さかなの國

ころぽっかー

第1話 さかなの國

「の、呪いです! 手が! わたしの手が!」




 輪花は北陸新幹線の窓際席で押し殺した叫びをあげた。


 彼女の膝の上には桐箱があった。


 石川県加賀市の旧家から回収してきた〝異物〟だ。




「長者屋敷惨死重箱」、明治期に周辺住民三十七人の死の原因になったと言われている。




 とはいえ、輪花は呪いなど信じていなかった。




 彼女はまだペーパーとはいえ警察庁の刑事だ。殺人事件にオカルトなどありえない。これまでに接した如何なる怪事件も、結局は人間の仕業だった。




 今回の桐箱回収などは物見遊山のような任だと感じていた。なので、金沢駅でますのすしとビールを買い、新幹線に乗り込み、流れる車窓の風景を横目に一杯やるつもりだったのだ。




 それが、席に座った時、彼女は何故か駅弁ではなく桐箱を包んだ風呂敷を膝の上に置いていた。




 あら? わたし、なにしてるわけ? 弁当を食べるんでしょ?




 だが、思いとは裏腹に、手が風呂敷を解いていく。




 え? なに? え?




 真っ黒な風呂敷の下には、黄ばんだ和紙があった。なにやら呪文のようなものがびっしりとかきこまれている。




 彼女の手は和紙を破り捨てると、さらにしたから出てきた真っ赤な繰り紐を解いた。




「おい、なにをしているんだ?」




 彼女の隣で、コンビを組んでいる白浜新太郎がいった。




 コンビとはいえ、彼は警官ではない。都内の某私立大学に勤める民俗学者だ。歳は三十二歳、学者としてはまだ若いが、学界を震撼させるような論文をいくつも発表していた。しかし、学者としては敵が多い。その理由の一つが、彼の民俗学者らしからぬ風貌だ。




 何しろ、常にVRゴーグルを付けているのだ。人と話すときどころか、食事中や睡眠中ですら外すことがない。耳にはワイヤレスイヤホンらしきものーーハードロックが微かに音漏れしている。そして、口元には、極上の空気清浄機付きのプラスチックマスク。




 知らぬ人が見れば、民俗学ではなく情報科学の学者と思うだろう。




 輪花はいった。




「手が、手が勝手に動いてるんです。呪いですーー」




「呪い?」




 新之助がゴーグル、イヤホン、マスクを外した。


 予想外に整った顔が現れる。「他人が苦手」と公言するくらいだから、てっきりブサイクなのかと思いきや、柔和な好青年だ。ただ、目の下は落ち窪み、頰もこけている。夜、よく眠れないのだろうか。




 新之助は目を細めると、手袋をした手で、輪花の手を取った。微かにモーター音のようなものが聞こえた。前任者が語るところによれば、彼の四肢はすべて超最新の義手義足ということだったが、本当なのかもしれない。




 彼は、何か見えないものを彼女の手から引き剥がすような動きをした。




 とたんに輪花の手は自由になった。




 新之助は「これは、わたしが引き受けよう」というと、桐箱を風呂敷ごと自分の膝に乗せ、手早く紐を結び直し、風呂敷を閉めた。




 輪花は自分の手を閉じたり開いたりした。


 背中が泡立ち、嫌な汗が額ににじんでいた。




「い、いまのは何なんですか。の、呪い、ですか?」




 車窓の外を刈り終えたばかりの田んぼが流れていく。




 新之助が肩をすくめた。




「難しい質問だ。呪いとは少し違うんだが、ま、人を殺すだけの力はあるよ」




「な、なんなんですか、その箱は!? 何がはいってるんです?」




「これまた説明が難しいな。この箱の中には〝人の意志〟が入ってるんだ。怨念が封印されてるというのがわかりやすいかな。その念が、君の、そう、魂に働きかけたというところか」




「先生は、そのゴーグルで呪いが見えた、ということなんですか? 超常的な現象を電子的に視覚化できる、とか?」




 輪花は、新之助が前座席の網バケットに突っ込んだゴーグルを指差した。




 新之助は小さく笑うと、ゴーグルを手に取り、彼女の頭にかぶせた。




「ちょ、ちょっと!」




 輪花はあわてたが、すぐに落ち着きを取り戻した。何のことはない。見えているのは、ただ、目の前にいる新之助だったのだ。それ以外、何の電子的表示もない。




「なんです? ここから何が起こるんです?」




「いいや、何も。そのゴーグルはそれだけだ。ただ、目の前の光景を映し出す。それだけなんだ」




 輪花はゴーグルを外した。




「じゃあ、なんでそんな意味のないものを四六時中かけてるんです?」




「自分の目で見ないためだ」




「何をです?」




「君をだよ。いや、正確には、わたし以外のすべての人間をだ」




「いや、いま見ちゃってるじゃないですか」




「ああ、じつに不快だよ」




 新之助は眉間に皺を寄せていた。




「わたしの生の目は、そのものの〝本質〟を捉えてしまうんだ」




「じゃ、じゃあ、わたしの心根が汚いってことなんですか? ショックですよ、それは」




「いや、そういうわけではない」




「そういうわけでしょう? いったい、わたしは先生にはどう見えてるんです? ほんとのことをおっしゃって下さいね!」




「魚だ」




「魚?」




「ああ、等身大のでかい魚人間だ。いま、その魚人間が口をパクパクさせながら、わたしを見つめているよ」




 ーーーーー




 すべての始まりは、一頭のクジラだった。




 二十一歳の夏、わたしは所属していた民俗学ゼミの課題で、●県の神夜島を訪れていた。この島で七年ぶりに行われる秘祭を調査するためだ。




 村の主力産業は、もちろん漁業であり、祭もそれにちなんだものだった。夜、男衆は魚を模した被り物をつけ、松明片手に村中を練り歩く。やがて、いくつかの家の前で立ち止まる。どの家もまもなく子供が生まれる家だ。扉を乱暴に叩くと家人が、彼らを神として迎える。贅を尽くした料理で饗応し、神は礼として魚を一尾置いていく。




 よくあるタイプの祭ではあるが、被り物に独特の趣があり、研究者の間では、ちょっと知られている。そのため、わたし以外にもいくつかのグループが見学に訪れていた。




 一泊二日のスケジュールだが、一拍目の夜に祭の取材は終わり、二日目午後は少々暇をしていた。民宿の食堂で、前日の写真整理をしていると、女子大から来たというグループの女の子たちが、わたしを誘った。




 これから、昨晩、飲み交わした初老の船頭と海に出るという。ホエールウォッチングだ。船頭曰く、昨日、ザトウクジラの群れを見かけたのだそうだ。




 わたしは話に乗り、彼女らと共に漁船で沖に出た。




 波は穏やかで、海面を吹く風は涼しく、丘の緑は眩しかった。


 体に残っていた昨晩の酒が、さわやかな景色に洗い流されていく。




 ほどなく、クジラが現れた。




 わたしは生でクジラを見るのは初めてだったが、海面から半ば体を出したそれが、ただごとではない大きさであることは分かった。




 二十メートル、いや、三十メートルはある。




 体色は紺色で、体全体を鱗のような半透明の物体が覆っている。よくよく見れば、それらはカツオほどの魚だった。魚は、くじらから分離しては、またくっついた。




 女子大生たちは楽しそうに叫び、船頭は拝むように両手を合わせている。




 くじらが〝背びれ〟をぶるりと震わせ、その拍子に、また張り付いていた小魚たちが海中に剥がれ落ちた。




 女子大生の一人がいった。


「すごいすごい!あれ、なんて名前のくじらなんですか?」




 船頭が顔をあげた。


 わたしには、心なしか、その顔が青ざめているように見えた。




「あれが、ザトウクジラだ」




 バカな! あれがザトウクジラ?




 あれは絶対にザトウクジラなとではない。




 それどころかクジラですらない。




 背びれがあるクジラなど存在しない。




 そのクジラもどきがぶるりと震え、水面下に潜った。


 女子大生たちが「もっと撮影したかったのに!」とカメラ片手に悲鳴をあげた。




 海は静かだった。さきほどまですぐそばにクジラがいたなどとは信じられないほどだ。波は穏やかで、風は涼しげに流れていく。




 船頭が青ざめたまま舵を切った。


 船がぐるりと回転し、港に戻り始める。




「もう帰るんですか?」と、女子大生。




 船頭がどこか歪んだような声でいった。




「ちょっと急用を思い出しちまってな」




 そのときだった。


 わたしの足元の甲板から、いきなりクジラもどきが湧き上がった。




 変な表現をしているのは分かっている。


 だが、わたしは見たままを語っているのだ。


 クジラもどきは、船の甲板を透過して現れたのだ。


 甲板を、わたしの足を、わたしの腰を、胸を、頭を通過するようにして身を踊らせる。


 わたしだけではない、船全体を透過して、そのまま小魚をばら撒きながら空に昇っていくのだ。クジラもどきは、ふわふわと雲の中に入り、二度と出てくることはなかった。




 女子大生たちは舳先に集まって港を見ていたので、何も気づいていない。クジラもどきがとんだことも、幽霊のように私たちの体を透過したことも。




 だが、船尾の船頭は、いまあったことを完全に把握していた。舵を握りしめる手は、あまりにも力を込めすぎたのか紫色に変色している。身体はおこりにかかったようなら激しく震え、ぶつぶつと経文を唱えていた。




☆☆☆☆☆☆




漁船が港に戻ると、女子大生たちは「お昼ご飯どうしよっかあ!」「ここの名物のクジラ料理とかどう?」とキャピキャピしながら、民宿の方に戻っていった。




 さきほどホエールウォッチングをしたばかりだというのに、もうクジラ料理か。


 ふだんのわたしなら、クスりと笑っていたろうが、いまはとてもそんな気になれなかった。




 カモメが数匹、わたしの頭の上でギャアギャア騒いでいた。




 乾いた唇をなめると、かすかに塩の味がした。




 さきほどの体験は何だったのか。




 クジラがわたしの身体を通過して、空に昇っていった。




 白昼夢?




 それにしては船頭の様子がおかしい。


 彼はわたしがアレを見たときから、常にぶつぶつと何か呪文めいたものを唱え続けていた。


 無線で誰かと頻繁にやりとりし、船が港に戻るや、脱兎のごとく漁協のプレハブ二階建て事務所に駆け込んだ。




 間違いなく彼も見たのだ。




 わたしがはしけの隅に腰掛けて頭をひねっていると、車のエンジン音が聞こえた。




 軽トラが三台、猛烈な勢いで小さな市場を突っ切り、事務所の前で急停止した。運転席から、それぞれ若い男が三人降りると、ちらりとわたしに目を向けてから事務所内に入った。




 それから、サイレンが鳴った。




 事務所の屋上に据え付けられた拡声器のようなスピーカーから、続けて五回。




 まるで合図であったかのように、いや、じっさい合図だったのだろう。車がつぎつぎに現れ、事務所の前に乗り付けた。




 車だけではない。徒歩の老人、自転車に乗った主婦、それに子供達。こんなに大勢があんな小さな事務所に入れるのか? と思うほどの数が押し寄せる。




 そして、集まってきた人々は例外なくわたしに目を向けてから、事務所の扉に吸い込まれた。




「いますぐ島を出た方がいいよ」




 いきなり背後から声がした。




 わたしは飛び上がるようにして立ち上がった。




 後ろにいたのは十四、五歳くらいの少女だった。


 見覚えがあった。この子は、昨日、島の祭りを取材したとき、魚の面を付けた祭司たちのなかに混ざっていた。


 この子は、一人だけ面を付けず、なぜか空ばかり見ていた。




 昨日は藍色の着物姿だったが、今日はティーン向けファッション雑誌から抜け出たような格好をしている。ひだのついた短いスカートにレギンス、スポーティなスニーカー。




 それと、昨日はしていなかったが、いまは右目に眼帯をしていた。




「いますぐ?」わたしはいった。「夕方の便でってことかな?」




 この島と本土を結ぶ連絡船は、一日ニ便、朝と夕方だけのダイヤで運行している。




 少女が首を振った。




「いますぐ。泳いでだよ」




「泳いで?」




 海の向こうに見える本土まで何キロあると思っているのか。三キロ? いや、五キロはある。




「無理だよ。わたしはそこまで泳ぎが達者じゃない。だいたい、なんでそんなことをしなけりゃいけないのさ」




「だって、おくじらさまに触っちゃったんでしょ?」




 彼女は、空を指した。




 わたしは頭上を見たが、カモメがかしましく騒いでいるだけだった。




「優里!」怒鳴り声が響いた。




 漁協の事務所から、三十代後半と思しき女性が飛び出してきた。




「あんた何してんの! さっさと来なさい!」




 女性が、優里と呼ばれた少女を掴もうとすると、優里は微かに身を引いた。




「分かった。分かってるから触らないで」




 女性が哀しげに顔を歪めた。




「あんた、母親に向かってそんな」




「ご、ごめん」と、優里。彼女はわたしに「じゃあね、お兄さん」というと、母親と共に事務所に入っていった。




 事務所の二階の窓から、いくつもの顔がわたしを見つめていた。




 わたしがそれに気づくと同時にブラインドが降りた。




 わたしはもう一度空を見上げた。




 おくじらさま?




 もちろん、あのクジラの幽霊は見えなかった。


 ただ、夏の雲がゆっくりと本土に向かって流れているだけだった。




 わたしは漁労長に、〝おくじらさま〟について話を聞こうと思い、しばらくはしけで待ったが、寄り合いは一向に終わる気配がない。




 仕方なく、歩いて民宿に戻った。




「おかえりなさい」




 宿の主人が会計場から手を振った。主人は五十絡みの小男だ。子供のように動きがはしっこく、全身からエネルギーを発散している。


 彼は携帯を耳に当てて、頷きながら食堂を指した。




「学生さん、ちょっと茶でも飲んで待っててよ。いまさ、学生さんが興味ありそうな話が来ててさ」




「わたしが?」




「ああ、学生さん、昨夜の祭りの取材のために来たんだろ? その祭りの〝続き〟をしようかって話になってね」




「続き? え? 続きがあるんですか?」




「ああ、学生さんら、さっき、秦野さんの船でクジラを見たらしいじゃないか。この島じゃあ、祭りの直後にクジラが出たら、特別にもうひとつ祝いを重ねるのさ。昨夜のやつなんかより、よっぽど興味深いと思うよ。あの、おねーちゃんたちは参加するってさ。この電話が終わったら、もうちょい詳しく話すよ」




 わたしは頭を下げると、食堂に入り、座布団に腰を落ち着けた。


 畳二畳分はありそうな大テーブルには、食器が四セット、下げられないままに置いてあった。女子大生たちのものだろう。


 二階からドタバタと音がする。


 彼女らだろうか。




 わたしはテーブルの真ん中からヤカンと湯呑みをとると、麦茶を注いだ。




 一服しながら考えたのは、〝これは、たいへん貴重な経験をしているのではないか〟ということだった。




 あのクジラモドキもどきがなんだったのかは分からない。




 昨夜のお神酒のなかに幻覚成分でも入っていたのかもしれない。あの強烈な味は、どう考えても密造酒の類だった。時間差で脳に作用し、わたしと船頭は空飛ぶクジラを見た。酒が浅かった女子大生はただのザトウクジラを見た。




 おそらくそういうことなのだろう。




 ポイントは、これこそ祭りの成り立ちなのではないかという点だ。




 祭りや伝承には、その核となる実際の出来事が潜んでいる。出雲のオロチ神楽は、大地震を具現化したものだし、アイヌのオペントゥランは有珠山の噴火を表している。




 わたしたち民俗学者はおとぎ話や祭りの儀式からそれらを類推する。




 この島に伝わる〝オクジラサマ〟〝オサカナサマ〟は、トリップした脳が見せる幻がきっかけで生まれたのではないだろうか。




 素晴らしい!




 わたしと船頭の立場は、聖母マリアを見たファティマの乙女のようなものか。だとすれば、このあとの祭りこそが、真の秘祭となるはずだ。




 今回の体験をまとめきれば、わたしの所属するゼミの教授もさぞかし喜んでくれるだろう!




 わたしが胸の高鳴りを抑えようと深呼吸していると、宿の主人が「ごめんごめん、待たせたねえ」といいながら食堂に入ってきた。




 わたしは顔をあげて固まった。




「ん? どうしたい学生さん?」と、主人がいう。




 その顔は、カツオのような魚のものだった。




 人間サイズのカツオが口をパクパクさせながら、「顔色が悪いよお?」といった。




☆☆☆☆☆☆




「学生さん?」




 目をこすって、もう一度確認する。




 宿の主人は、ふつうの人間に戻っていた。




 どうやら、昨日の酒の影響はまだ残っているらしい。


 主人の顔が魚に見えてしまうとは。


 昨晩の祭りで目にした、魚の被り物のイメージが投影されたのだろうか。




 わたしは息を吐いて愛想笑いをした。




「なんでもありませんよ」




 主人がいぶかしげな目をわたしに向ける。




 やれやれ。わたし得意の笑みでも誤魔化しきれなかったか。




 主人がいう。




「なあ、本当に大丈夫なのかい? 今晩の儀式は、昨日の以上に大事なもんなんだ。なにかあったなら、いってもらわんと」




 クジラが空を飛んで、あなたの顔が魚に見えましたって?




「クジラが空を飛んで、あなたの顔が魚に見えたんです」




 わたしはそのままいうことにした。




 なんといっても、ここの祭りのプロは彼らであり、わたしは素人だ。素直に相談する方がいい。昨日の酒の強すぎる成分がどのような影響を体に与えるのか、確認すべきだ。




 そう、あの女の子は島を出ろと警告した。




 幻覚は、致命的な損傷の始まりなのかもしれない。なら、すぐにでも漁船を出してもらって、本土の病院に向かわねば。




 主人はゴクリと音を立てて茶を飲み込んだ。


 執拗に瞬きしてからいう。




「えーと、学生さん。俺にはあんたは真面目な学生に見えるんだが、その、あれかい?」




「は?」




「だから、麻薬、とか」




「ち、違いますよ!」




 わたしは手を振って、自分の仮説を披露した。


 幻覚は昨日の酒が原因では?




 主人が腕を組んだ。




「なくはない、かな。あれはカヨばあさんの家で、代々手作りしとってな。俺がばあさんから聞いた話だと、二百年前、浜に見たこともない不思議な魚が打ち上がったんだと。鰹のような鰯のようなクラゲのような蛇のような。ばあさんの先祖はそいつを酒樽にぶちこんだ。で、継ぎ足し継ぎ足しでいまにいたるわけだ。きっと樽の底にゃあ、まだその魚の残骸があるんだろうさ。そんな代物だ。人によっては、そうだな。学生さん、あんたみたいに幻覚をみることもあるかもな」




「あのお酒は今晩も出るんですか?」




「どうかな。昨日ほとんど飲み干しちまったからなあ。それに二日目があるときは、また別のお神酒があるんだよ。カヨばあさんの〝迎え酒〟じゃなく、菅平屋の〝送り酒〟だ。飲んだこたあねえが、えらくうまいらしい」




 迎え酒? それは二日酔いの朝に飲むやつでは?




 わたしが酒の成分について主人と談義していると、二階から女子大生たちが降りてきた。




 彼女らも、大学は違えど民俗学専攻の学生であり、フィールドワークのために、ここを訪れていた。




「あれー、しんちゃん、まだご飯食べてないの?」




 そういったのは、桃李恵美子だ。銀座のクラブでバイトをしているというだけあって、品とゴージャス感を兼ね備えた美人だ。ジーンズにTシャツという格好でも輝いている。




「今晩のことについて、聞きたいことがあってね」




「え? なに? どんな?」




 恵美子が首をかしげた。腰まである茶色の髪が揺れる。




「あ、ひょっとして秘密にするつもり? ずるーい。わかったことは、お互いに教え合うって約束したじゃない」




「い、いや、お神酒の成分についてだよ。まだアルコールが抜けきらない感じでさ。今晩も飲むとなると、キツイなあって」




「しんちゃん、そんなに飲んでたっけ?」




 クジラの幻覚の話をすると、恵美子は笑った。




「それはキテるねえ。よかったら、これ使いなよ」




 恵美子がズボンのポケットから、タバコの箱ほどの筒状のものを投げてよこした。


 ピルケースだ。




「アルコール分解酵素、あたしがお店用に使ってるやつ。ぜんぜん酔わなくなるよ」




 彼女は手を振ると、ほかの三人と連れ立って出かけていった。




 わたしは早速、ピルケースを開いた。


 ピンク色の錠剤を一粒とりだし、茶で流し込む。




 宿の主人が「いやあ、あの子、ちょっと派手だけど優しいなあ。どうだい? 楽になってきたかい?」と、いった。




「いやあ、どうでしょうねえ」と、わたしは笑った。




 主人は、首元のエラをパクパクさせながら、「なんなら、うちのキャベジンも出そうかい?」と、笑った。




 その顔は、またカツオそっくりに変化していた。




☆☆☆☆☆




宿の主人が口を開くたびに、生臭い腐臭がたちのぼり、わたしは吐き気に襲われた。




 わたしは「気分が悪くなってきたので、ちょっと散歩に」といって、外に飛び出した。




 真昼の日差しがジリジリと背中を焼く。




 たちまち、汗が噴き出した。




 わたしは道行く人々を見やった。島に一軒しかない文房具屋の店主、イカをどこかに干しに行こうとする老婆、棒きれを持った子供たち。みな、ふつうの人間だ。




 だが、何かがおかしい。何か、誰もが横目でわたしを見ているような気がするのだ。




 わたしは目元を指で絞った。




 相当キテるな。今晩はもう一滴も飲まない方がよさそうだ。




 自転車のベルの音に、あわてて道を避けた。




 村の若い主婦たちが「ごめんなさーい」といって、わたしが立っていた場所に自転車を止めた。




 彼女らはみな抱っこ紐に赤ん坊をぶら下げていた。わいわい騒ぎながら、年季の入った公民館に入っていく。




 昨晩は、ここで大宴会が催された。村の住民すべてが集まり、とことん痛飲したのだ。




 開け放した扉から、畳の上に置かれた座布団が見えた。何かしめ縄のような物に取り囲まれている。主婦たちは一つ一つの座布団の上に、自分の赤ん坊を置いていった。




 昨晩の儀式に似ている。昨晩、ぼくは魚の面をつけた男たちと一緒に、各家を訪問した。魚面の男たちは、いまのように座布団に置かれた赤子の頭に触れ、祝詞を呟いていた。




 宴会のとき、漁労長が意味を教えてくれた。この島では、〝魚の神が子供に魂を入れてくれる〟と信じられているのだという。




 ふいに、主婦たちの騒ぎが声がおさまっていることに気づいた。彼女らは、公民館のなかから、じっとわたしを見つめていた。その表情のなかには、恐れや哀れみに似た何かがあった。




 わたしはフラフラとその場を離れた。




 風に当たりたい。だが、港町の空気は淀み、傷んだ魚介の臭いが漂っている。




 わたしは空を見上げた。雲が動いている。高いところにいけば、新鮮な風を受けられるかもしれない。




 そのとき、雲の隙間に何かが見えた。




 クジラモドキではない。もっと小さな銀色の何かが、寄り集まり、きらきら輝いている。




 目を凝らすと、その銀色の群れは帯のように連なり、低空から伸び上がっていた。帯の起点は、街の裏山だ。




 わたしは導かれるようにして、家々の隙間を抜け、斜面に作られた畑を登った。どの畑も猫の額ほどの大きさしかない。植わっているのは、ナス、シシトウ、トウガラシか。土地が痩せているせいか、どれも弱々しい。




 登るほどに、なぜか腐ったような臭いは強くなった。


 引き返したいという思いに駆られたが、ここまで来て立ち去ってなるものかという気持ちが、わたしを押しとどめた。




 銀色の粒のようなものは、目の前の崖を登りきった先から立ち昇っているらしい。




 腐臭はもう目にしみるほどだ。




 据え付けられた小さなハシゴで崖を上がると、ちょっとした窪地があった。そのなかに、銀色の金属片のような物体が積み重なっていた。




 いや、金属ではない。これは鰯だ。無数の鰯が無造作に捨てられている。鰯はただでさえ足が早い。真夏の太陽に照らされ、激烈な勢いで腐敗しているのだ。




 そして、鰯の死骸を間に挟んで、わたしと反対側の窪地のふちに、あの優里と呼ばれた少女が腰掛けていた。短いスカートから、棒きれのような足を突き出し、ぶらぶらさせている。




「こ、こんなところで何をしているんだい?」




 わたしの言葉に優里が首を傾げた。




「さっきまで、ここで〝撒き〟をしてたからだよ。それより、なんでまだ島にいるの? 本土に戻ったほうがいいっていったよね? どうして、こんなところまで来たの?」




「見えたからだ」




 そう、わたしには見えている。鰯の死骸の山から、鰯に似た何か別の魚の幽霊が抜け出し、続々と空に昇っているところが。




「やっぱり見えてるんだね」




「君にも見えるのか?」




 優里が自分の右目の眼帯をつついた。




「これを外せばね」




「教えてくれ。この魚はなんなんだ?」




「鰯だよ」




「そうじゃない。鰯から抜け出してるやつだ」




「鰯だよ。鰯の心」




「心? 魚に心があるのか?」




「知らなかったの? ほとんどの生き物には心があるんだよ」




「それが、どうして目に見えるんだ?」




 少女が空の雲を指した。




「オクジラサマだよ。お兄さん、オクジラサマに触ったんでしょ? わたしもそう」




「あのクジラもどきか。あれはなんだ? クジラの心なのか?」




「オクジラサマは、なんだろう? わたしも知らない。ただ、オクジラサマはすごくたまにだけど、この島に立ち寄るの。そうして、恵みをくださるんだ」




「大漁を約束してくれるということか?」




「そんなんじゃないよ。恵みは人の種だよ」




 麓からサイレンが聞こえてきた。


 連続して五回。




 優里は座ったままだ。




「行かなくていいのかい? あれはみんな集まれっていう合図か何かなんだろう?」




「別にいいよ」




「しかし、親御さんが心配するだろう?」




「親? あんな化け物、親じゃないよ」




 優里は吐き捨てるようにいった。




☆☆☆☆☆




「化け物だって?」




 わたしの脳裏を、魚人間になった宿の主人がよぎった。




「君の母親は、その、人ではない? のかい?」




 優里が笑った。




「まさか、人間だよ」




「人間なのに化け物?」




「いまは、わたしのいってる意味がわかんないと思う。ううん、わかんない方がいいの。だから、これ以上は聞かないで。そして、すぐに島から出て欲しいの、新之助さん」




「どうして名前を?」




 優里が笑った。




「神奈川県横浜市●●町52-2、電話番号は●●●●●●●大漁荘の宿帳だよ。あそこのおじさん、いつも出しっ放しだからね」




「個人情報を覗き見するのは感心しないなあ」




「いいじゃない。取引だもん。わたしはあなたを助けてあげようってのよ。だから、あなたには借りを返しもらわないとね。具体的には、わたしが島を出たあと、少しだけ面倒を見て欲しいの」




「島を出るだって? 家出かい?」




「これ以上、母さんと一緒にいたくないんだ」




「冗談はやめてくれ。君はいくつだ? 中学生だろう? 逮捕されちまうよ。だいたい助けるって、何からだ?」




「知らない方がいいよ。そのほうが人生幸せだよ」




 わたしは頭をかいた。




「分からないな。ようするに、今晩の祭りで何かよからぬことがあるといいたいんだろう? その具体的な中身を教えもせず、島から泳いで逃げろだって。本気でいってるのか?」




「うん」




「わたしが本気にすると思うのかい?」




 優里が眼帯を外し、なにかを確認してから、眼帯を戻した。


 すいと立ち上がる。




「どこに行くんだ?」と、わたし。




「漁協事務所。お兄さんが消えた時、みんなと一緒にいないと疑われちゃうからね」




「いやいや、わたしは島を出るなんてひとこともいってないぞ」




 優里が眼帯を軽く叩いた。




「わたしには分かるの。お兄さんはもう出て行くつもりだよ」




 事実だった。わたしは既に島を出る決断を済ませていた。なぜか、目の前の少女は嘘をついていないと感じられたのだ。彼女の言葉に従わなければ、何か大変なことになる。




 どうしてだ? わたしはなぜ、ろくに説明も聴かずに納得したのか。わたしは基本的に人を信じない人間だったはずだ。短期間ならば、表面上、誰とでもうまくやれるが、心を許すということはない。付き合ってきた恋人たちは、みなその点を指摘して、わたしから離れていった。そんなわたしが、こんな子供のいう怪しげな話を頭から信じ込むのか?




 言葉に出さなかった問いに、優里が答えた。




「わたしとお兄さんは、同じタイプの魂を持ってるからだよ」




 彼女はそれだけいうと、山を駆け下りていった。




 山の上からは、村中の人々が漁協事務所に吸い込まれて行く様がよく見えた。朝と同じように軽トラや乗用車がエンジンをふかして駐車場に乗り付ける。




 いまなら、村人のほとんどがあそこにいる。民宿で浮き輪でも借りて、島の東端の浜辺から海に入れば、誰に見咎められることもなく本土に帰りつけるかもしれない。




 この島は携帯電波が入らないので、ここまでまとめたレポートの基礎資料をネット経由で保存することはできない。防水USBに入れた方がいいだろう。ほかの電子機器とあわせて三重にしたビニールに収める。




 宿代は詫びの手紙とあわせて客間に残すべきだ。ついでに、パソコンをはじめとした大物の郵送費も残そう。




 思わず笑ってしまった。




 優里という少女の言葉は信じたが、その一方で世間の常識も信じているのだ。おそらく、今晩の祭りはなんの問題もなく終わる。その場合にも備えておく必要があるのだ。




 わたしは粛々と計画を進めた。




 静かに宿に戻り、裏の物置から浮き輪を拝借する。置き手紙を残して東の浜に向かった。




 我ながらバカみたいだな。




 わたしは膝まで海に浸かりながら思った。




 海水パンツ一丁で、右手には浮き輪、左手には財布、携帯、USB入りのビニール袋。




 こんな程度の装備で海を渡る? いや、渡れなくはないだろう。ほんの数十分のことだ。しかし、二時間後には本土から連絡船が来る。それに乗れば、なんの危険もなく帰れるというのに、わざわざ命をかけて泳ごうというのだから。




 足が浮かんだところで、気づいた。




 恵美子と、その友達の女性三人、彼女らは間違いなく祭りに参加する。




 少し迷った。




 彼女らとは、この島に来て初めて知り合ったのだ。いっしょに酒を飲んだし、ホエールウォッチングにも行ったが、それだけの関係だ。




 彼女らのために、本能の叫びを無視するのか?




 優里と話して以降、いや、その前からわたしはずっと鳥肌が立ち続けていた。頭の上に、いまにも落ちてきそうなギロチンの刃がぶら下がっているような感覚だ。


 優里のいうことに従わなければ、なにか大変なことが起きる。




「よかったら、これ使いなよ」




 恵美子の声が頭の中に響いた。


 彼女は体調の悪いわたしを心配して薬をくれた。




 わたしはしばらく波間に漂ってから、岸に戻った。




 ちょうどそのとき、もう一度、漁協事務所のサイレンが聞こえた。




☆☆☆☆☆




わたしは山の上、さきほど優里と話した窪地の近くに腰を下ろしていた。




 太陽は西の水平線に沈みかけていた。海はオレンジ色に染まり、雲は紅く燃え上がってある。




 何隻もの漁船が続々と、外海から港に帰ってくる。


 漁に出ていたわけではないだろう。漁師は早朝に働くものだ。




 なんとなく、彼らはわたしを探していたのではないかと思えた。




 ビニール袋の中の携帯を確認する。


 時刻は十八時半。連絡船の出発時刻だ。


 だが、港には連絡船の影も形もない。




 船は来なかった。




 いったいどうしたわけなのか。




 影に沈んだ村は、妙にざわついていた。人々は懐中電灯や提灯を片手にうろついている。祭りの行事だと思いたかったが、やはりわたしを探しているような気がしてならない。




 人の一群が漁協事務所を出て、公民館に移動し始めた。まもなく、昨日と同じように儀式や宴席が始まるのだろう。




 冷たい風が吹き付け、わたしは二の腕をさすりながら窪地の中に引っ込んだ。




 鰯の心とやらの発生は止まっていた。いや、それどころか、あの堪え難い腐臭がすっかり消えていた。かわりに漂っているのは強烈な酢の匂いだ。心地よい香りとはいえないが、寒さと天秤にかければ、窪地のなかは随分と楽だった。




 下界の様子を観察していると、光が二つ、ふもとから畑の間を縫って登ってきた。




 やがて、光は懐中電灯を持った二人の若い男の姿に変わった。




 彼らはまっすぐにわたしのいる窪地を目指している。




 わたしは慌てて首を引っ込めた。




 足音が近づいてくる。




 わたしは意を決すると、穴の底に降りて、鰯の死骸をかき集め、自分の上に被せた。




 強烈な酢の匂い。


 鰯のエラが肌をチクチクと刺す。




 しばらくすると、男の声が聞こえた。




「ほんとに見たのかよ」




 昼間に嗅いだような腐臭がした。




 窪地に光が差し込む。




「祝い寿司の鰯しかないぜ?」




 別の男の声がいう。




「たしかに光が見えた気がしたんだがな」




「お前、まさか〝見え〟ちまったんじゃないよな? 優里の話だと、ここの鰯の〝中身〟が空に昇って行くらしいじゃないか」




「いやいやいや、まさか! 光は俺の気のせいだったよ。こんなところに、あの学生さんがいるわけないもんな」




「まったく、えらいことになったもんだ。大漁荘の親父もえらいことしてくれたもんだ。見えるようになった外のもんを逃がしちまうとはな。〝泳ぎたくなったので、泳いで帰ります〟? とんでもない話だぜ。あの学生さんがどこまで知ってたかは分からんが、今晩なにがあるかは聞いたんだろうな。いまごろ、本土の警察に駆け込んでるかもな」




「どうかねえ、もしそうなら、いまごろ警察が船を出してるだろうさ。それがないってことは、警察に行かなかったか、それとも警察が信じなかったか」




「波切号のこともあるからなあ。てっさんが、エンジンをぶっ壊したんだろ? 漁労長も酷なことをさせるよな。てっさん、これでクビだぜ」




「仕方ねえさ。学生さんに話を漏らしたのは、十中八九、優里のやつだ。自分の娘の不始末は、自分でつけねえと」




「まったく、優里ときたら。漁労長はどうする気なんだ?」




「儀式が終わるまでは、公民館だ。なにしろ、見えるのはあいつだけだからな。じっさんは、昨日、触れたばかりだから、まだ無理だ」




「儀式が終わったら?」




「しばらくは、事務所の二階の納戸に閉じ込めとくってよ」




 わたしは、懐中電灯の光が動き、鰯の死骸から離れた。




 わたしは鰯と鰯の隙間から、その光が男の一人を照らすのを見た。




 男の顔は、やはりというべきか、巨大な鰹そのものだった。


 鰹人間は首元のエラから、緑色の湯気みたいなものを出した。湯気がわたしの周りに舞い降ると、吐きそうなほどの腐敗臭がした。




☆☆☆☆




 わたしは公民館の中にいた。




 公民館は一階建で、三十畳ほどの畳敷きの広間と、汲み取り式のトイレ、それに簡素な台所という作りだった。




 わたしは台所の勝手口から入ると、台所と広間を隔てるガラス戸のそばに腰を下ろした。




 広間の中は人でぎっしりだったが、誰もわたしには気づかない。




 わたしは民家の軒先から拝借した魚の仮面を被っていたからだ。男衆の大半は褌に仮面姿なので、海水パンツに仮面のぼくが混ざっていても、容易には気づかれなかった。




 広間の中心には、六人の赤ちゃんが座布団の上で寝転がっていた。全員、どう見ても三ヶ月未満だ。目を閉じて寝入っている。




 その周りを二十人ほどの仮面の男たちが囲っている。男たちの外に、赤ん坊の母親と思しき女性たち、それに大柄な漁労長ーー日焼けしたハゲ頭の巨漢なので、一目でそれとわかるーー、そして恵美子たち四人の女子大生と、巫女姿の優里。




 さらに外側は、男女入り乱れ、仮面を付けている、付けていないもまちまちだった。だが、昨夜と異なり、赤ん坊以外の子供が一人もいない。




 ぼくは、魚人間を恐れていたが、公民館内には見当たらなかった。




 祭りだというのに、場は比較的静かだった。ときおり、雑談が混ざるものの、音楽も酒もない。みな、黙って何かを待っている。




 漁労長が優里にいった。




「来たか?」




 優里が首を横にふる。




「まだ」




 優里は眼帯を外していた。その頰にはどす黒い痣ができていた。誰かに殴られたのだろう。ぼくは、なんとなく漁労長ではないかと思った。




 漁労長が近くにいた老婆にいった。




「撒き餌の数が少なすぎましたかね?」




 ぼくは昨夜を思い出した。老婆はこの村の最長老というべき立場だ。誰よりも小さく、皺くちゃだが、その瞳はときおりサメのように鋭く光っていた。




「いいや、あれでよい。きっかり二千二十三匹、オクジラサマはあれでお立ち寄りくださる」




 壁掛け時計がカチカチと時を刻む。




 ぼくの隣に座っている四十代くらいの女性が呟いた。




「本当にかわいそうね」




 その横にいた夫と思しき男性がいった。




「仕方ないさ。送ってやるのが優しさというもんだ。この村の人間でも耐えられないんだ。外のもんに耐えられるはずがない。いまは見えてなくても、じきに見えるようになる」




 台所の蛇口から水滴がタライに落ちる音が響いている。




 漁労長がいった。




「まだか?」




 腐臭がした。




 ぼくはぶるりと震えた。




 漁労長の顔が変わっている! 魚ではない。イカやタコのような軟体動物だ。いやに細い首の先に乗った真っ黒な頭部を不気味にくねらせ、黄色い瞳で周りを睥睨している。その手足は吸盤のついた触手に変わり、蠢いている。




 いつのまに? 気がつけば、公民館内に集まった住民の半分近くが、魚人に変わっていた。鰹のようなもの、鮪のようなもの、ウミウシのようなもの。さきほど、「かわいそうね」とつぶやいた主婦の頭部は、出目金のような生物に変化していた。




 優里がいった。




「まだーーいや、待って! 来た!」




 見れば、天井から魚が降りていた。




 羽目板を透過して、するすると室内に入り込んでくる。




 朝方見たオクジラサマでも、昼間見た鰯の幽霊でもない。これは、オクジラサマの体から剥がれ落ちていた鰹のような小型魚だ。




 鰹そっくりなそれは、なにか匂いでも嗅いでいるかのように頭部をひくつかせて宙を漂っていた。




 二匹、三匹、四匹、どんどん数が増えていく。




 そのうち、一匹が餌を見つけたかのように、すさまじい勢いで赤ん坊に突進し、そのまま赤ん坊の体内に〝潜り込んだ〟。




 途端に赤ん坊が火のついたように泣き始めた。




 さきほど、漁労長が話しかけた最長老の老婆が笑った。




「入った!入った!」




 おお!と場が湧いた。




 漁労長が手、いや、触手を叩いた。




「一番乗りはタケんとこの次男だ!」




 泣き喚いている赤ん坊の母親らしき女性が、輪の中から飛び出して、赤ん坊を高く掲げた。




 公民館に詰めかけた村人たちが一斉に拍手する。


 恵美子たちも、周りに当てられたのか満面の笑みで手を叩いている。




 次の魚が、また別の赤ちゃんに入り、こちらも泣き始めた。




「トシオんとこじゃ!」と誰かがいう。




 また母親が飛び出して、赤ん坊を掲げた。また拍手が沸き起こる。




 ぼくは目をむいた。この母親は魚人だった。そして、その手の中にいた赤ん坊の顔が、ゆっくりと人間のものから魚のそれに変わったのだ。




 ぼくの斜め前にいた三十歳くらいの男がいった。




「いや、本当にめでたい。オクジラサマに直接入れてもらえるのは七年ぶりかあ?」




「まったくだ!」と別の男。「しかも、今回は六人だ。みんな賢い子になるぞお」




「お、ミチオんとこのコも入ったみたいだ。全員入ったな! いいぞいいぞ」




 二十歳くらいの女がいった。




「ねえ、もし〝入らなかった〟ら、どうなるの?」




 この女の顔は魚でも人間でもない。その両方だった。魚の顔は半透明で、その下に人間の顔があった。




 魚人の男が答えた。




「昔ばあちゃんが教えてくれたけど、二歳になるまでに何も入らなかったら、〝なりそこない〟になるんだってよ」




「なりそこない?」




「人間のなりそこないってことだ。受け答えもできないし、体もうまく動かせない。心が入ってないんだから仕方ないけどな」




☆☆☆☆☆




漁労長がいった。




「さあさあ! めでたい日だ! 酒だ。酒を持ってこい!」




 人々が、いよおお!と声をあげた。


 女衆が一斉に立ち上がり、台所から酒瓶を運び出す。




 いまや、赤ん坊は全員が魚人間になっていた。


 小さな魚人間だ。




 わたしは呼吸の乱れを整えるのに必死だった。




 人の赤ちゃんが、魚人間にされてしまった!




 では、ここにいる魚人間は、みんな元はふつうの人間だったのか?




 公民館内のあちこちで乾杯が始まった。




 わたしは立ち上がった。このままだとまずい。みなが飲み食いしているなかで、一人だけ仮面をかぶっているのは不自然だ。早く恵美子たちを連れ出さないと。




 だが、恵美子たちは広間の中心部にいる。




 彼女たちに近づくのはいいにしても、どうやって面を取らずにわたしだと知らせればいいのか。




 魚の面をつけた男が二人、優里の手を掴んで彼女を外に連れ去った。さきほど聞いた話の通りなら、漁協の事務所に監禁するつもりだろう。




 しかし、彼女には、いまのところ危険はない。




 島を出たら、必ず警察を連れて戻ってくるから。


 わたしは心の中で誓った。


 わたしは借りは必ず返すタイプなのだ。




 恵美子たちは漁労長と酒を酌み交わしている。




 わたしは周りの注意をひかないように気をつけながら、少しずつ近づいていった。




 もう後、ほんの少しで声が届く、というところで彼女らの周りに仮面の男衆が集まってきた。その手には出刃包丁が握られていた。




 まさか!と思った時には遅かった。




 男衆たちは恵美子たち四人の首を手早く掻き切った。




 ーーーー




 わたしは思わず叫んでいた。




 公民館の人々が静まり返り、一斉にわたしを見た。




 恵美子ら四人は畳の上に崩れ落ち、体を震わせていた。真っ赤な血が広がっていく。一目見て、助からないのは明らかだ。




 わたしは踵を返すと、台所を抜け、靴も履かずに勝手口から飛び出した。




 走りに走った。




 わずかでも歩を緩めれば、恵美子たち同様に殺される。そんな確信があった。




 漁協事務所に着いた時には息も絶え絶え、急激な吐き気に襲われて身をよじったが、今朝からろくに食べてなかったせいで、酸っぱい胃液が出るだけだった。




 事務所は真っ暗だった。




 見張りの一人もいない。当たり前か。優里は村の仲間であり、いまはお灸を据えているだけなのだ。見張り番だって宴席に参加したいに決まっている。




 わたしは扉のガラスを、握りしめていたビニール袋を振り回して叩き割った。携帯やUSBが壊れるかもなどということは考えもしなかった。




 ガラスの破片に気をつけながら踏み込む。真っ暗闇の中を二階に上がると、錆びた南京錠で閉じられた部屋があった。南京錠は全部で八個、扉は分厚い鉄製で、〝納戸〟などというものではない。これはもう座敷牢だ。




「いるかい?」




 声をかけると、すぐに返事があった。




「いる」




「鍵は?」




「そのへんの柱にかかってない?」




 なるほど、柱の一本に釘が打ち付けられ、そこにいかにも鍵が八本ぶら下がっている。




「よく知ってるね」




「ここに軟禁されるのは初めてじゃないからね」




 わたしは鍵を差し込んだ。錆びついているせいか、うまく回らない。




「なんなんだよ、この厳重さは」




「見えるようになったものは暴れまわることが多いんだよ。だから、何百年も前から、牢が用意されてるの」




 ようやく一つ目の鍵が開いた。




「君はこうなるって知ってたのかい?」




「こうって?」




「恵美子さんたちだよ」




 沈黙の後、優里がいった。




「それで逃げなかったんだ」




「ああ、海に入りかけたところで思い出してね」




「あのひとたち、どうなったの?」




「殺されたよ」




 優里がまた黙った。




「漁労長がどうするつもりか、知ってたのかい?」




「ひょっとしたら、とは思った」




「なんで教えてくれなかったんだよ」




「いったとして信じた?」




「たぶん」




「まあ、そうよね。あなたは信じたかも。わたしの同類だから。でも、信じたとして、あなたに何ができたの? どうせ、あなたもいっしょに殺されるのがオチよ」




 鍵は恐ろしく硬かった。


 かちゃかちゃと暗闇に音が響く。


 一つ、二つと鍵が開いていく。




「この島はなんなんだ。あの魚人間に乗っ取られているのかい?」




「魚人間? うん、ある意味では、そうともいえるかもね」




「含みのある言い方はやめてくれ。もっと具体的に頼むよ」




「無理。あなたの症状はいまの程度で止まるかもしれないもの。それなら、細かいことは知らない方がいいの」




「なんだよそれ」




 ピン!と音がして最後の鍵が開いた。




 中から優里が出てくる。




「それで、わたしをここから助けてどうするの?」




「使い方を教えてくれ」




「なんの?」




 わたしは階下を指した。




「船だ」




 優里が少しだけ考えてからいった。




「いいけど、わたしも連れてってよね」




「それじゃ、誘拐じゃないか!」




「これ以上、あなたを助けたって知られたら、わたしだって危ないのよ。殺されるってこともありうるわ」




「まさか、君は村の仲間だし、たいせつな巫女だろう?」




「もう一人〝目〟が生まれたから、もうそこまでたいせつじゃないわよ」




 いわれて思い当たった。ホエールウォッチングに連れて行ってくれた漁師、彼もオクジラサマに触れているのだった。




「決まり」優里がニッと笑った。




 ーーーーー




 わたしたちは一階に降りた。優里は壁に埋め込まれたロッカーのようならものを開いた。漁船の鍵がずらりと並んでいる。彼女はそのうちの一つをわたしに投げると、残りのすべてをまとめて掴み取った。




「どうするんだ?」と、わたし。




「追いかけてこられちゃ困るでしょう?」




 なるほど。




 五分後、わたしは優里の操縦する船で湾内を進んでいた。


 夜風がじつに心地いい。


 波はなく、船はするすると海を滑っていく。




 遠ざかって行く港に明かりが灯った。懐中電灯の光が右往左往している。




 これ以上は追いかけてこれまい。




 そう思ってにんまりした時、小さくエンジン音が聞こえてきた。




 優里を見ると、彼女は肩をすくめた。




「みんながみんな、ちゃんと鍵をあそこに戻すわけじゃないのよ」






-------------------------




 追いかけてくるのは一隻だけだった。


 しかし、足が速い。




 優里がレバーを全開まで倒しているにも関わらず、ぐんぐん距離を詰めてくる。




 優里が操縦席の小窓から顔を突き出していった。




「武器になるものを探して!」




「ぶ、武器?」




 わたしは甲板の上を見回した。


 発泡スチロールの空箱に、漁網、ロープ、それになんに使うのかわからない鉄の棒。




 仕方なく棒を握りしめた。




 なんだこれは。まったく現実感がない。




 わたしはただ、祭りのレポートを書くために来たのだ。それが、不気味な魚人間たちに追いかけられている。




 本土の光はまだ遠い。船は猛スピードで進んでいるが、それでもあと十分はかかるだろう。そして、追いかけてくる船は、もうこの船の尻に鼻面を突っ込む寸前だ。




 後方の船がサーチライトを付けた。


 強烈な光がわたしの目を焼く。




 操縦席の無線ががなりたてた。




「優里! 止まれ!」声は漁労長のものだった。




 優里が無線機を片手でひっ摑んだ。




「いやよ!」




「お前、何をしているのかわかってるのか!? そこの男を無事に帰せば、なにもかも明るみに出るんだぞ! そうなったら、この世はどうなる!?」




「まだ、見えるようになるって、決まったわけじゃないわ!」




「いいや、決まっている。お前自身よくわかってるはずだ! お前、年を追うごとによく見えるようになってるだろう? わかってるんだぞ! いまはどこまで見えてる? 俺の姿はどうなってる?」




「うるさい、化け物!」




「戻れ! 戻るんだ! こいつはお前のためなんだぞ! オクジラサマを見たものの末路はわかってるはずだ!」




「わたしは違う!」




 漁労長の船が、こちらの船に並びかけてきた。




 運転席で舵を握っている漁労長が見えた。




 タコの化け物だ。細い首の上に乗った真っ黒な頭部をくねらせ、黄色い目でこちらを睨んでいる。




 優里が悲鳴をあげた。




「あっちへ行って!」




 漁労長が舵を切った。




 漁労長の船が一気に進路を変えて、こちらの土手っ腹に激突した。




 船が激しく揺れ、わたしは一瞬宙に浮いたから甲板に叩きつけられた。




 胸を打ち、呼吸ができない。




 どうにか顔をあげると、ちょうど漁労長タコ人間がこちらの船に飛び移ってくるところだった。




 タコ人間は跳躍が足りず、舷側から海に消えるかに見えた。




 ところが、触手が舷側に巻きついた。


 すさまじい力で身体をこちらの船に引き上げる。




 タコ人間がこちらに近づいてくる。




 わたしが立ち上がると、叫びながら鉄棒を振り回した。




 タコ人間は触手で棒を掴むと、わたしの手からかんたんに奪い取った。




 触手は棒を海に投げ捨てると、ぼくの首に巻きついた。




 牙の生えた口が開き、腐臭とともに「悪く思うな。これはお前のためでもある」と言葉を放った。




 ぼくは触手を引き剥がそうとしたがびくともしない。




 口を開けて必死に空気を吸い込もうとするが、何も入ってこない。




 胸が苦しい。炎の塊が肺の中で荒れ狂っている。




 タコ人間は細い首を回すと、優里にいった。




「さっさと引き返せ!さもないとお前も〝送る〟ことになるぞ!」




 視界がちらつき始める。




 ぼくは震える手を伸ばし、タコ人間の細い首を絞め返した。




 細い首は容易に潰れた。




 タコ人間は不気味な呻きと共に片膝をついた。




 ぼくたちは互いの首を絞めあった。




 タコ人間は触手で、ぼくは両の手で。




 視界が暗くなり、また明るくなる。


 どんどん明るく、白くなる。




 優里が悲鳴をあげ、次の瞬間、船は本土の港の岸壁に激突した。




------------------------- 第10部分開始 -------------------------


【サブタイトル】


本土にて




【本文】


 衝突の衝撃でタコ人間は甲板で頭部を強打し、動かなくなった。




 船は半ば岸壁に乗り上げるようにして止まっていた。


 前半分はぐしゃぐしゃに潰れている。




 船室から優里が這い出してきた。




 わたしたちは互いに支えあうようにして本土に立った。




 そこから先のことはあまり覚えていない。




 夜の港町を抜け、どうにか駅前まで行き、客待ちのタクシーに乗り込んだ。運転手は半裸で血だらけのわたしを見て、一度、乗車拒否しようとしたが、わたしが財布からありったけの万札を出すと、一転して車を走らせた。




 二時間後、わたしたちは梅田のラブホテルにチェックインしていた。




 泥のように眠った。




 翌朝、恐る恐るテレビをつけたが、あの島のニュースはまったくなかった。スマホでネットを確認しても同様だった。




 どうなっているのか。少なくとも漁船が大破したのだ。それくらいは騒ぎになってもいいはずだ。




 わたしは公衆電話から、昨晩の出来事を通報した。




 女子大生四人が殺された。




 電話を受けた警官は「イタズラ電話だったら、ただじゃあ済まないよ」と脅しながらも、警官を島に向かわせることを約束した。




 しかし、その翌日になっても何の報道もなかった。




 わたしは優里に服を買ってきてもらうと、彼女と共に横浜に戻った。




 わたしの住所は宿帳にばっちり残していたので、友人の家に転がり込んだ。




 そこからさらに一週間しても、何もなかった。




 わたしの指導教官が、代わりに状況を探ってくれたところによると、島の人間はわたしなど知らないし、そもそも今年の祭りに、島外の人間は誰一人参加していないということだった。




 まるで白昼夢でも見ていたかのようだった。




 あれほどの事件が影も形もなく消え失せたのだ。




 魚人たちに四人もの女性が殺されたというのに、何の騒ぎにもなっていない。恵美子たちの親は警察に行かなかったのか? わたしは彼女の親族に連絡を取りたかったが、彼女らにつながる情報は何もなかった。大学名はおろか、苗字すら知らないのだ!




 優里だが、彼女は病的なまでに追跡を恐れていた。




 彼女は数週間、友人のアパートに籠り切り、それからある日いきなり行方知れずになった。テーブルの上に「外国に行きます」と一言メモが残されて、わたしの財布も消え去っていた。




 夏休みが明け、わたしは社会に復帰した。




 島の連中が、どれほどの力を持っていようが、ここは横浜だ。こんなところまで追いかけてくるか? だいたい、どうやってわたしを見つけ出すというのだ。わたしは住所は明かしたが、大学名は伝えていない。




 念のため、大幅にイメチェンした。


 髪の毛を刈り上げ、ヤンキー風にしたのだ。




 友人ですら、一瞬、わたしだとわからないほどだった。




 そして、日々はあっという間に過ぎ去り、木枯らしが吹き始めたころ、魚人が現れた。




 ーーーーーー




 ゼミ室の扉を開けて、わたしの全身の筋肉が強張った。




 口の中に何か嫌な味が広がっていく。




 部屋の一番奥に座る担当教授が、サンタのような白い髭をこすりながら「どうしたんだね?」という。




 打ち合わせテーブルに座ったゼミ仲間がこちらを向く。そのなかに魚人が混ざっているのだ。鰹そっくりの顔で、口をパクパクさせ、「新之助、遅刻やん!」という。




 その声の響きは、ゼミ生の田井中のものだった。服装も、彼がいつも着ている灰色のパーカーだ。




「い、いや、悪い」わたしはいいながら、後ろ手に扉を閉めた。




 ど、どういうことだ? 田井中はあの島の出身の魚人間だったのか? いや、彼の出身地は九州だし、だいいち、やつらの仲間なら、いままでわたしに対してなんのアクションも起こさなかったのはどういうことなのか。




 わたしは震える体を押さえ込んで、テーブルについた。




 田井中であろう魚人間は、いつもの彼のように軽口を叩きながら、ゼミの卒業旅行の計画を話し始めた。行き先はハワイ。現地の伝承を辿る旅だ。




 田井中魚人は時折、あの緑色の蒸気をエラから放ち、その度に部屋は悪臭に包まれた。




 昼の鐘がなるまで、わたしは吐き気に耐え続けた。




 昼食後、わたしは半ばパニックのまま、ゼミ室に戻った。




 田井中は先に戻っていた。




 彼はいつもの人の姿に戻り、あの悪臭は綺麗さっぱり消えていた。




 幻覚だったのか? 島での事件がトラウマとなり、幻を見せたのか?




 そうあってほしかったが、翌週、希望は打ち砕かれた。




 友人と学食に入ったところ、またしても魚人がいたのだ。


 魚人は調理場のなかで、中華鍋を振っていた。




☆☆☆




田井中が魚人に見えてから二ヶ月が過ぎる頃には、わたしの周りは魚人で埋め尽くされていた。




 大学通用門そばのセブンイレブンの店員、行きつけの美容室のオーナー、道行く小学生、駅員、宅配便のドライバー、あらゆる人間が魚人に変わっていた。




 魚人と人間の割合は九対一というところだった。




 数少ない人間は、日を追うごとに少なくなった。




 町全体を包む腐臭は耐え難く、わたしは二重にマスクをかけて生活していたが、何の意味もなかった。匂いはマスクの布地をやすやすと通過して、わたしの鼻粘膜を攻撃しているようだった。




 春先になると、もう人間はほとんどいなかった。




 ごくまれに、ベビーカーのなかに人間の赤ん坊が乗っていることもあったが、彼らも空から振ってくる魚によって魚人に変わった。




 オクジラサマは群れをなし、悠然と高空を漂っていた。




 わたしは魚人の国に住んでいるのだった。




 わたしは新しい部屋に引っ越していた。神奈川区の高台に建つ古ぼけたマンションの一室だ。わたしはこの部屋から一つ残らず鏡を取り除いた。




 そこに映るかもしれないものが恐ろしかったのだ。




 ここまで来ると認めざるを得なかった。




 わたしが目にする魚人達は、人間そのものなのだ。




 島で聞いたさまざまな言葉が、頭から離れなかった。




 島で見た儀式が頻繁に思い出された。




 赤ん坊に魚が宿った時、島の人々は〝心が入った〟と喜び、同時に赤ん坊は魚人に変わっていた。




 心、意識、魂、そう呼ばれるものはどこから来るのか。




 脳のニューロンが複雑性を増し、ある時点で意思が目様める? 本当にそうか? ひょっとしたら、意思とは、あの空から振ってくる魚なのではないだろうか。




 わたしたちは脳で考えていると思い込んでいるが、じっさいのところ、考えているのは、肉体に寄生している幽霊魚なのではないか。




 人の魂は〝魚〟なのだ。




 いや、人だけではない。犬も、猫も、鳥も、あらゆる生き物に魚は宿っている。




 日本各地、いや、世界各地に、人の魂は魚であるとする伝承が残っている。イヌイットのホミカ、トゥベンキのスュペル、コンゴのアムアム。あれらはすべて正しい伝聞だったのではないだろうか。




 わたしはオクジラサマという、超高密度の魚に触れたがために、魚が見えるようになった。過去にも、同じ呪いを受けたシャーマンたちがいたに違いない。




 わたしは自分の顔を見るのが恐ろしかった。


 わたしは人間だ。


 だが、鏡に映るのは、果たして人間だろうか。




 気にしなければいい。そう思いたかった。わたしは人が魚に見えるだけ、気にしなければそれで済む。




 しかし、魚への嫌悪は本能的なものなのだ。


 魚の目、魚の口、魚の臭い。


 何もかもがおぞましかった。




 わたしは家に閉じこもるようになった。




 一日中、テレビを付けていた。




 テレビのなかの人びとは、わたしのふつうの人の顔をしていた。




 八月に入ったころ、ニュース番組の中に、いきなり優里が現れた。アナウンサーが、彼女がウクライナで七人の人間を殺したと告げた。わけのわからないことを喚きながら、道行く人々に、無差別にナイフで切りかかったということだった。




 このままでは、わたしも彼女と同じ道を辿る。




 回避するために手を打つことにした。




 わたしはマンションの部屋のなかで、自分の左手を見た。長袖に手袋、だが、その下には鱗をまとった腕がある。不気味な魚人の手。我慢ならない手だ。




 まずはこれからだ。




 わたしは台所から包丁とまな板を持ってきた。




 ーーーーー




 北陸新幹線の車内で、輪花が唾を飲んだ。




「じ、自分で切り落としたってことですか?」




 新之助は義手を動かしてみせた。




「意外と便利なものだよ。本来の手より、はるかに精密な動きができる。こいつのおかけで、いろいろと自作できた。ゴーグル、マスク、イヤホン、なんでもだ」




 彼は義手でゴーグルをつかむと、目に被せた。




「カメラと液晶を通せば、この通り、ふつうの人間の姿しか見えなくなる」




 輪花は彼の右手を指した。




「そ、そちらの手は大丈夫なんですか? 生身ですよね?」




「ああ、もちろんダメだ。できれば処置したいところだが、あいにくと生身でないと魚はーーつまり、霊体は掴めないんだ」




 輪花は、さきほどの新之助の動きを思い出した。




「その呪いの桐箱からは、霊体が出てたってことなんですか?」




「蛇の尻尾みたいな奴だよ」




 輪花は服の上から二の腕をこすった。




 新之助がマスクをつけた。


 くぐもった声でいう。




「この箱の中身は興味深い。だが、わたしが探しているものじゃあないな」




「なにを探してるんです?」




 新之助はゆっくりと座席にもたれた。




「この力を消してくれるものだ」

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さかなの國 ころぽっかー @sikiasaka

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