二日目





「鈴、今日何時に帰ってくる?パパも今日から休みだから、皆でお昼どこかに食べに行こうかなぁって昨日の夜 話してたんだけど……」


「あぁ、うーん。お昼は跨ぎそうだから私はいいや」

「あら……そう?」

「うん、みんなで行ってきてよ」

「じゃあ、これお昼代ね。好きなもの食べなさい」



「ありがとー」と、大して心のこもっていない声で返し、千円札を1枚受け取る。補習2日目の今日は、私が唯一受けている英語が一限目に組まれているので、8時50分の開始までに学校に行かなくてはならない。つまるところ、私の朝は早いのだ。



夏休み真っ只中ということもあり、午前7時半を回ったばかりの今、起きているのは母親だけ。父も妹も今頃まだ夢の中だ。羨ましいとは別に思わない。むしろ、家族でのランチタイムを断る理由ができて有難いという気持ちの方が強かった。



父と妹は、私とは血のつながらない家族である。ものごごろ付いた時には既に私に実父はおらず、母とふたり暮らしだった。


母が再婚を決めたのは私が中学2年生の時。止める理由がなかったので、母から再婚の話をされた時、私はすぐに頷いた。父には、私の3つ下にあたる子供がいた。穏やかで大人しい、害のあるような子ではなかった。



新しい家族という形でともに暮らすようにようになってから早3年が経つが、私は居心地の悪さを覚えていた。優しい母と、父と、妹。申し分は何もないはずなのに、「なんか嫌だ」という、特別な理由がないまま家族と距離を置くようになってしまった。



私だけなのだと思う。私だけが、ずっと家族になり切れていないのだ。そんな自分を誤魔化すように、私は家族との時間を避けている。このままじゃダメだと思っていたのはいつまでか。高校生になってからは、変わりたいとすら、もう思わなくなっていた。




「行ってくるね」



母からもらった千円札を財布にしまい、軽く声をかけて玄関に向かう。「いってらっしゃーい!」と、ふたりで暮らしていた時から何も変わらない母の明るい声色で送り出され、私の中にわずかに残る良心がきゅうっと痛んだ。






7時50分。普段学校がある日も、私は比較的余裕をもって学校に来るようにしている。誰もいない、朝の教室が好きだった。完全に登りきらない太陽も、朝特有の爽やかな風も、部活動の準備をする生徒たちの声も、全部私のお気に入り。



窓際の列の後ろから2番目が私の席だった。カタン…と椅子を引き、腰を下ろす。鞄を枕にするようにそこに頭を乗せ、窓の外に広がる景色をぼんやりと見つめた。


空が青い。優雅に鳥が飛んでいる。蝉は今は静かだが、授業が始まる頃にまたきっとミンミンと一斉に鳴きだすのだろう。ぼーっとしていると、だんだん瞼が重くなってくる。授業開始まで1時間弱、浅い夢を見に行くこともまた、日課のようなものだった。



「……あ?寝て……る?」



瞼が完全に落ちかけた時。カタン…と椅子を引く音が聞こえ、同時に細い声が落とされた。首だけを回し、なんとか瞼を持ち上げながら声がした方に顔を向ける。視界に、なめらかな金色が広がった。



「……え?」

「あ、寝てなかった。ごめん、起こす気はなかった」





何度か目を瞬かせながら私は身体を起こし、状況を理解しようと試みる。


何故、相馬くんがいるのか。


もちろん私の隣の席が相馬くんであることに間違いはないけれど、時刻はまだ8時を過ぎたところ。夏休み前に学校に通っていた時、相馬くんはいつも始業ぎりぎりに教室に来ていたから、こんなにも早い時間に教室にいることが不思議でならなかった。



「はよ」

「お……はよう、ございます」



ぎこちない挨拶。暑さと緊張が相まって、至るところから汗が出ている感覚があった。どうしてこんなに緊張するのかわからなかった。机に突っ伏して首だけを私に向けた相馬くんが、「八月朔日」と私の名字を紡ぐ。ホヅミ。その3音がすとん…と私の中に溶けていく。



「あんた、いつもこんなに朝はえーの」

「えっと、うん」

「ふうん」



興味なさそうに相槌を打たれる。今の返しは間違ってしまったような気がした。相馬くんはどうしてこんなに早いのとか、話を少しでも広げられたらよかった。こういうところが、友達が多くできない理由なのかもしれない。



普段の私は、ひとりでいることの方が圧倒的に多い。1年生の最初の頃に仲良くしていた人とは、2年生になってから一度も話してはいない。このクラスでも、用事がある時以外で話しかけてくれる人はいるだろうか。私が友達と呼べるのは一体何人いるのだろうと考えて虚しくなる。



「俺はたまたまね」

「え?」

「姉ちゃんが仕事ついでに送ってくれるっていうからさ。暑くて早く目ぇ覚めたし、かと言って歩くのもだりーなってことで、ちょうどよかったから車乗せてもらった」



何もこちらから聞き出してはいなかったが、相馬くんが話を繋いでくれた。人見知りだと思っていたけれど、それは違ったみたいだ。私みたいなクラスメイトにもちゃんと話しかけてくれる。


嬉しさを噛みしめながら、「そうなんだぁ」と、またつまらない返しをしてしまった。相馬くんに興味がないわけじゃない。むしろ、その逆である。



「八月朔日」



相馬くんが私を呼んだ。金色の髪の毛をくしゃりと掻き、どこか言いづらそうに、だけど何かを聞きたそうに、「あのさぁ」と口を開く。




「昨日の、そのー……落書き。捨てた?」



昨日の落書き。捨てられるわけがない。というかそんな気はサラサラなかった。木下先生にそっくりの男性の横顔のことを、本当は聞かれずとも詳しく聞いてみたかった。相馬くんはたしか部活動無所属だったような気がする。にもかかわらず、美術部なみのデッサンの実力。あの落書きは、作品としてすでに出来上がっていた。


ブンブンと大きく首を横に振ると、ふはっと笑われる。何故笑われたのか、その理由はわかりそうになかったが、相馬くんの纏う空気がなんとなく優しかったから私の反応は良しとすることにした。



「ファイルに入れて飾ってる」

「飾ってんのやーば」

「すごく……すごかった、見惚れたの」




相馬くんの瞳に木下先生はあんな風に映っているのだと、彼の世界を除いてしまったような、そんな気持ちにさえなったのだ。繊細なタッチで描かれたそれは、思いだすのが容易なほど私の脳内に焼き付いている。美しかった。素晴らしかった。羨ましいとも、思ってしまった。




「八月朔日にあげてよかった。俺が持ってても、どうせ捨てちゃうからさ。自分が大切にしてるもの誰かに大切にしてもらえるの、やっぱ嬉しいわ」


「え…」


「好きだと思っちゃったんだよなー…」




相馬くんの瞳は、私の向こう――窓の外、どこか遠くを見つめている。物憂げな雰囲気に呑まれてしまいそうだった。「大切にしているもの」「好きだと思っちゃったもの」が具体的に何を指しているのかは分かりそうになかった。



「朝、いいな」



ふと、独り言のように呟かれたそれに、「うん」と精一杯の返しをする。朝は良い。空気が澄んでいる。自分が抱えるくだらないジレンマもどこに向けていいか分からない感情も、全部許されたような気になるのだ。孤独が苦しいのが夜だとするならば、ひとりが恋しいのが朝。私は多分、朝に向いている。それだけは、自分の中に確信があった。



「起きれたら、明日も早く来る。俺どうせ1から3限まで全部あるから」

「がんばって…」

「八月朔日も」




良い朝を過ごしたその日、私は1限の補習を終え、相馬くんとまだどこかぎこちない「また明日」を交わした。


その後 家の近くにあるファミレスに寄り、3時間ほどひとりでランチをしてから帰った。心が穏やかで、どうしてかとても、満たされた気持ちになった。

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