怪物

 初夏の蒸し暑い空気に包まれていたはずの校門前広場が、急な冷気に襲われる。ブレザーの上着を脱いで半袖シャツの夏制服を着ている生徒も少なくない中でこの寒さは危険だ。だがハヤト達にこの冷気を防ぐ術はない。


 寒さに悲鳴を上げながら校舎へと逃げていく生徒達は、その元凶となる人物の姿を見ずに済んで幸いだったと言えよう。ブレザーを着ていた生徒達は寒さに耐えられたので、好奇心から声の主を見てしまう。そして先ほど逃げた生徒達とは別の理由で悲鳴を上げることになった。


「なんだあれは……」


 ハヤトは声の主を見て、それしか口から出てこなかった。これまでに喋る猫やライオンを見て魔法にも接してきた彼でも、にわかには受け入れがたいモノがそこに立っていたのだ。ユカとチヒロもそれまでの口論はどこへやら、抱き合って悲鳴を上げている。


◇◆◇


 昨晩、自宅に帰ったミサキはさっそくハヤトを魅了する魔法を使った。魔法の知識があるわけではない彼女は、ただ自分の魔力を感じながら強く願うだけだったが、これまで使った魔法はそれで全て上手くいっていたのだから、問題ないだろうと思っていた。


 そして期待した通りに、自分の魔力が大量に失われるのを感じる。強い疲労感に襲われながら、魅了魔法の成功を確信した彼女は満足してそのままベッドに横たわったのだ。もちろんその頃のハヤトには何の異常も発生していない。


 朝、目が覚めるとなんだか身体が軽い。魔法を使えるようになったからだろうか。魔力を消費した疲労はすっかり消え、むしろ前より元気なくらいだ。部屋を出てリビングに向かう。おかしい。いつもなら母親が朝食の準備をする音が聞こえてくる時間だが、家の中は静まり返っている。朝から家族がどこかへ出かけているのだろうか?


 さっきからあちこちに身体をぶつける。どうにもいつもの感覚と違うようだ。まるで身体が大きくなったみたいに。これも魔法を使えるようになった影響だろうか?


 リビングに入ると、そこには美味しそうな食事が用意されていた。良かった、忘れられていたわけじゃなかった。なんで黙ってどこかへ出かけたんだろう。そう思いながら食事を貪り食う。一心不乱にそれを口へ運ぶ彼女は、リビングに漂う異臭にも気付かない。部屋中を赤黒く染め上げているあびただしい量の血液にも。そして、自分が食べているものが血の滴る何かの肉であることにも。


 家を出て学園へと向かうミサキの頭は、ハヤトに会ったら何を言おう。熱烈に求愛されたらどうしようなどという妄想でいっぱいだった。だから周囲の騒ぎにも気付かない。途中で何かの制服を着たおじさんが立ちはだかって叫んでいたが、邪魔だなあと思うだけだ。ちょっと手で払ったらどこかへ消えたので、すぐにおじさんのことも忘れてしまった。


 そういえばいつも電車に乗っているはずだけど、駅の改札を通った覚えがない。でもいつもと同じくらいの時間に阿僧祇学園の校門が見えてきたから、電車に乗ってきたのだろう。ちょっとハヤトのことを考えるのに夢中になって移動中の記憶も曖昧になっているようだ。これはいけない。これから愛しいハヤトと逢うのだから、しっかりしなきゃ!


 そうしてやってきた校門前広場では、風紀委員長とユカが言い合いをしている。ハヤトとの仲が噂になっている件のようだ。まったく、どこまでも目障りな女だ。でも今日は腹を立てたりはしない。むしろ憐みの目で見てしまうわ。だって……ハヤトの心は私のものなんだから!


◇◆◇


 ハヤト達の前に現れたのは、おぞましい怪物だった。見上げるほどの巨体は高さ三メートルぐらいはあるだろうか、人間のように二足歩行しているが、そのシルエットはとても人型とは言えない。小さい山が動いているような、何とも輪郭のはっきりしないこんもりとした肉塊だ。


 その身体中の肉はところどころビクビクと痙攣するような動きをしていて、時々黒っぽい液体を噴き出している。臓物を思わせるグロテスクな生肉が、溶けたように流れ落ちたかと思えば、また身体に戻っていく。よく見ると、肉塊に見える身体は触手のようなものが束になっている形状のようだ。


 そして、触手の中から覗いているのは女性の顔だ。皮膚はただれて紫色に変色しているが、それがクラスメイトのミサキに似ていることにハヤトは気づいた。何が起こったのかは分からないが、ミサキがとんでもない怪物に取り込まれてしまったのではないかと考える。助けなくてはと思うが、その顔はとても生きている人間のものには見えなかった。それに、先ほどの言葉。自分の心がなんだというのだろうか。自分の心境に特段の変化は感じられない。もちろん魔法と接してきて思うところは多々あるが、そういうことではないだろう。


「お前は……なんだ? ミサキをどうしたんだ!」


『何を言っているの、ミサキは私よ。見て分からない? ねえ、何をそんなに怒っているの。私のものになったんでしょ。だって魔法は確かに発動したんだから』


 怪物が近づいてきた。その外見からは想像もつかないほどのスピードで迫りくる勢いに、ハヤトは驚きのあまり光の盾を出すことも忘れて身を縮め、その突進に跳ね飛ばされてユカとチヒロの傍に倒れた。


「ハヤト先輩!」


 恐怖に竦んでいたユカだが、謎の怪物に跳ね飛ばされたハヤトを見て声を上げる。恐れよりも知り合いの身を案じる気持ちが強く生まれ、身体の委縮も解けた。もうこれ以上知り合いを失いたくないのだ。すぐに彼女は両腕を伸ばし、回転させるような動きをして呪文を唱えた。


「パワーアップ!」


『あら、ハヤト。どうしたの? なんで地面に寝っ転がってるの。分かった、そこの変なポーズをしてる小娘が何かしたのね!』


 怪物は異様な速さで触手を伸ばしてユカを打ち据えるが、魔力で強化されたユカの身体はそれに耐えた。だが効かないわけではない。あまりの衝撃によろけて膝をつくと、身体に触手が巻き付いてくる。せっかく魔法で肉体を強化したというのに、あっさりと捕まってしまった。


「この化け物、ユカさんを放しなさい!」


 恐ろしいが、下級生であるハヤトもユカも怪物にやられてしまった。このままでは二人の命が危ないと思ったチヒロは、とっさに触手を持っていた鞄で叩く。


『ぎゃあっ』


 怪物の身体にそんな攻撃は効かないが、ミサキの精神は鞄で叩かれたという事実に反応して叫び声を上げる。すぐにハヤトも触手で捕まえて、猛烈なスピードで飛び去ってしまった。


「待ちなさい!」


 逃げていく怪物に制止の言葉を投げかけるが、とても追いかけられるものではない。もう怪物がどこに行ったか分からなくなり、チヒロはその場で立ち尽くす。


「どうしよう……ハヤト君とユカさんが」


 どうにもできずに涙を流す彼女の肩に、何者かの手が置かれる。ビクリと身体を振るわせて振り返ると、そこにはユウヤがいた。


「落ち着いて。君は安全な場所に生徒達を誘導するんだ」


 そう言ってチヒロを校舎へ向かわせると、ユウヤはミサキの飛び去った方を見てポツリと呟いた。


「……選ばれなかった者の末路は、悲惨だね」

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