第11話

 涙を拭いて1階に降りていくと、ちょうど夕飯が用意されていた。僕はそのまま席に着く。すると、向かいに母親が座り、言った。

「珍しいわね。携帯持ってこないの」

 確かに最近はご飯を食べながら、桜井さんの動画を見るのが当たり前だった。でも今はとてもそんな気分ではない。今は、声を聞いただけでもまた胸が握りつぶされそうになってしまう。

 桜井さんの引退が、彼女のいない世界が当たり前になる時は来るのだろうか。僕はそんな日々を全く想像できない。

 そんなことをぼんやりと考えながら箸をすすめる。今日は、ご飯に味噌汁、そしてとんてきだ。さらに千切りキャベツがとんてきと同じ皿に添えられている。僕はそれを口に運んだ。シャキッとした食感が、僕の心情とまるで正反対で笑えてしまう。

 すると母親が、こちらの表情を伺いながら言った。

「さっき、泣いとったみたいやけど、何かあった?お母さんでよかったら、話聞くけど」

 僕は、聞こえない程度に舌打ちをする。理由はわからないけど、ひどく腹立たしかった。この気持ちを分かられてたまるかと思う。母親が嫌いなわけではないが、こういう言動には嫌悪感が募る。

 僕は母の発言を無視して、味噌汁をすすった。適度な温かさと、味噌の加減がサラッと舌の上をすべる。そこにわかめが加わり、いいアクセントとなっていた。

 それ以上母は何も聞いてこない。それは僕にとってはありがたかったが、気まずい空気が流れ、それが僕の意識を思考の渦へと誘い込む。

 そして自然と、気がつけば桜井さんのことを考えてしまう。彼女は本当に芸能界をやめてしまうのか。もしそうなら、僕の人生にどんな色が残ると言うのだろう。

 放っておくと、頭の中のクエスチョンマークはいくらでも巡り始める。

 それらを断ち切るために、とんてきに箸を伸ばす。ソースの匂いが香ばしかったが、すでにお腹はいっぱいで、食欲をそそられることはなかった。それでも、肉を口に放り込むが、何回噛んでも喉を通らない。

 桜井さんの卒業もいくら吟味したとしても飲み込むことができないのではないだろうか。僕はそんな予感にさらされた。


 翌日の土曜。目を覚ましたのは午後1時過ぎだった。布団に入っても、もやもやは消えずに、なかなか寝ることができなくて、遅くなってしまったのだ。

 朝食兼昼食を済まし、部屋に戻ると、僕は部屋の中央で立ちすくんでしまった。まるで知らない人の部屋に迷い込んだようだ。何をすればいいか分からない。

 今日もまだ、桜井さんを見れる気分ではなかった。でも、彼女を応援すること以外にやることがないのだ。

 考えたのち、僕はクローゼットを開けた。中にはたんすと、昔使っていたおもちゃ箱が入っている。その中から、小学生の頃熱中していたゲーム機を取り出した。同時に充電器も発掘し、しばらくそれらをコンセントに繋いでおく。赤いランプが点って、まだ使えるようだと安心する。

 少しすると画面が着くようになって、ベッドに寝そべりながら操作をした。懐かしいキャラクターたちが技を繰り出し、バトルをする。戦いに勝てば経験値がもらえて、キャラが進化していくが、僕はすぐに飽きた。

 画面が灰色に見えたのは気のせいだろうか。

 今となってはなぜ寝る間を惜しんでこんなことをしていたのか分からない。僕は失望して、ゲーム機を放り出し、天井を眺めた。

 何もすることがない。暇だった。

 昔何かで読んだことがある。人間の天敵は暇であると。その通りだと思った。なんの目的もなくただ天井を眺めていると、自分はなぜ生きているのかとさえ疑問に感じてしまう。

 流石にこれではいけないと思い、僕は携帯だけを持って部屋を出た。さらに、玄関で黒いランニングシューズを履く。外に出て、自転車のペダルに片足を乗せ、もう片方で地面を蹴る。勢いづいたところでお尻をサドルに乗せた。

 ふと、優馬くんはここで何度もこけていたなと、あの日の光景を思い出す。

 澄み渡っている秋の空気が、昼間の日光を直接僕の肌に届けてくれた。

 住宅街を縫うように登っていく。やがて人の気配が少ない小道に辿り着いた。右手には小さなお寺と、その横には小学生が通う習字教室がある。

 僕はその道をさらに登っていく。それは山に続いて、地面はなんとか舗装されているものの、コンクリートはところどころヒビが入っていた。それに加え、傾斜が急になりペダルを踏む足に力が入る。 

 左右が完全に竹藪で覆われたあたりで、諦めて自転車をおりた。もうすぐ冬だというのに、汗が噴き出ている。

 目的地まであと少し。僕は力を振り絞って、ハンドルを押す。

 すると、竹藪が急に二つに割れた。真っ直ぐ行けば、山を下り隣町にいくことができる。だが、僕は右折した。そこからは完全な砂利道で、一歩踏み締めるごとに、シャリっシャリっと、心地良い音がする。

 そして少し歩いたところで、ブワッと視界がひらけた。青空公園。太い丸太にその文字が掘り込まれている。まさにこの場所にふさわしい名前だと思う。

 そこはバスケットコートくらいの広さで、左手には剥き出しの斜面があり、前方と右側は先ほどと同じ質感の丸太で作られたフェンスに囲まれている。フェンスの奥は急な崖になっているので、端までいくと、遮るものがない青空と僕らが育った街を見渡すことができた。

 この公園には、右側にこれまた丸太でできたベンチが四つ並んでおり、正面にあるフェンスの前には、学校にある教壇を少し正方形に近づけた形の台が置かれている。

 この台の正しい使い方は誰も知らないが、僕には忘れられない思い出があった。僕がアイドルにハマったのはこの台がきっかけといっても過言ではないかもしれない。

 あれは6年前、僕が小学校5年生の時だ。

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