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「あの時も…俺が誤解されるような事をしただけで、何もなかった訳だし。堂々としてればいいって、母さん見て思い出してさ」


じんの母とは、義母の事だろう。彼女はミュージカル界のスターだ。再婚時や離婚時が大変だったというのは聞いていたし、彼女は仁よりも有名だから、私生活についての報道も、今回の比ではなかっただろう。


「それよりごめん、俺のせいで澄香すみかに負担掛けて。もし、また何かあったら遠慮なく言って。俺はこういう商売だから仕方ないけど、澄香が見せ物にされるのは耐えられないから」


困ったように下げられた眉、澄香はその申し訳なさそうな、心配そうな瞳で見られるのが落ち着かず、騒ぎ始める胸に気づき、慌てて目を逸らした。


「…ありがとう。でも、俺は大丈夫だよ。今までこうならない方が不思議だったんだから」


澄香が苦笑えば、仁は顔を伏せ、躊躇いつつも口を開いた。


「…本当は、あの時バレそうだったんだ」

「え?」

「だから、別れたんだ。巻き込めないと思って。突然だったし、傷つけてごめん」


だから別れた。つまりあの時とは、別れ話を切り出された、あの時だろうか。

頭を下げる仁を、澄香は呆然として見つめた。思いもしない別れの理由に、上手く飲み込めず困惑している。


「でも、蛍斗けいととそういう仲になってるとはな…あの時は驚いたよ」

「…それは、」

「でも、同時に安心したんだ。蛍斗なら大丈夫だと思ったし、そもそも俺が勝手に別れるって言ったんだから、俺がとやかく言えないんだけどさ」


自嘲する仁に、澄香は何を言えば良いのか分からず、俯いた。


「…蛍斗とはどう?」

「…仲良くやってるよ」

「そう、良かった。あの時は…酷い事言ってごめん」


再び頭を下げる仁に、澄香はふるふると頭を振って顔を上げさせた。その戸惑いの表情を仁はどう見たのだろう、仁はそっと眉を下げた。


「あいつワガママな所あるけど、それも寂しがり屋で甘えたくても出来なかったっていう思いの裏返しだと思うんだ。だから、本当に良い奴だから」


一度兄の顔を浮かべたが、それもつかの間、仁はどこか寂しそうに笑った。泣きそうだと思ったのは、自分が泣きたくなったからだろうかと、澄香はぎゅっと前掛けを握った。


「…よろしく頼むよ」

「…うん」


俯き頷いた澄香の頭に仁は手を伸ばしたが、それは澄香の頭に触れる事なく、澄香の肩にそっと手を乗せた。

澄香はその温もりを懐かしく感じ、感じればまた胸が騒ついて、唇をぎゅっと噛みしめた。








それからは、面白がって来る客もなく、今日は早めの店仕舞いにしようという事となった。

仁はしょうが焼き定食を平らげ、今は、マネージャーが車で迎えに来るのを待っているところだ。仁が店の前で話したという動画はすぐにネットに上がったらしく、それを見たマネージャーが、勝手な行動をした事を怒りに来るんだと、冗談めかして言っていた。


時間がまだあったので、仁も店の片付けを手伝ってくれている。その中で、仁はふと澄香に声を掛けた。


「俺、アメリカに行く事にしたんだ」

「え?」


澄香はテーブルを拭く手を止めた。またもや思いがけない言葉に、一瞬思考が止まったようだった。


「今の公演が終わってからだけどさ、オーディション受けに行くんだ。落ちてもそのまま向こうに残るつもりで、色々準備進めてて。日本にいると…追いかけそうだしね」


そう向けられた眼差しに、澄香は落ち着かず視線を逸らした。仁の瞳は、まるで、澄香が好きだと言っているように感じられたからだ。


「二人を見てるのもさ…。だから、今かなって。ずっと挑戦してみたかったんだ…なんて後から言っても女々しいな。こんな事言って、澄香の中に少しでも俺が残れば良いと思ってる、情けないな」

「そんな、俺だって、」


俺だって。そう言いかけて、澄香ははっとする。

自分は今、何を言おうとしたのか。

視線が重なり、澄香は込み上げる何かを止めようと、再び視線を逸らした。


「…いつ発つの」

「…三ヶ月後かな。あ、もしアメリカ行っても、何かあれば連絡くれよ」

「大丈夫だって。…見送りに行ってもいい?」

「ダメだよ、連れて行きたくなるから」


仁は冗談めかして笑った。店の外から車の停まる音が聞こえる。仁のマネージャーが迎えに来たのだろう。


「じゃあ、行くね」


それから仁は、澄香に手を差し出した。


「最後に、握手していい?」


澄香は躊躇いつつ手を差し出す。大きく包む優しい手に、溢れる思いは何て名付ければ良いだろう。


「…ありがとう、ごめん」


優しい声に、澄香は俯いたまま、二人は手を放した。




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