第16話

「本当にいいんですか?」

 僕は思わず尋ねてしまった。

「えぇ。本人が良いって言ってるのよ」

 彩花さんは言った。相変わらず抑揚のない声だが、その目はまっすぐ僕を見ている。

 夕陽が、五百木家の大きな窓から入り込んできていた。

「私からもお願いするわ。凪沙の話し相手になってあげて」

 僕は息をのんだ。

 昨日、彩花さんの頼みに即答してから早速今日、僕は五百木家を訪ねていた。そして、だめもとで「凪沙さんと話せませんか?」と言ったのだ。すると、彩花さんが五百木さんに確認を取ってくれて、条件付きではあったが、まさかのOKが出たのだった。

 嬉しくもあったが、自分から言い出したことなのに緊張してしまう。話す内容も考えていない。昨日と同じように、水槽からポンプの音が聞こえてきた。

 僕は彩花さんに続いて、狭い階段を上がる。

 2階の廊下は左右に伸びていて、それぞれ突き当たりに部屋があった。

「こっちが、長女、つまり凪沙の姉になる“希望”の部屋よ」

 そう言って彩花さんは右手側の扉を示す。

「えっ」

 と僕は小さく声を漏らすが、彩花さんは聞こえなかったようで、彼女は続けて左側の部屋まで歩いて行った。

「凪沙、久保君が来てくれたわよ」

 中から、はーいと返事が聞こえてくる。そこで彩花さんは僕の肩に手を置くと、無言で頷いた後、一階へ降りていった。少しして、玄関が開く音もしたので、出かけたのだろう。

 僕はゆっくりと、ドアの前まで歩いていく。緊張で手が震えていた。

「い、五百木さん、いますか?」

「うん、いるよ」

 僕は何を聞いているのだろうか。最初の一言だ。もっと気の効いた文言はなかったのか。気を抜くと、自分は何をしているかという羞恥心でどこかに走り去ってしまいたいという衝動に駆られる。だが、逃げるわけにはいかない。

 五百木さんの声は、前と変わらず明るかった。

 僕はどんな体勢で話せば良いのか分からず、とりあえずドアに向かって体育座りをする。ドアの向こうで、五百木さんはどんな姿勢なのだろうか。

 五百木さんが僕と話をしてくれる条件は単純で、直接会わないことだった。

 しばらく部屋にこもっていたため、恥ずかしい姿を見せたくないらしい。女子高校生としては当然だと思う。

 僕は会話してもらえるだけでも、胸にまるでライターのようにぼっと火が灯る。

「桜井さんの、引退発表見ましたか?」

「見たよっ。もうショックすぎる。これから何を生きがいにしたらいいか分からないレベル」

 五百木さんは明るい声で捲し立てる。僕はその声を聞いて安心した。彼女は恐ろしいほどいつも通りである。

 でもそれはまだ僕が信頼されていないからだ。彼女はまだ、みんながイメージする“五百木さん”の鎧を被っている。

「卒業コンサートは、何が何でもいかないと」

 そこで五百木さんがぽつりと言う。途端に、僕の頭の中でバラバラだった点と点がつながっていく感覚があった。

「卒業コンサート」

 僕は思いついたアイディアの重みを確かめるように、つぶやいた。

「そう。桜井光は大晦日まで、いままで通り活動するみたいだから、開催は来年かな〜」

 それに反応して、五百木さんが言う。

 そうだ。卒業コンサートだ。僕はもう一度心の中で繰り返す。

「凪沙を助けてあげて」

 彩花さんの声が脳裏によぎる。卒業コンサートを五百木さんと観に行けば……。五百木さんが抱えているものはわからないけれど、立ち直るきっかけになるのでは。さらに、仲を深められれば何か聞き出せるかもしれない。

 雲間から、僅かに光が差し込むのが見える。照らしてくれているのは、引退を発表してもなお桜井さんだ。

 僕は密かに、卒業コンサートのチケットを取ることを決めた。五百木さんの部屋の前で拳を握る。

 その後も、桜井さんの話で盛り上がって僕は五百木さんの家を出た。外は真っ暗だったけど、街頭の白い光が僕の行先を照らしていたのだ。

 僕は帰り道にコンビニに寄った。自動ドアを抜けると、僕はまっすぐにコピー機の元へ向かう。そして、スマホのフォルダからこの前撮った青空公園の写真を現像する。

 出来上がったものを見て、改めて良い写真だと思った。

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