その名はミドリ

 流暢に喋りながら歩く黒猫の姿に仰天したハヤトは思わず叫び声を上げたが、すぐに自分が不味いことをしてしまったと考え、口を閉じる。喋る猫ももちろん異常だが、こんな時間にこんなところで三角帽子に黒ローブを着て猫と会話している女性なんて、関わってはいけない人物の上位に食い込む存在だろう。叫び声を上げたせいで、完全に自分のことを認識されたし、自分が喋る猫を目撃したことも知られている。この場から走って逃げるべきかとも考えたが、その行動が異常者を刺激してしまう可能性も多分にある。結局自分の次の行動を決めかねたハヤトは黙ってその場に立ち尽くすしかなかった。


 実際には汗など流れていないのに、背中を冷たいものが流れ落ちていくような感覚に襲われる。〝まーちゃん〟の噂が頭をかすめた。魔法を使えるようになった人間が現れたと噂になるのに、魔法を見たという噂はまるで流れない。もしそれが嘘ではないのなら、どんな理由が考えられる? 魔法を見た者がいないのではなく、魔法を見た者が誰もそのことを言わない、いや言えないのではないのか。


 だが、事態はハヤトの想像とはかけ離れた展開を見せる。


「おっ、現地民発見にゃ!」


「あっ、こんばんは! 地元の方ですか?」


 その女性と猫は極めて友好的な態度で話しかけてきたのだ。近づいてきたために女性の顔がよく見えるようになった。おとぎ話の魔女のような服装をしているが、その容姿は魔女のイメージとは程遠い、若く可愛らしい女性だった。大きめの丸い眼鏡をかけており、髪は三つ編みにしている。黒髪に丸みのある輪郭の顔を持つ彼女は、一見して日本人のように見える。


「え、あ、こんばんは」


 恐怖に身体を強張らせていたハヤトは、予想外の状況についていけず気の抜けた挨拶を返すことしかできなかった。


「ミウ達は探し物をしてるにゃ。この辺に『回転する炎の剣』はないかにゃ?」


「ほのおのつるぎ? いや、そんなもの見たことないけど」


 言葉を喋る猫の口から飛び出したのはゲームの世界にでも出てきそうなファンタジックワードだった。自分は夢でも見ているのではないかと思えてくるが、確かな存在感をまとう猫と魔女は、とても夢の中の住人には見えない。


「私達は空を目指しているんです。そこへ行く道の目印と言われているのが『回転する炎の剣』なんですけど、きっと言葉通りの物ではないんでしょうね」


 若い魔女が右手を自分の顎に当て、考えるような仕草をする。ハヤトには見慣れた仕草だった。そのせいだろうか、彼女達の力になりたい気持ちが湧いてきてしまった。


――それが自分の人生を大きく変える重大な選択になるとは知らずに。


「回転する炎……剣……か。ごみの焼却場とか? あんまり剣ってイメージじゃないか」


 ハヤトは『回転する炎の剣』という言葉から連想されるものを考え始めた。すると、すかさず黒猫が明るい声を上げる。


「手伝ってくれるにゃ? 現地民の協力があると捗るにゃ!」


「え? あ、そうだね。何か役に立てることがあるといいんだけど」


 深く考えずに猫の言葉を肯定するハヤト。何故か魔女の方が「あっ」と小さく声を漏らし、黒猫の方を困ったような顔で見つめる。


「にゅふふ、言ったにゃ? ならこれで契約完了にゃ」


「契約?」


「ミウさんはこう見えて契約を司る悪魔なんです。彼女の前では単なる口約束も契約とみなされ、魔王ですら破ることを許されません」


「こう見えては余計にゃ!」


「え、魂とか取られちゃうの?」


 悪魔や魔王という言葉が魔女の口から飛び出し、ハヤトはまたもや狼狽える。現実主義者の彼がこれまで馬鹿にしてきたようなことを口にするが、彼は現実主義者だからこそ目の前で繰り広げられる不思議な光景を無暗に否定したりはできないのだ。


「魂なんか求めてないにゃ。契約違反者にはオシオキするだけにゃ」


「もう……でも手伝ってくれると助かります。私達はさっきこの国にきたばかりなので」


 得意げに語る猫を困ったものだとばかりに見つめるが、またハヤトに顔を向けると魔女は自分からも協力を求める言葉を口にする。


「さっき? じゃあ君達はどこから来たの?」


「秘密にゃ。そんなことより、自己紹介するにゃ。もうお前は逃げられないにゃ」


 黒猫はそう言ってジャンプするとハヤトの肩に飛び乗る。ズシリと重い感覚が肩に生まれるが、衝撃はまるで感じなかった。何とも不思議な気分だが、心の中にはこの状況を楽しんでいる自分がいた。


「僕は織崎颯音。何となく日々を過ごしている高校二年生だよ」


 特に自分のアピールポイントが見つからなかったハヤトは、自分がどこにでもいるごく普通の高校生だと紹介した。


「ミウだにゃ」


「私はミドリといいます。こう見えて魔法には自信があります」


 ミドリはどう見ても魔法に自信がありそうな服装をしているのだが、そこに突っ込みを入れるよりも前に、ついに魔法の存在をはっきりと宣言されたことにハヤトの興味が向かう。


「魔法!? やっぱり魔法を使えるんだ」


「見ればわかるにゃ」


「いや、だって魔法なんて物語の中でしか聞いたことがないし、それに……」


 ハヤトはミドリとミウに、ここでは魔法というものは非現実的なものと認識されていることと、最近その魔法を使えるようになった人間が現れているという噂のことを話した。


「急に魔法が使えるように……?」


 なぜか嬉しそうに目を輝かせるミドリ。


「ミドリは不思議大好きっ子だからにゃ。でも臭うにゃ。ミウ達の目的と無関係ではないかもしれないにゃ」


「心当たりがあるの?」


「ただの勘にゃ。でもきっと関係あるにゃ」


 ミドリとミウは空を目指してさっきこの国にきたばかりだと言う。先ほどの様子を思い返すと、以前からこの辺に潜んでいたとは到底思えない。彼女達が空を目指す理由は分からないが、時系列的に〝まーちゃん〟の噂とは直接的な関係はないだろうと思うハヤトなのだが、肩の上で顔を洗うミウの言葉には不思議と確信のようなものを感じるのだった。

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