晩夏光

七依茶子

一日目




全開にした窓の向こう側では、照り付ける太陽の元ミンミンと蝉が鳴いている。吹き抜ける風は無く、教室の一角では対象者が曖昧なまま業務用扇風機が首を振っている。時折背中に来る微風が、やけに涼しく感じるのだった。



「じゃあ10分あげるのでー、配ったプリントの問3、一旦自力で解いてみてくださーい」




8月1日、午前11時15分。


世の高校生は夏休み真っ只中であるこの時期に、白い半そでブラウスと紺色のスカートを身に纏い木製の机に向かう私と、教室内にいる十数人の生徒。共通点は『補習対象者』であること。



夏期補習は、前期期末試験で国数英の3教科6科目のうちふたつ以上赤点を取ったものが対象となる。私は国語と数学は平均点より上――いやむしろ成績上位者であるにも関わらず、英語が壊滅的であり、コミュニケーション英語と英語表現の2科目でしっかり赤点を取ってしまったがゆえに対象者に値している。


8時50分から、50分ごとに3教科ランダムで時間割が組まれている。期間は一週間。私は英語のみが対象なので、一日50分耐えれば解放されるけれど、3教科すべて補習対象になっている生徒は、扇風機の微風しかない空間で午前中を過ごさなければならないという地獄ぶりである。



補習初日の今日、英語は3限目に組まれていた。英語教師の木下先生の指示で、各自で長文読解をする時間を与えられた今、教室内は静まりかえっていて、シャッシャッとシャープペンシルで紙を擦る音やぱたぱたと襟元を扇ぐ音さえもが聞こえる。



左手にシャープペンを持ち、机に肘を立てながら、一文字たりとも読み取れそうにない英文をぼんやりと見つめる。私は将来英語を使う仕事に就きたいわけでもなければ、海外旅行への願望もない。使いどころのない科目の学びに費やす時間ほど要らないものはないよなと、典型的な言い訳を思い浮かべていた矢先。



ブーン、と、黒い何かが目の前を過った。




「ぅ、わぁっ」



反射的に声が洩れた。身体を揺らした反動で机上に置いていたペンケースは滑り落ち、カラカラと渇いた音を立てて床を転がっていく。40人の机と椅子に対して使用者が十数人の教室にはやはり音が響きやすく、その場にいた生徒全員の視線が一斉に私に集まった。



八月朔日ほづみ、大丈夫かー」



夏の嫌いなところである。虫が多発する。教室内が静かすぎることもあり、羽の音が鮮明だ。気持ち悪さが3割増し。おまけに、今私の目の前を過った物体は割と大きめだった。ぐるりと一周してすぐに窓から出ていったのかは分からないが、辺りを見渡すも虫の姿はもう捉えることはできなかった。



「だ、大丈夫です、すみません」



木下先生にそう言って私は首を振り、紅潮していく頬を髪の毛で隠すように俯いた。


考えていた英語への不満は忘れ去り、散らばったペンケースの中身を拾うべく席を立ち、周りに散らばったそれらを急いで回収する。全て拾って再び席に着こうと顔を上げると、「はい」と目線の高さにシャープペンを差し出された。隣の席の男子生徒のもとにまで転がってしまっていたらしい。



「あ、ありが……」



シャープペンを受け取りお礼を言おうとして、言葉が途切れた。



​───言葉を失うほど、彼の机上から覗いた男性の横顔があまりにも美しく繊細だったのだ。B5のルーズリーフの下半分を使って描かれたそれは、授業が退屈で描いた落書きにすぎないのかもしれない。それでも、私はその横顔から目が離せなかった。



そんな私に気づいたのか、男子生徒は何食わぬ顔で英語のプリントでサッとそれを隠した。目は合わず、言葉もかけられなかった。ただ、もう見るなと、そう訴えられていたのだけは確かだったように思えた。






「はい、じゃあ今日はここまで。今配ったプリントは復習に使っていいやつなー。提出はなしにするが、各自復習はしておくように。明日は英語は1限目だからな、寝坊しないように」



11時45分。既定の時間より5分だけ早く授業を終えてくれた木下先生の言葉に、「やったー」とか「疲れた」とか「はらへったー」とか、生徒がぱらぱらと返事をしている。



私は、配られたプリントをファイルにしまいながら、ちらりと隣の席に目を向けた。



机に突っ伏して眠る男子生徒。透き通るような金髪は、校内じゃ類を見ない。髪の隙間から覗く耳たぶには、シルバのフープピアスがひとつ。枕替わりにしている両腕には、血管が綺麗に浮き出ていた。長袖のワイシャツを3回ほど捲っている腕で、ルーズリーフが下敷きになっているようで、端の折れた紙が少しだけ飛び出ていた。



今日は英語が3限目だったから、他の補習科目があったとしても今日は終わりなはず。あとは帰るだけだし、早いところ起こした方が良いだろうか。


生徒たちが徐々に帰って行く音を耳にしながら、私はひとり、その金髪を見つめて迷っていた。



「いつまで寝てんだ、相馬そうま



直後のこと。呆れたような声色とともに現れた木下先生が、丸めたプリントで金髪頭をぺしっと叩いた。あ、と心の中で声をこぼす。男子生徒がもぞ…と身体を動かし、ゆっくりと顔を上げた。その拍子に、彼の下敷きになっていたルーズリーフやプリントがカサカサと動く。






「……体罰っすよぉキノセン」


「補習に来てるんだから寝るなよおまえは」


「来たくてこんなクソあちいとこ来てるわけじゃねえよ。居るだけで褒めてくんねーとモチベない」


「はいはい偉い偉い。あと6日休むなよー」


「フラグあり」


「初日から諦めるな。ほら、帰った帰った。帰って素麺でも食いなさんな」




くしゃくしゃと金髪頭を撫でると、木下先生は「八月朔日も気ぃ付けて帰れよ」と私にも一言そう声をかけて教室を出て行った。返事が追い付かず、慌ててその背中にぺこりと頭を下げる。気付けば教室にいた十数人の生徒たちはあっという間に下校していたようで、姿はすでに見えなかった。




私と、隣の席の男子生徒――相馬夏芽なつめくん。



取り残された空間が絶妙に気まずくて、私も急いで身支度を整える。


5月に行われた席替えで隣の席になってから、相馬くんとまともに話した試しはない。悪い人とつるんでるとか欠席が多いとかそんなことは一切なくて、金髪であることに加え相馬くんは目つきが少々悪いので、単にクラスメイトの一部から怖がられている、というだけ。


人見知りなのか、相馬くんは仲良い人としか会話をしないのだ。私も然りなので、隣の席とは言え、まともなコミュニケーションを取らないまま夏休みに入り、今に至る。




「なぁ」



不意に声をかけられた。恐る恐る視線を向けると、1枚のルーズリーフを差し出された。数十分前、私が目を奪われた、それである。



「やるわ」

「え」

「要らないなら、適当に捨てといて」




相馬くんの指先がルーズリーフから離れ、滑り落ちる。反射的に手を伸ばしそれをキャッチすると、ふっと軽く笑われたような声が降って来たので、ぱっと顔を上げると、視線が交わった。その日初めてのことだった。



「結構、似てるっしょ」

「へ、あの」

「腹減ったし、俺帰るわ。あんたも気を付けて」



自然に隠された時、見てはいけなかったのかもしれないと思っていた。まさかこんなにまじまじともう一度見ることができるとは、思ってもみなかった。


渡された横顔の落書きと相馬くんを交互に見つめるしかできない私を差し置いて、彼は机上に広げていた教科書やプリント、筆記用具を乱雑にスクールバックの中に詰め込むと、じゃーね、と言って席を立った。あ、とか え、とか、言葉になりきれない音が先走る。


蝉の鳴き声がうるさかった。遠のいていく足音に、脈を打つ心臓。視界に映る金髪は、太陽の光よりもずっとずっと眩しい。



「ほっ、ほづみれい!」



ようやく出た声を、彼の背中にぶつけるように叫ぶ。数か月隣の席に座って過ごしたクラスメイトに自分の名前を叫ぶ機会なんて、そうあることではない。



相馬くんと関わったためしはなかった。隣の席になってから窓の外を眺める機会が増えたのは、右側にいる相馬くんと目を合わせるのが怖かったから。シャープペンを落とした時も、拾わないでほしいとすら、少しだけ願っていたのだ。


私はこの時まで、君の名前しかまともに知らなかった。




「知ってるよ」



けれどそれは、君も然りだろうか。




「また明日な、八月朔日 れい



八月朔日 鈴。漢字までちゃんと理解しているように紡がれた自分の名前は、まるで自分のものではないと錯覚してしまうほど、美しい響きだった。


握りしめたルーズリーフに描かれた男性の横顔は、どこか遠くを見つめていて、何かを漕がれているようにも感じ取れる。とても繊細であり、美しい。



そしてそれは​───木下先生によく似ていた。


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