七時間の人生

こあ

七時間の人生

 僕の二十四年間の人生を一言でまとめるのであればそれは空虚くうきょだ。

 美味しかった又は不味かった料理、肉、魚、野菜、果物、デザート。それが提供された店、街、土地。

 楽しかった又はつまらなかった出来事、ニュース、事件、雑誌、スポーツ、ゲーム、映画、アニメ、小説、漫画、ドラマ、バラエティ、舞台、漫才、落語、学校行事、暇つぶし。それを体験した場所、街、土地、媒体。

 好き又は嫌いなモノ、人、団体、思考、仕事、道具、コンテンツ、主張。それを見聞きした場所、街、土地、媒体。

 これらは過去。

 今生きる僕にあるのは、

 日に日に苦しくなる安月給の生活。

 社会に対する反骨精神。

 希望の無い未来。

 迫ってくる現実が口にする真実。

 過去から残っているのは臆病なプライドが吐いた嘘くらいなもので。

 未だ何も成していない子供の僕は、遠ざかるばかりの大人の背中に中指を立てて泣きじゃくるのだ。


×××


 それを自覚する日は二十二時に必ず目が冴える。

 僕は大学を中退した。勉強が苦手で大学も推薦で行ったが、勉強が嫌になって行かなくなった。大学から除名の手紙が来たのは一年後だった。そして僕はそれをゴミ箱にコッソリ捨てた。そして今の今まで誰にも言っていない。真実を知っているのは大学と落ちた企業の面接官、就活アプリだけだ。

 当然就職など出来ない。やがて就活の数が減りバイトをしながら日銭を稼ぎ、身の丈に合わない友人と身の丈に合わない金の使い方をする。段々と気分が高揚してくると気が良くなって次会う約束をし、良い奴を演じ、周りの視線を気にせずゴキゲンな様子で帰路につく。

 目が覚めて死にそうなくらい暗い現実が目の前にあると、言葉通りに死にたくなる。そして昼頃に来る眠気に負けて次に目覚める闇の中で時間を見て自分を嫌いになっていくのだ。

 そんな価値無い過去を思い返しながら、まずスマホのロックを解除して検索アプリで“死にたい”と打ち込むのだ。

 すると『こころの健康相談統一ダイヤル』とやらの番号の上にでかでかと「ヘルプが利用可能性」という文字が出てくる。まるでゲームのような画面に僕は馬鹿らしさと戸惑いを覚え、無い脳味噌で不安の数を数えて電話しようと決心するも結局しない。これを何度か繰り返す。これは日によって一回だったり十回だったりする。当然一度もしたことはない。何故なら相談したくないという底辺のプライドがこの期に及んでまだ残っているからだ。

 それからスクロールすると坊さんの言葉とか、自分も死にたかったらしい人のブログだとか、小中学生の話だとか。

 誰もが納得出来て、倫理的で、道徳的で、綺麗で、嘘のように眩しくて、真実のように苦しくて、最もらしい言葉が載っているサイトがずらりと並ぶ。僕はこれを一々開いては「僕とは違う」と否定して笑ってやるのだ。そして自分はどれだけ醜く汚いかを自覚し言い聞かせる。太腿ふとももからかかとにかけてがヒヤリと冷たくなり、腹に泥のようなものがズンとのしかかり、呼吸は浅くなり、肌がチクチクと痒くなり始めると、ようやく涙が出る。

 それは期待の涙である。

 誰がどう見ても綺麗で、優秀で、一ミリのズレなく、真っ直ぐ。そんな自分を期待して裏切られ、他人と比較して勝手に落ち込み、明るい話題や好きな物や楽しい事でさえもそこに関わる人に感服し、自分の情けなさに苛立ちと哀しみを抱く。理想と現実のギャップをいつまでも理解しない勘違い男の涙は勢いを増す。

 世の中を懸命けんめいに生きる人達のことを思い浮かべてはその小さい星のようなきらびやかな才能と、僕の涙なんかとは比べ物にならないくらい価値ある汗の滲む努力を想像し、自分の駄目さに気が狂う。甲高い動物のような嬌声きょうせいをあげてみたり、自分の髪の毛を引っ張ってみたり、心臓あたりを掻きむしってみたり殴ってみたり、日によって様々である。

 この時、他人の気を引こうとだけはしない。

 僕はどうしようもなく馬鹿で無能で怠慢な人間だが、相手を馬鹿にする才能だけは長けていた。だから自傷行為やSNSでの捻くれた発言、自虐、飲酒、喫煙なんかの自分語りをする『かまってちゃん』を軽蔑し、そこまで至らないように自制をしていた。そうすることで他人を馬鹿にする余裕を持っていた。

 それが功を奏してか、僕は一頻ひとしきり狂った後、しばらく何も考えず兎に角涙を流すだけの作業に入る。

 この作業の間、僕はスマホを通して色んな人を見る。

 不定期に自己啓発本のようなブログを書いて多くの人のり所を与えている人。

 自分の趣味の楽しさを他の人にも共有しようと楽しそうに語る人。

 自分のことを好いてくれる人に囲まれて、その人達を楽しませようと努力する人。

 自分の感情や感動、考えを巧みに言語化し、多くの人に気付きを与えている人。

 自分や他人に負けじと奮闘し、その姿で周りを感動させる人。

 誰もが思っていても言葉に出来ないことを、言葉にしてくれる人。

 感情を描き、感情を奏で、感情を動かす人。

 僕らの心臓を掴むような確信をつく言葉を操り、まるで笑い話のように問題や悩み、葛藤を解決する人。

 僕は彼らを尊敬してやまない。

 そして同時に僕を軽蔑してならない。

 世界は平等だ。同じ能力はないだろうが与えられた時間だけは裏切らないからだ。その時間の中で才能を見つけられるのは真面目で潔白で人格が優れウェットに富んだ人間だけだろう。

 何故なら彼らにはその才能を活かすための気付きと努力が必要だったからだ。気付きとは一分一秒を邁進し、何かを成す為に経験することによって得られる実感である。努力とは一分一秒を止まり、何かを為すために計画と必要な要素を検討することによって得られる実績である。

 そうして失敗も成功も得てきた人間は必然的に信用や価値を獲得している。

 怠惰で卑怯で汚く、嘘つきで意地悪でつまらない僕には到底ない信用と価値。他人に見下されたくないという臆病なプライドばかりが成長していって、身体が大きくなるにつれて動かなくなり、何も成長せず、惰眠を貪り、日々刹那的せつなてきな快楽に溺れて後悔を繰り返すのみで計画性もなく、自らを変えようという言葉ばかりで検討もせず、今の位置に甘え、気付けば重くなる体でズルズルと沈んでいることに怯えている。そして、いつからこうなってしまったのかと、同じ問答を何度も繰り返す。


×××


 身体中に蔓延る怠惰の虫に血液を侵されている僕はこれからも何もしないだろう。そして来年には暗闇の中で適当に生きて今より苦しい人生を歩んでいるだろう。

 そんな想像が頭を支配すると恐怖で息が荒くなる。楽しかったことも、そこからは何も得られないという事実に全部辛い出来事に変わる。

 大好きだった祖父も泣いているに違いない。

 僕はとんだ親不孝者だ。

 死んでしまえばいいのに。

 臓器を売ったらどうなるだろうか。痛みはあるだろうか。臓器を買うのはどんな人物だろうか。売るのはどんな人物だろうか。お金はちゃんと家族に振り込まれるのだろうか。それでみんな幸せになれるだろうか。いやなれるだろう。でも死とは何なのだろうか。暗い闇なのだろうか。音も無く、色も無く、光も無く、味も無く、寒さも無く、暑さも無く、痛みも無く、苦しみも無く、楽しみも無く、嬉しさも無く、ただただこの二十二時のように思考する意識だけが残り、闇の中で後悔と絶望を繰り返し、腹も減らず死ぬことも叶わず、何万年とかけて無意識に落ちていくだけなのだろうか。

 想像力だけは豊かな臆病者はそれがとんでもなく恐ろしいことに気が付いて死にたくないと願うのだ。そして再び沈んでいく明日からの自らに絶望し、死ぬよりマシなんていう楽観的な思考に嫌気が差し、死ぬ勇気すら無い僕なんかが何故生まれてきてしまったのかと憤怒に身体を熱くする。

 ふとカーテンを見る。遮光カーテンと白いカーテンの重なりが見える。その間の窓から誰かが覗いて僕を笑っているんじゃ無いかと思い、遮光カーテンの端っこを引っ張って自分を隠す。自らを卑下しまるで客観的に見ているような言葉を連ねておいて、結局自分が可愛いだけであることに怒りは限界を迎える。それから布団に潜って「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」とぶつぶつ呟いて再び狂う。


 心臓がようやっと静かになったところで、この世の不幸な人達のことを思い浮かべる。

 僕は恵まれていた。

 祖父の家はお金持ちで母は献身に僕を見守ってくれている。僕が優しくすれば母は泣かないし、兄は僕に優しくしてくれる。素晴らしい友人達は僕のことを持ち上げてくれる。何よりみんな僕が文章を書くことを応援してくれている。

 でも世の中そんな人ばかりで無い。

 親に反対され一人暮らしで努力している人や、友人に恵まれ無い人、自分とは無関係な所で不幸が降りかかる人、生まれ持った能力の所為で夢を諦めざるを得ない人、十分な能力を持っているのに理解されない人、世間の逆風に晒されている人。みんな僕なんかより才能もあり努力もしている。なのにそれが実らない。

 それがどうしようもなく悲しくて涙が出る。僕が唯一人の為に泣ける涙だ。

 変わってあげられたらどれだけいいか。何でこんなに恵まれてしまったのが僕で、彼らは不幸なのか。最低最悪な人間が幸運なのは何かの間違いでなければならないのに。

 屑のような人生とゴミのような人格の人間が世の中に居るだけで真面目な人が損をするならそんな人間は死んでしまえばいい。

 でも僕は今まで死ねなかった。それは僕こそが最低最悪で屑のような人生とゴミのような人格を持っている人間だからだった。

 だからか、僕は自己犠牲が好きだ。他人の為に死ねたらどれだけ素晴らしいかと何度も想像し、涙した。憧れである。そしてそれは所詮憧れだ。目標ではなく、無理だと理解しているからこその憧れ。非の打ち所がないほどの善性。僕には絶対に無理だ。

 だからこそ涙が出るほどに心が綺麗な人を好きになる。利他的な行いを好きになる。献身的な考え方が好きになる。慈悲深い心が好きになる。好きな人の為に好きな人に嫌われることを厭わない勇気を好きになる。そして、自分のことを嫌いになる。

 そうして涙を流すだけ流した後、心はすっかり乾いて無感情の時間がやってくる。

 ここまでの感情を振り返る。同じ言葉、同じ内容を繰り返していることに気付いて薄っぺらい自分が嫌いになる。

 だがそれ以上に何かを学んだ気になるのだ。

 そして、ここから僕の思考は加速するのだ。


×××


 鼻。

 口。先。

 拭う。端。端。

 耳を塞ぐ。


 これ以上なく嫌いになれば後は激しい起伏もなく、極めて平坦である。そうすると世界は途端に広がる。地平線の果てまで見える。

 まず一人、人を見つける。

 男か女かを見る。そしてぐるりと見渡して彼は女、彼女は男であるかを確かめる。脳天に刺さったアンテナの周波数を確かめる。視線の先に何があるかも確かめる。履き物も確かめる。

 その人の表情や声色、視線の動き、笑い方、所作、癖、瞬きの回数を見ていると途端に彼らはどうしようもなく死んでいるのだと気付く。生きることを探し、生物としての役割を究明し、死に近づくことを弾劾する為に出現した現象である。そこに生は無く、銘々な現象として世界を闊歩し、互いに干渉しあい、交わり、崩れていく。足跡と肉人形だけが残る。それは山となる。僕には見えない海を泳ぐ現象達はカモメの群れを追いかけて行く。次々に沈んでいく肉人形をぼーっと眺めては、完全に視界から消えた後、再び平坦を歩き出す。

 言葉を交わした。それは音ではなく痛みであった。それらの言葉は炎で、常に何者かを焼いているのだ。僕は誰かを焼いてしまうくらいなら自分が燃えてしまおうと思った。少し粘性のある液体の入ったコップを持ち上げてそれを飲み干す。そして自らの身体を焼いてみせた。それらは笑わなかった。誰かを焼く時それらは笑った。笑みは偽りの色をしており、心臓に何もかもを吸われたみたいにそれらの頭は軽い。感情や魂は頭の中に宿るものだが、それらは心臓に宿るようだ。

 なるほど、と僕は納得した。それらは情報なのだ。複雑な情報の絡み合った姿で、一体でなく何体もの情報が現象として現れたものだ。だが情報とは生命ではない。生命の足跡である。よく見ればそれらの足跡は風にさらわれて消えていっていた。

 それらは何の情報なのか。僕は肉人形を一つ解体して中を覗いた。

 中身はちっぽけな合理主義的支配の法則であった。それは過去だ。線状のそれらのうち一際綺麗な一本を取り出して観察していると、一人の琵琶法師が通りかかった。足の裏に砂を携えた琵琶法師は背負った琵琶をこちらにみせ、皺のよった岩のような手で弦を押さえた。


「十三弦集まらなかったので四弦で琵琶にしました。左からタワゴト、ザレゴト、ヨマヨイゴト、エソラゴトです」

「それ以外は何というのですか」

「いえ。私にはわかりません。貴方の持つそれの名も知らないのです」

「十三集まると琵琶にはならんのですか」

「それもわかりません。ただ、私たちはそれをキレイゴトと呼んでいます」

「琵琶法師殿は何処から参られたのでしょうか?」

「私たちはあの海から来たのです」

「なんと。しかし、私にはあの海が見えないのです」

「あれは言葉の海です。苦節七千年、私たちはあの海の底から這い上がってきたのです」

「なんと」


 僕は驚愕し、絶望し、恐怖した。僕より下にまだ世界があったのだ。やがてそこへ行き着くことだろう。そうしたらいよいよどうなってしまうのかまるで想像が出来ない。


「ところでそれは何というのでしょう」

「これは」


 琵琶法師の素朴な思案顔に僕はじっくり考えた。この糸は真っ直ぐに見えるが中腹あたりから捻れて裏っ返しになっている。白に光る表面と黒に照る裏側はまるで対象だが、同時に同質のものである証明であった。


「タニンゴトというのはどうでしょう」

「なるほど、なるほど。これは新鮮です。いい弦だ、ええ」


 琵琶法師は嬉しそうに琵琶を鳴らした。その口から紡がれる言葉はタワゴト、ザレゴト、ヨマヨイゴト、エソラゴトをそれぞれ巧みに言語化し、言葉はまるでそのものであるかのように感じられた。それは炎でなく音である。痛みでなく憂いである。琵琶法師達は安心させる術を知っているようだった。それは歴史である。


×××


 僕はグレイビーソースを作る時、砂糖でなくミックスジュースで甘味を出す。これは拘りでなく好みだ。他人に食べさせたことはないが、いつか披露してみたいと常々思う。念を押しておくが拘りでなく好みだ。口に合わなかったら素直に謝りたい。銘々の感覚は多様であって欲しく、その領域を侵したくはないからだ。

 しかし、人は時として自分の感覚を理解して欲しい時がある。多様性を論ずる世の中に於いて嫌悪される欲求だ。この欲求は極めて人間にとって根深いものに思う。

 反対に他人の感覚を理解したい時もある。これもまた根深い欲求だが、感覚とは極めて主観的で明確な言語化というのは不可能に近く、時たま感じる納得感はこの欲求による洗脳に近いと僕は思う。

 友人(ここではYとしておこう)Yはこの欲求に抗うことに対して頑固な男である。彼は普段こそジックリと堅実に温厚で視野が広く物事を捉えるが、自由意志が強く考えが縛られることを嫌った。

 僕は彼の考えに疑問を持ち込むことで理解を深めて同意するに至ったが、彼自身はそれを望んでいる風でもなく、徹底されていた。なので、僕は彼と話すときに必ず反対の意見を出して対立することにしている。その時間は非常に有意義であり、楽しさとしては無類である。

 ふと、僕はあることに気が付いた。

 彼は食事の時、絶対に「美味しい」とは口にしないのだ。かわりに彼は好きか苦手かを口にした。

 僕は黙って彼の考えに疑問を持ち込み、そして感動した。

 美味しいというのは酷く曖昧な感覚的言葉であり、対して好きや苦手は明確な感覚的言葉であった。

 美味しいは曖昧だからこそ感覚を共有しようとする意思がそこにあり、主観的であるにも関わらずまるで客観的であるかのような言い方さえ出来てしまう。

 対して好きというのは人の感覚を理解したい欲求を満たしつつ、明確に主観的である為そこに客観性は介入しない。

 個人の感覚への尊重。多様性への配慮は一目瞭然である。彼はやはり徹底的であった。

 これほど些細ささいなことでさえ、自由や多様性をなるべく削ぎ落とそうとする人間の欲求に僕は極めて深い関心を寄せた。

 人間はこの欲求のことを社会性、調和、常識、普通、空気、など様々な用途で使い分ける。僕は社会性が無く、調和を乱し、非常識で、普通ではなく、空気の読めない人間なので早急にこの欲求を理解することが求められた。

 僕はそれをストレス回避欲求と名付けることにした。ポイントはあくまで欲求であるという点であり、この欲求によって生み出されたコミュニティでは法を破る者が現れればそれがストレスに変わるという性質がある。更にそれを回避するために法に背いた者に対する罰が発生し、やがて排他的コミュニティへと変貌へんぼうげるのだ。

 コミュニティの体系は複数存在する。

 中でも面白いのが、一人ストレスの受け皿を入れておくというコミュニティである。これは非常に強固で分裂しにくく、初めから排他的コミュニティのため人も増えないという性質を持つ。これの面白いところが、ストレスの受け皿となった人間が最もこのコミュニティに固執するという点である。何かの能力に劣っていることが原因で受け皿となる人間は、周りの人間は皆優秀な人間と信じて疑わない為、追従欲求によってコミュニティへの攻撃に対する最大の防御になるというのが強固である理由なのだ。そして大抵受け皿となる人間は「(都合の)いい人」という認識を持たれ、承認欲求すらここで満たせてしまうので、僕が思うに最強のコミュニティである。

 僕やYが所属するコミュニティは最も寛容かつ排他的コミュニティである。その脆弱性はおそらく類稀たぐいまれである。このコミュニティのストレスとなるのはコミュニティを形成しようとするストレス回避欲求自体で、所属しているのは自己肯定感の低い人間ばかりという特徴を持つ。僕らはこのコミュニティに所属していることすらストレス回避欲求によるものであることを自覚している為、どんな時も陰鬱で覇気がなく、皮肉ばかりを口にし、いついかなる時も社会に対して届かない疑問を投げかけるのだ。


 ここまであたかも達観しているような上から目線で語ってきたが結局はこれも僕の妄想であり、この考えを誰かに理解して欲しいという欲求なのだと思う。


×××


 ここまでの流れで大抵の方は察していると思うが僕という人間はナルシストである。その為、現実と理想のギャップとは結果ではなく自分への期待のことであり、いつだって自分を過信しているので他人からの期待値は下がる一方なのだ。

 これは大変な悪循環であり僕の人生を空虚なものにしている要因だが、同時に唯一僕を僕たらしめるものでもある。今現在の自分を説明出来るのはこれだけなのだ。

 この期待というのは恐らく僕の弱点だ。いや、弱点でない部分を探す方が難しいのはそうだが、中でも特に弱い部分と言えよう。それは性質である。これを変えるのは困難であり、極めて大変な努力が必要になる。しかし、知っての通り僕は怠惰な人間である為、期待を変えるのではなく、期待というものを分解して考えることで見た目だけ取り繕ってしまおうと思う。


 まず期待とは何か。

 それは未来である。

 未来とは確定しない情報である。

 ならば期待とは複数の未来の中のある一つを取り上げて備えること──ある種不幸や不安、不運、悲惨、悲痛な未来もまた期待であると言えるので──である。

 ならば前提としてその未来に行き着く末が見えてなければ、期待は生まれないと考えられる。つまるところ僕の最も大きな問題とは、本人が自分の実力を一番理解していないということではないだろうか。そのために他人からの期待とのギャップが発生し、僕は無駄に打ちひしがれているのだ。

 これは他人からのアドバイスを聞かない人間に共通してそうだと考える。

 なるほど、こう考えると思い当たる節がまるで噴水のように湧き出てくる。何とも不思議であった。

 しかし、僕はこれを自覚しつつ、ならばそれを理解するのみにして、時に落ち込み、時に開き直ってやろうと思う。何故ならば僕は怠惰な人間だからだ。

 今の僕は一周回って開き直ることにした。


 僕に期待しない奴の方が悪い!

 失敗くらいしても良いではないか!

 まるで僕が失敗した時の痛みを軽減してやったと言わんばかりに吊るした糸の位置を下げる君らを軽蔑する!

 痛みは大きければ大きいほど良いのだ!

 何故ならば大きな挑戦に対する失敗というのはいつだってプライスレスだからだ!

 僕はきっと大失敗に落ち込むだろう!

 しかしどうだ!

 僕は大失敗からもこうして開き直り、また次に進むために邁進するだろう!

 ならばその時の経験の大きさは決して無駄にならない!

 君らの行為は僕から経験を奪う行為だ!

 経験とは知識だ!

 知識とは時間だ!

 時間とは全ての人類に与えられた平等の権利だ!

 権利を奪っていく君らに僕の時間と同等の対価を払うことは出来ない!

 もう一度言おう!

 僕は君らを軽蔑する!


×××


 布団から頭を出すとまだ寒かった。なんなら、潜る前よりも寒いのではないだろうか。冬の寒さは何故僕らを攻撃するのか。それとも彼らはヤマアラシのようにジレンマを起こしているのだろうか。僕は無知である。無知ゆえに彼らのことも知らない。だから彼らを責めるのは間違いだ。しかし、十二月の空気は否応なしに僕らを刺すだろう。それは地球の意思のような気がして、僕はガイア論の信者になる。

 伴って、人間とは地球のガン細胞だ、と考える。人間が便利に豊かになればなるほど人は増え地球は冒されていく。地球から生まれた我々が地球を破壊し、殺す。まるでガンである。

 地球の自然環境や動物達の保護とは人間の絶滅である。しかし、人間はそれを極論と呼ぶ。

 極論とは何なのか。

 まるで人類を中心に世界が回っているかのような言い草だが、僕はそうは思わない。何故ならば人間など所詮本能や欲求によって行動する野生動物と何ら変わらない一つの生物に過ぎないからだ。植物の方がよっぽど賢明である。

 僕は植物を尊敬する。

 やがて人間が辿り着くのは、ただ働き、金を稼ぎ、技術のレベルを維持し、それを統率する存在がいるだけの世界では? と想像すると、それは正に植物ではないか、と納得する。ならば人間が辿り着く先は植物である。であれば人間は未だ動物の域を出ない。

 故に人間もまた自然である。

 地球の影響を受け続けるのならば人間は自然であり、発展による環境の変化などはビーバーがダムを作るのと何ら大差ないことだ。

 人間がウニを養殖していればラッコが食いにきて人を殺すコトすらある。イノシシやハクビシン、イナゴが人を殺すコトもあるだろう。人間が自然であるならば自然を殺し、自然に殺されるのだ。中でも人間は「地球にとってのガン」というだけであって、生物という点で大きな違いなどない。

 僕はこの考えを持って日々生きることだけを心がけている。思い込みではあるが、恐らく信仰に近い形で普段の考えを支えている。それは、まるで生き物の生殺与奪の権を握っているかのような振る舞いをする人間にとっては不都合な考えだ。故に社会にとって非常に受け入れ難い存在であることを僕は自覚する。

 特別な生物など存在しない。特別とはもっと小さなグループの更に小さな括りで発生するものである。

 野山から街に生息地を移した鳩。

 脚の長いトカゲ。

 尾の短いツバメ。

 産卵時期を変化させたシジュウカラ。

 黒くなったシモフリガ。

 ある分野で突出した能力を発揮する人間。

 これらは生物の特別ではなく、小さなグループの小さな括りでの特別なのだ。

 それは遺伝子であったり、環境であったりが生み出すのである。

 そして、その大元にガイアが存在するのだ。


×××

 

 不思議なもので、生活リズムがめちゃくちゃになったとしても朝が来るタイミングだけはわかるのだ。これは完全に外の光が入らない場所であってもそうだった。

 それは一日に対する不安であるとか、志であるとかを抱くからではないか。基本的にファンタジーなことや絵本のような道徳に溢れた綺麗な言葉は苦手だが、この感覚だけは他に例えようがなかった。

 僕は毎日今日はこうしようと心に決めてはそれを破り落ち込む。それを繰り返す。それは期待である。そして、落ち込んだ昨日は空虚であり、怠惰である。それは平坦であり、欲求である。そして信仰である。これこそ、僕という人間の人生である。


 スマホの画面を見る。

 5:00、少し眠い。


 僕は安心して眠りについた。

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