第15話
「凪沙と付き合ってるの?」
その一言に、思わずドキッとしてしまう。投げかけられた言葉の意味を瞬時に捉えられなかった。彩花さんは表情を変えずに、こちらを見ている。何を考えているのか分からない。
ややあって内容が頭に入ってきた僕は、全力で首を振った。
「いやいや、そんな関係じゃないですよ」
「そう。この前、凪沙と二人で映画を観に行っていたから、てっきりそういう関係なのかと勘違いしてしまったわ。ごめんなさいね」
僕は思い出した。二人で『光とは……』を見に行った時、五百木さんがトイレから戻ってきて「会いたくない人と会った」と言っていたが、あれはお母さんのことだったのか。
そこで僕は、この家に来た目的を思い出し鞄からあの芸人のファイルを取り出した。
すると、それを見た彩花さんが声をあげる。
「あら、吉岡さんじゃない」
その声は、いつもの彩花さんとは違った。何というか、音に重みがなくなり若干の無邪気さを含んでいる。まるで、若返ったかのような態度だった。
「ご存じなんですか?」
「ええ。昔はよく番組でお世話になったわ。懐かしいわね。最近はお会いしてないけど、元気かしら」
と彩花さんが言う。すると、
「この前、昼のニュースでリポーターしとったよ。元気そうじゃった」
とおばあちゃんが返す。
僕はついていけずポカンとしていた。すると彩花さんと目があって、彼女は我に帰ったように俯いて、恥いるように言った。
「ごめんなさい。吉岡さんが懐かしくて、つい」
その声は、もう元通り抑揚がなくなっていた。
「実は若い頃はモデルをやらせていただいていて、吉岡さんにはその頃よく共演させていただいて何度も助けてもらったの」
なるほど。僕はいろんなことに納得がついた。彩花さんの年を感じさせない華はそういった経験からきているのだろう。僕は今のモデルですらさっぱり分からないけれど、もしかしたら彩花さんは結構有名人だったのかも知れない。そう思うと、よりこの家の高級感が目について場違い感が心に浮かんでくるが、見て見ぬふりをする。
そこで会話が途切れた。
お互い、話し出すきっかけを失ったようだ。水槽の中を循環させるためのポンプが立てる音だけが、一定のリズムを刻んでいる。
会話のない1秒1秒が、ゆっくりと背中に迫ってくる感覚があった。
彩花さんは姿勢も表情も崩さないまま、こちらを見つめている。おばあちゃんはにっこり微笑んでくれているが、何も話そうにない。
二人にそんなつもりはないのだろうけど、僕は責められているのではないかと思ってしまう。
僕は沈黙に耐えきれず、
(凪沙さんはなんで学校を休んでるのですか?)
と聞こうか迷った。しかし、これは触れて良いことなのか分からない。もしタブーならば、口にした瞬間僕と五百木家との繋がりは消えるだろう。
そんな想いが、僕に質問すべきかどうか迷わせていた。
彩花さんはやはり表情ひとつ変えない。何も読み取れなかった。怒っているのか、非難しているのか、呆れているのか。
でもずっと疑問だった。なぜ五百木さんは学校に来なくなったのだろうか。
彼女は、優馬くんや夏希さんという友達がいる。二人といるとき彼女は笑っていたし、気を遣うことはあっても、気に病むことなどなさそうに見えた。
やっぱり素直に尋ねようかと思う。五百木さんが学校に来なくなった理由を知らなければ、これからずっとモヤモヤした感覚が残る気がしたのだ。
そうやって、僕が声を上げようとしたその時だった。
「ひかりの引退が、ショックだったのじゃないかしら」
まるで心の声を聞いていたかのように、彩花さんが口を開いた。僕は、“ひかり”が誰を指すのか分からなかったが、すぐに桜井さんのことかと合点がいく。
驚きから、思わず彩花さんを凝視してしまった。すると、目があって、
「いや、凪沙が学校を休むようになった理由よ」
と彩花さんは、付け加える。彩花さんの発言に驚いていたが、僕は新たな疑問が浮かんで来た。
でも、本当にそれだけなのか。
桜井さんが引退を表明したことと五百木さんが不登校になることは、どうしても結びつかない気がした。
引退発表を受けて涙を流した僕が言えることではないが、推しのアイドルが辞めれば、学校に行きたくなくなる程精神的に追い詰められるのだろうかと感じる。
それから僕たちは他愛もない会話をした。
彩花さんも、五百木さんの影響か桜井さんについて詳しいようだ。それもあって、どの曲が好きとか、ハマったきっかけとか、印象深い場面はどこか、などと彩花さんは僕に質問をしてきた。嬉しかったことは、それらの質問に対する僕の答えに、彩花さんやおばあちゃんは共感を示してくれ、肯定的に捉えてくれたことである。
そして、そろそろお暇しようと腰を浮かせたときだった。
「久保くん」
彩花さんが突然呼びかけてきた。その声は、さっきまでと違って僅かに熱がこもっているような気がする。
「あなたは、いい人ね」
穏やかな口調でそう告げられた僕は、何を言われたか理解するのに時間がかかった。しかし、一度溶け込んだ言葉は、自然と全身へ染み渡り体中をぽかぽかとさせてくれる。
まるで魔法のようだ。
そんなことを面と向かって言われることなんてほとんどなかった。それも、彩花さんのように芯があって強い人に認めてもらえるなんて。
気を抜けば、口角が上がってしまいそうだ。そんな見るに耐えない表情だけは作らないように、必死に気持ちを抑えた。
「私は仕事の関係で大勢の人と会ってきたけど、あなたのような人はあまり見たことがない」
「ありがとうございます!」
限界だった。何とか、できるだけ自然に笑顔を作る。不気味だと思われなければいいのだけれど。
でも一体、僕の何がそんなに褒めるに値したのだろうか。
「ねぇ。そこでお願いなんだけど、また来てくれないかしら」
「えっ。それは、どういうことですか?」
「またこの家に来て欲しい、ということよ。我儘だとはわかっているけれど、できれば凪沙と仲良くしてあげてほしいの。そして、彼女を救ってあげて」
「もちろんです」
気づいたら、即答していた。自分が頼られているという感覚が新鮮で、熱いやかんに触れたときに思わず手を引っ込めるように、言葉が出ていたのだ。
彩花さんはほっとしたように息をついて、
「ありがとう」
と優しく笑った。
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