第3話
4限目終了のチャイムが鳴り、禿頭の数学教師が大きな定規を抱えて教室を去っていく。それと同時に、クラスメイトの何人かが猛ダッシュで昼食販売に向かった。
うちの高校では、別館にある昼食販売室というストレートな名前の部屋で、昼休みになると、近くのパン屋や弁当屋が様々な商品を売ってくれるのだ。普通、昼食を持ってきてない生徒は、食料をそこで確保する。
しかし僕は、その波には乗らなかった。
今朝母親に、
「ごめん、今日寝坊しちゃったからお昼ご飯適当に買ってね」
と言われた。
お腹は今にも鳴り出しそうだ。しかし、お金を使うわけには行かない。僕にとっては飢え死にすることよりも、映画に行けないことの方が悲惨だ。
節約を決めた翌日に限って、母が寝坊するなんて運が悪い。
僕は舌打ちしたくなる気持ちを抑える。誰かが悪いわけではない。桜井さんなら絶対に怒らない。そうやって自分に言い聞かせる。
そこでふと廊下側にある僕の席に、カレーの匂いがやってきた。誰だ弁当でカレーを持ってきた奴はと思うが、考えすぎるとお腹が空いてしまう。
だから僕は無視しようと、スマホに意識を向ける。
そうやって、インスタで桜井さんの投稿を漁っていると、声をかけられた。
「久保、昼飯食わないのか?」
話しかけてきたのは隣の佐藤優馬くんだ。彼は後ろを向いて、椅子にまたがるように座っている。
優馬くんは後ろの席の浜田夏希さんと、僕の後ろの五百木凪沙さんと一緒に昼食をとっているようだ。彼の男女問わず誰とでも仲良くなれる性格は素直に尊敬している。いや、嫉妬も含まれているかもしれない。彼は、誰にでも平等に優しく接することができる。
僕にもその能力があれば、独りにならなくて済んだのに。
「えーと、うん。ちょっと節約してて……」
いきなり話しかけられたので、身を引き締める。嫌われるようなことを言わないように気をつけなければならない。誰とも、深く関わらず嫌われないようにする。それが、波風立てず平和に生きる方法だ。
「じゃあ、これ食うか?」
そういって、優馬くんは浜田さんの机の上に広げていたパンの中から、メロンパンを差し出してくれる。
「私も、これやるよ」
浜田さんも焼きそばパンを渡してくれた。浜田さんはよく日に焼けた肌と、ショートカットが特徴的だ。
僕は何が何だかわからないまま、差し出されたパンを受け取る。
彼女は中性的な、いや、むしろ男っぽい笑顔で、
「いいよ気にすんな久保」
と言う。
「じゃあ私も、お気に入りのパンあげちゃおかな〜」
そう明るい声で告げたのは、五百木凪沙さんだ。彼女は片手にカレーパンを抱えたまま、空いた手でスティックパンを渡してくれた。匂いの正体は彼女だったのか。可愛らしい五百木さんの雰囲気とカレーパンの存在が清々しいくらいミスマッチで、面白かったが、そんな所も彼女の魅力なのだろう。
「ありがとうございます」
僕はボソッと告げる。三人の善意はうれしかった。しかし、それには気まずさが伴っている。メロンパンと焼きそばパンは大丈夫だが、スティックパンは苦手だった。食べている時、口内がカサカサする感覚を歯痒く感じてしまう。
だが、受け取った以上は食べなければならない。
それに節約している理由が好きなアイドルの映画だとは、口が裂けても言えなかった。後ろめたさが、僕の心を蝕んでいく。
「あっ!」
そのとき、五百木さんが、その高くて不純物のない声を響かせる。それから、彼女は大声を出したことを恥じるように手で口を押さえた。そこまでの声量ではなかったのに、少し頬を赤らめさえしている。そして、彼女は声のトーンを落として言った。
「久保くんも、桜井光のファンなの?」
「そ、そうだけど」
いきなり、桜井さんの名前が出た。彼女は国民的アイドルだから、時々クラスでも名前を聞く。しかし、勝手な偏見だが五百木さんたちはアイドルに興味がないと思っていたので、驚いた。
「私も桜井光のファンなの。よかったー、私の友達、桜井光のファン少ないからなー。語れる相手ができてよかったよ」
そう言って、五百木さんはカレーパンを持ってない方の手を差し出してくる。僕は一瞬その手を凝視してしまったが、恐る恐る握手を交わした。
「夏希と優馬も久保くんを見習って、推し作りなよ」
「俺はあんまりアイドルとか興味ないから」
そうやって優馬くんが言うと、浜田さんも頷いていた。
「じゃあ久保は、休み時間とか一人でいるときもそのアイドルの動画とか見てるの?」
続けて優馬くんが尋ねてくる。
「そうだけど」
僕が頷くと、優馬くんは合点がいったように言う。
「なるほどなー。いつも一人で何やってるんだろうと思ってたら、そういうことか」
「うん。ごめん」
「おい、なんで謝んだよ。別に一人の時間を楽しむことは悪いことじゃないだろ」
確かに優馬くんの言う通りだろう。だが、僕が一人でいるのはその時間を楽しんでいるからだけではない。単に、誰かと一緒にいて気を遣い、疲れるという面倒なことを避けている、つまりただ楽をしているのだ。それに、友達を作るということは同時に別れが約束される。それは必ずしも、良い形とは限らない。
僕はもう、あんなことにはなりたくなかった。
「あっそうだ。久保、LINE交換しようぜ」
しかし優馬くんは、そんな僕の心を簡単に乗り越えてQRコードを示してくる。
本当は交換したくなかった。
でも、断ればそれはそれで優馬くんとの関係はギクシャクする。波風立てずに生きるのは意外と難しいようだ。
僕はため息をつくのを堪えながら、QRコードを読み取った。
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