを開けないことが会話の唯一の条件だったのに。それを破れば、もう話してくれなくなって当然だろう。

 しかし、そんな事情を一切知らない禿頭の数学教師が言った。

「あっそうだ。また、五百木さんにプリント持って行ってやってくれないか」

 彼はそう言うと、僕が何か意見を言う隙を全く与えないまま、僕の手にまた別の吉岡という芸人が写っているファイルを押し付けてきた。

 僕が何か反論しようと口を開きかけたところで、

「あぁ、もうこんな時間か」

 と、わざとらしい仕草で先生は腕時計を確認した。

「そろそろ授業の準備をしないとな」

 禿頭の数学教師は慌てたように、立ち上がると、

「じゃあ次は課題、遅れないように」

 と早口で告げて、職員室を去っていった。

 その後ろ姿を見つめながら、僕は先生が以前の授業中に、

「月曜日は5限目に授業がなくて、昼休みが私だけ長いもんですから。たまには食べに行こうかと思ってラーメンを頂いてきました」

 と言っていたことを思い出す。まぁ、今日は授業変更があるのだろうということにしておこう。

 そんなことよりも、僕は手元にあるファイルを睨めつけて、溜息をついた。正直、怖い。自分がどう思われているのか分からないというのは、こんなにも不安なのか。僕は時間が経てば、この前のことも許してもらえるのではと思っていた。だから、少し日にちを置いてまた訊ねようと計画していたのに、今僕の手にあるファイルがそれを破壊したのだ。

 周りの先生やその先生に用があるのであろう生徒たちの間を早足で抜けて、僕は職員室を後にした。

 その日の放課後。仕方なく、言われた通りにファイルを持って五百木さんの家に来ていた。

 冬が深まってきたからか、それともホームルームの後も教室でダラダラと葛藤していたからか、視線を上げると、空はすでに紺色に染まっている。

 彩花さんとは玄関ですれ違った。彼女はいつも以上に服を着飾っていて、車の助手席に荷物を詰め込みながら言葉を放つ。

「今からめんどくさい相手と焼肉なの。あの人、私には肉食わせとけばいいと思ってるから。まぁ、あながち間違っては無いけど。今度、久保くんも一緒に行きましょう」

 荷物を詰め終わった彩花さんは、高級そうな車に乗り込み、窓を開けて言った。

「じゃあ、お互い頑張ろう」

 僕は笑顔を作り、彩花さんを見送った。しかし、彼女の車が見えなくなったところで、玄関の前を行ったり来たりしながら自分の胸を撫でる。そっと、深呼吸をして、肺が空っぽになったところで、ようやくマシになった。

 僕は家に入ると、本当に重たい荷物を背負っているように、一歩一歩どっしりと狭い階段を登っていく。

 2階の廊下に着いた。そこはいつも以上に薄暗く、心霊スポットのように思えてくる。五百木さんの部屋は明かりがついていない。寝ているのか、それとも僕を受け付けてないという意思表示なのか……。

 何か声を掛けなければならないと分かっていても、僕の頭の中にある辞書は破り捨てられてしまったらしい。

 五百木さんはこのドアの向こう側で、何をしているのだろうか。何を考えているのだろうか。何を感じているのだろうか。

 分からない。何一つとして。

 しばらく、ドアの前でもじもじと考えていたが、結局ビリビリになった辞書は修復されず、僕は部屋の前に持っていたファイルをそっと置いて五百木家を後にしたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る