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それから澄香すみか蛍斗けいとは、暫くの間、会う事を控える事にした。

その提案を持ち出したのは、澄香だった。蛍斗もゆくゆくは表に出る人間だ、兄の次は弟かと騒がれでもしたら、蛍斗に迷惑がかかると思っての事だった。



だが、じんの動画が功を奏したのか、そもそも実際は本当にただの悪ノリで、疑いすら持たれていなかったのか、二週間もすれば、世間は仁と澄香の事など何も無かったかのように、話題にも上がらなくなった。


澄香は自分の部屋で、ネットに上がった仁の動画を見ていた。


ー「彼は、大事な友人なんです。舞台で上手くいかない時はいつも励ましてくれて、理由とか聞かないで、大丈夫だと背中を押してくれる良い奴なんです。そんな友人を、こんな騒動に巻き込みたくないんです。彼は、友人以外の何者でもないんです、もし何か聞きたい事があるなら、俺に聞いて下さい。あの店にも迷惑かけたくないので。あの店は、俺が学生時代からの味を、代替わりしても同じ味で食べられる大事な店でもあるんです」ー


「お願いします」と、仁は頭を下げていた。

仁が相手にしなくても、その内騒ぎは自然と治まっていたかもしれない。それでも、仁はちゃんと否定して、守ってくれた。友人として。

仁に振られた時も、愛想を尽かされた訳ではなく、自分を守る為だったと聞いた事を思い出し、澄香は溜め息と共に膝を抱えた。あの時、どうしてもっと仁の事を考えなかったのだろう。そうしたら、きっと今も。


「…俺達は、恋人だったのかな」


呟いて、何考えているんだと、澄香は自分が嫌になり、ベッドの上に体を放った。

この狭い部屋には、仁と過ごした思い出がある。テレビで流れたミュージカルナンバーがかっこよくて、歌ってみてと仁にねだった事もある。そこは、さすがはプロのミュージカル俳優だ、控え目の声量にもかかわらず、隣の部屋の住人から煩いとお叱りを頂戴してしまった。どんなに歌が上手くとも、近所迷惑には変わりない。近所迷惑を掛けた事は申し訳ないが、ああやってはしゃいで騒いだ事も、今では良い思い出だ。


そう、もう思い出なのだ。仁との恋は全て、更新される事はない。


澄香はベッドから起き上がると、カーテンを閉め忘れていたベランダへと目を向けた。

そこにはぽっかりと浮かぶ月が見える。星なんて見えない東京の月は、一人芝居の舞台のようだ。

堂々として、注目を浴びて、誰にも頼らず一人で立っている。

胸の奥が、ぐるぐると唸りを上げる予感に、澄香は再びベッドに突っ伏した。こんな時は、いつも頭を撫でてくれていた。その手は、誰のものだったか。思い出してしまいそうな自分を必死に戒める。


全て、終わった事だ。今とあの時とは違う。ちょっと思い出して懐かしんでしまっただけ。仁に嫌われた訳じゃないと、知ってしまっただけ。

それも全て終わった事。


ぼやけ始めた月に、澄香はぎゅっと目を閉じた。






澄香が見上げた月を、蛍斗もスタジオの帰り道で見上げていた。彼の頭に過るのは、澄香の姿だ。

蛍斗も、仁の動画は知っていた。ネットでは、友人思いの仁の行動が評価されたと騒がれていたので、動画を見るまでもなかった。

仁は、良い兄だった。蛍斗だって、兄が出来た時は嬉しかった。新しい父がいつの間にか家を出たと聞き、蛍斗は必死に仁の体に抱きついて離れなかったのを覚えている。また、ひとりぼっちになるのかと怖かったからだ。

母からの愛情は感じていても、母はとても忙しい人だ。それが自分の為だとも分かっているから、蛍斗はいつも頑張って寂しさを我慢していた。でも、共に居てくれる兄が出来た。仁も片親で育ったからか、幼い頃から家事は何でも出来たし、勉強も教えてくれた。ピアノも歌も褒めてくれた。いつの間にか仁への思いはコンプレックスへと変わってしまったけれど、蛍斗にとって仁は自慢の兄だ。

自分はとてもじゃないが敵わない、認めたくはないが、憧れの存在だった。


蛍斗は月から目を逸らす。


もし、遊園地に行った相手が自分ではなく仁だったら、澄香はあんな風に不安にならなかったのだろうか、もっと上手くフォロー出来ただろうか、泣かせたりしなかったのだろうか。


側にいると言ったけど、それは単に自分の我が儘だ。澄香が誰の側に居たいかは、蛍斗には明白で、自分が手を離せば、澄香は仁の元へ行くだろう。

こうして会わない時間も、澄香にとっての気持ちの表れかもしれない。そう思えば、蛍斗には他に選択肢が浮かばなかった。

会えない時間がもどかしくも、少しほっとする。心の整理をするには、時間が必要だからだ。






「…仁の事、いいの?」


久しぶりに蛍斗の部屋で会った夜、蛍斗は澄香にそう尋ねた。仁と暮らした部屋も、今は蛍斗一人で使っている。

表向きはまた騒動が起きるといけないからと言っているが、仁は澄香と蛍斗を気遣い、事務所の寮で暮らしているようだ。


あれから一ヶ月、会いたいと連絡を入れたのは蛍斗だ。騒動も治まりを見せ、蛍斗とどう連絡を取れば良いか迷っていた澄香は、蛍斗からの連絡に、二つ返事で頷いていた。

簡単なメッセージのやり取りはしていたが、澄香は少し不安だった。会わないようにしようと提案したのも自分だし、蛍斗は好きだと言ってくれたけど、自分から明確な答えはまだ示せていない。

自分たちはまだお試し期間で、お試しとはいえ、蛍斗は自分を恋人と呼べるような関係に置いてくれているのか、澄香は少し不安だった。


いい加減、蛍斗に甘えてばかりいてはいけない。ちゃんと、蛍斗に気持ちを示さないと。澄香はそんな覚悟を持って蛍斗の部屋に向かったのだが、部屋に入るなりの単刀直入の問いかけに、澄香は不安を覚えながらも頷いた。


「…どうして?仁とは別れてるし。今回の事は驚いたけど、友達として庇ってくれたんだよ、感謝してる」


仁にとっても、妙な事で騒がれるよりは良い筈だ。そう答えた澄香だが、蛍斗にはどう聞こえたのか。


「ふーん、じゃあ…俺とこういう事しても、いいの?」


そう言って、蛍斗がソファーに澄香を押し倒した。唐突なそれに、さすがに澄香は驚いて、咄嗟に蛍斗を押し返そうとしたが、その手が不意に止まる。

蛍斗の目が、どこか辛そうに歪むのに気付いたからだ。

澄香はその瞳に戸惑い、蛍斗の胸を押し返そうとした手を下ろすと、自分の肩を掴んでいる蛍斗の手に触れた。蛍斗の指が小さく震えたのを感じて、澄香はそれをぎゅっと握りしめる。蛍斗も、不安だったのだろうか、こんな風に傷つけていたのかと思えば、澄香の胸は途端に苦しくなる。

蛍斗は、いつも優しく包んでくれた、守ってくれた。辛い時は、いつだってこの手が助けてくれた。獣憑きの症状が出ても、周防の家に行く時だって、蛍斗がいたから安心していられた。

蛍斗の事が、やっぱり大事なんだと、触れて欲しいと思えるのも、もう蛍斗しかいないのだと気づいてしまえば、澄香は途端に身体中が沸騰するような思いだった。


そっと目を伏せる蛍斗に、澄香はその瞳を見上げて、握った蛍斗の手を両手で掴むと、自分の頬へ触れさせた。それから、赤くなった顔のまま、ぎゅっと目を閉じた。


「…いいよ」


澄香は覚悟を持って、そう呟いた。

どきどきと跳ねる心臓が恥ずかしい、それでも蛍斗を思えば、どんな事だって乗り越えられる。蛍斗はきっと、こんな思いごとその腕で包んでくれる。包まれる事を、澄香は望んでいた。




だが、蛍斗の手が、それ以上澄香に触れる事はなかった。

蛍斗はきゅっと唇を噛みしめると、澄香の上からさっさと退いてしまった。


「…俺は気に入らない」


離れる温もりに、澄香は目を開けた。ソファーの上に座ってこちらを見ようともしない蛍斗に、澄香は上体を起こすと、不安そうに蛍斗を見つめた。


「あの、」

「仁の事考えてる奴と居たって面白くないし」

「…え?」

「仁の悔しがる顔も見れたし、もういいよ」

「ちょっと、どうしたんだよ」

「俺の気は済んだから、仁の所に行けば?」

「な、なんで?俺達、」

「ただのお試しだろ?」


そう言うと、蛍斗は澄香の荷物を持って澄香の手を引くと、有無を言わさずに澄香を玄関から追い出した。彼の荷物をその胸に押しつけると、冷たい夜の空気が、二人の間に入り込む。

澄香の傷ついた顔を見ることは出来なくて、蛍斗はさっさと視線を逸らした。


「無理して忘れる事ないよ、自分だって分かってるんでしょ?」

「なんで?俺は、」

「じゃあね」


何か言いかけた澄香の声を遮って、蛍斗は無理矢理ドアを閉めた。そして、蛍斗は心に蓋をする。

気持ちを押し込める事は簡単だ、今までいくらでもやって来た、今更どうという事はない。


「…クソ」


なのに、どうしてこんなに苦しくて痛いんだろう。

こんなつもりじゃ、なかったのに。


蛍斗はドアを背にしゃがみ込んだ。

そのドア一枚隔てた先に、澄香がいる。


「……」


澄香は叩こうとしたドアに手を当て、こつんと額をつけた。

どうして、そんな事言うんだよ。俺は、と思いかけて、澄香は帽子を深くまで被ると、静かにドアの前から姿を消した。




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