三日目
8月3日。昨日に引き続き、英語は1限目。家族から逃げるように部屋を出たのち、自転車を走らせ、私はいつも通り7時50分に学校に着いた。
半袖ブラウスと肌の間に汗がにじみ気持ち悪かった。ハンドタオルで首元や額の汗をぬぐいながら、3階まで階段を上って教室に向かう。その途中のこと。
「お、八月朔日。早いなぁ」
「あ、木下先生」
ひとつ階段を上った先、職員室前の廊下に出たところで、木下先生と遭遇した。「おはようございます」と挨拶だけを交わし、会釈をして再び階段を上ろうと背を向ける。すると、
「あー、待て待て八月朔日」
思いだしたように呼び止められた。1段目に片足を乗せたまま立ち止まり、はい と身体を半分だけひねって振り返る。
「相馬は怖い奴じゃないから、仲良くしてやってくれ」
「へ?」
「誤解はされやすいけどなぁ……補習も毎日来てるし、面白い奴だぞ」
「いや、えっと……?」
突然相馬くんの話題を振られ、私は困惑した。
相馬くんと何か親密な関係……とかなのだろうか。木下先生が相馬くんを気にかける理由が、どこかにあるのかもしれない。言われなくても、ここ2日で相馬くんが悪い人ではないことは十分わかった。目を見て話してくれるし、名前も覚えてくれている。けれど、私と相馬くんが特別仲良くなったりすることはないような気もするのだ。
補習が終わって、あっという間に夏を越えたら、きっとまた元通り。
「
そう思っているのは──…私だけ、なのだろうか。
「意味が……よくわかりません」
「ははっ、まあ、そうだよな。こんなこと急に言われてもって感じだなぁ、すまんすまん」
「いえ、あの…」
「でも、悪い奴じゃないのは、八月朔日はなんとなく分かってくれてると思ったから。まあ、聞き流してくれてもいいさ。暑い中、朝から毎日ご苦労さんね」
そう言って木下先生は名簿を持ったままの右手を軽く上げると、給湯室へと入って行ってしまった。モーニングコーヒーでも淹れるつもりなのだろう。珈琲の苦みを美味しいと思う年にはまだなれていない私は、音を立ててしまった扉を見つめながら、炭酸キメたいな、とそんなことを思った。
*
ブラウスの襟元をぱたぱたと仰ぎながら教室の入口扉を開け、それから数秒、私はそこで固まった。
窓際の後ろから2番目――の、隣。
扇風機の風に揺られる金髪は、窓から差し込む太陽の光で透き通っていた。そこで寝ているのが誰かなんて、顔を見なくても分かる。
───相馬くんだ。
「起きれたら、明日も早く来る」昨日言っていたそれは社交辞令のように思っていた。行けたら行くねとか、できたらやるねとか、それと同じ枠の言葉だろうなって脳内で思っていたから、そこに相馬くんが居たことにとても動揺してしまった。
起きれたんだ、今日も。暑くて寝苦しかったから早く目が覚めちゃったのかも。
そんなことを考えながら、足音を最小限に抑えて自分の席に向かう。扇風機の温い風が、私の黒髪をも揺らした。長袖のワイシャツを2、3回捲った腕に浮かぶ血管。どくん、と心臓が鳴った。
私が椅子に座ってから数分静寂が流れたあと、不意にもぞ、と相馬くんの身体が動いた。
「んー…あ、ほづみ、だ」
「…おはよう相馬くん」
「はよ…」
朝かつ寝起きだからか、私が知る相馬くんより舌足らずで、それがちょっとだけかわいいと思ってしまった。相馬くんが「ぅん”ん」と唸り、身体を起こしてぐーっと伸びをする。ごしごしと目を擦った後、目を合わせてもう一度さっきよりはっきりとした音で「はよ」と紡いだ。うん と頷くと、うん と返ってくる。
なにか、会話。せっかくのふたりきり。もう少し有意義なものにしたい。コミュニケーションが上手い人はこういう時すらすらと会話文が浮かんでくるのかと思ったら羨ましくてしょうがない。
「あ、暑いね今日も」
「だなー…」
「サイダーとか効きそう」
「だなー」
「海とか、いいよね」
「うんわかる」
「涼しいこと……かん、考えよ」
「……ぶはっ」
絞りだした会話は10秒で終わってしまって落ちこむ私に、「八月朔日」と丁寧な声が落ちる。呼ばれるままに視線を合わせると、相馬くんは目を細め、悪戯っぽく笑っていた。それが、どうしてかとてもドキドキした。
理由について考える暇はなく、相馬くんの次の音が、朝の静寂に包まれた教室に、確かに鮮明に、落ちたのだ。
「今日、サボる?」
17年生きてきて、そんな提案をされたのは生まれて初めてだった。漫画や小説でよくあるそれだ。授業サボって屋上でお昼寝するとか、学校サボって自転車チャリ二人乗りして旅に出るとか、なさそうでありそうで、だけどやっぱりなさそうな現実の話かと思っていた。私とは無縁の、ちょっとだけ夢が詰まった言葉。
「なんか今日眠いしやる気ないし。涼しいとこ行きてーなぁ俺」
「サボる…と、いうのは、」
「夏ってさぁ、気づいたら終わってるしな。高校の夏休み、補習1日くらいサボっても怒らんねーよ。頭ん中空っぽにして夏感じたっていいだろ」
「そ……」
「どうする、八月朔日」
選択を迫られた。時刻は8時過ぎ。他の生徒が来る気配はまだまだなくて、一度学校に来た私たちが教室を出ても、きっと誰にも見つからない。木下先生には不審に思われるかもしれないけれど……木下先生なら、笑って許してくれそうな気がしなくなくも、無い。
「…怒られたら、相馬くんのせいにしても、いい?」
「ふはっ。いいぜ、上等」
夏の朝は、やっぱり良い。
*
「ね、ねえどこ行くの、相馬くん」
「涼しいとこ」
「目的地が無いのって、ちょっとまずいかもだよ」
「俺はそっちのがワクワクしていいいけど。つか目的地あるって。涼しいとこ」
「えぇ~…?」
「もう着く、もう着くから、あとちょっと!」
自転車を濃いで40分。真夏の朝に自転車爆走は、現役高校生といえど正直ちょっときつい。想像以上に上り坂も多かった。学校から離れた場所――人通りがあまりない郊外。私たちが住む街は、元々それほど栄えたところではないから、自転車を数十分走らせただけで、街並みは驚くほどに変わる。
「ほら八月朔日、着いた!」
昔ながらの布団屋さんとか、時計屋さんとか、レトロなお店が並ぶ街に自転車を走らせ、最後の最後に襲い掛かってきた坂道を上り終えた頃、汗だくの私を差し置いて涼しい顔をした相馬くんが語尾を上げた。
青空の下、ブラウスの隙間を細やかな風が吹き抜ける。チリンチリン……と、全開の引き戸のすぐ横に掛けられた風鈴が鳴った。
「みずがめざ……」
商店というのか、駄菓子屋というのか。屋根看板に貫録のある字で『みずがめざ』と、そう書かれてあった。知らないお店だった。けれど、相馬くんは違うみたいだ。
「ここの店主が水瓶座だったから『みずがめざ』」
「え?」
「ごめんくださーい」
紺色の暖簾をくぐり抜け、相馬くんが慣れた口調で言う。慌ててその背中について行くと、白髪に丸眼鏡、白の割烹着といった、いかにもなおばあさんがレジのところに座って本を広げていた。相馬くんの来店に気づくと、おばあさんはしわくちゃな目尻にさらに皺を作って笑った。
「あらぁなっちゃん。制服着て……学校かい?」
「んーや、サボリサボリ」
「あらあら」
「ラムネ2本、冷えてるやつ。今日友達連れてきてんだわ」
「あらまぁ、そうかい、いいねえ。ゆっくりしてきなさい」
「ありがとー」
サボリ発言にも動じないところをから察するに、相馬くんとそこそこ付き合いが長いのだろう。自転車で40分のこの場所に、相馬くんはどのくらいの頻度で来ているのか。まだ知らない相馬くんの部分が見え隠れしてワクワクする。
レトロで趣のある店内。何気なく中をぐるりと見渡すと、ふと見覚えのあるタッチのイラストが目についた。額縁に入れられた1枚の紙。記憶に残るそれよりは少々粗削りではあるものの、思わず見つめてしまうほど、優しい愛が籠ったような、おばあさんの似顔絵だった。
「結構、似てるっしょ」
私に気付いたのか、いつの間にかお会計を済ませていた相馬くんが言う。昨日、木下先生の似顔絵をくれた時と同じ台詞だ。
「う」
ん。そう言おうとして顔を上げた時、思ったより近くに相馬くんがいて思わず仰け反った。身長はいったい何センチあるのか、教室にいた時では把握しきれなかったけれど、思っていたよりずっと高身長。斜め下から覗く顎のラインが、とても綺麗だった。
「近……いなぁ相馬くん」
「え? ごめん」
「う……うん、あのほんと、気をつけてもらえると」
「うん。あ、うん。ごめん?」
頬が火照るのは暑さのせいか。ぺこりと頭を下げられ、半人分の距離をとる。相馬くんは全然動揺なんてしていないようで、まるで私だけが意識しているかのような空気が、少しだけ恥ずかしかった。
「それねぇ、なっちゃんが昔描いてくれたのよねぇ。いつだったかしら、中学生の頃?上手よねぇ」
「うーん、多分? そんくらい」
なっちゃん。相馬 夏芽くんだから、なっちゃんなのか。かわいい、とぼんやり思う。
「なっちゃんは本当に凄いのよ、昔から。私もなっちゃんの絵が大好きでねぇ、私の似顔絵だけじゃないさ。この辺りに住んでいた子たちの絵だってたくさん飾って───」
言いかけて、おばあさんがハッとしたように言葉を止める。何か口に出すのは気が引ける内容だったということは察したものの、何もわからない私は相馬くんとおばあさんの顔を交互に見るしかできなかった。ラムネを2本抱えた相馬くんが気まずそうに目を逸らす。
「……あー、はは。ごめんなばーちゃん、気使わせて」
「なんだって考えるより先に言葉が出てきてしまうかね……」
「いーよいーよ。大丈夫だから気にすんな。ラムネありがと、ベンチ借りるね」
相馬くんはそう言うと暖簾を潜って外に出て行ってしまった。取り残された私に、おばあさんが申し訳なさそうに眉を下げる。
「……なっちゃんに、昔の話は禁句だったんだけどねぇ…。お友達を連れてきたのは久しぶりだったからって舞い上がってしまったね、ごめんねお嬢さんも」
弱い声が落ちる。口を滑らせてしまったことをとても後悔しているように思えた。おばあさんは、おもむろにアイスのショーケースをあけるとカップに入ったシャーベットフロートを2つ取り出し、木箆を添えて私に手渡した。
「なっちゃんとふたりでお食べ」
「え、いいんですか?」
「外は暑いでしょう。ゆっくりしていきなさいな」
相馬くんに対してのお詫びの意味も兼ねているのかもしれない。断る理由が私にはなかったので、それを受け取りぺこりと頭を下げた。氷の冷たさが、暑さで熱を帯びた皮膚に溶け込んでいく。外の気温は何度あるのだろうか。
「八月朔日ー? 早く」
「あ、うん、今行きます。あの、ありがとうございます、
おばあさんの優しい笑顔に送られてお店を出る。入り口にぶら下げられた風鈴が、真夏の風に吹かれてちりんと揺れた。
・
・
「あっちぃなー」
「んー」
「ほらもう見ろよ、ほぼ水だそこのアイス」
「だね……」
「八月朔日、ラムネのビー玉の取り方知ってる?」
「え、……叩き割る?」
「ふはっ、せいかーい。一番手っ取り早いよな」
ミーン、ミーンと蝉が合唱している。時折吹く風が風鈴を揺らすも、涼しいとは到底思い難い炎天下だった。シャリシャリと音を立てていたアイスは、たった数分外の熱気に触れただけであっという間に水に戻ってしまう。ラムネ瓶は汗をかいていて、ベンチに置くとあっというまに周りがびしょびしょに濡れていた。
夏、汗、制服。『みずがめざ』の店前にあるベンチに座ってラムネを飲み、アイスを頬張る私たちが置かれているこの状況は、いわゆる青春に値する瞬間、なのだろうか。
喉を抜けるラムネの微炭酸が体内で弾はじけて溶ける。あっという間に飲みきってしまった瓶を目の高さに合わせ、カラカラと揺れるビー玉を見つめる。瓶ごと壊すしか、そのガラスに触れる方法を知らない。ガラス越しで見つめる景色は一面青で、太陽なんか存在しないみたいに透き通っていて、涼し気だ。
「俺、中学の時までここら辺に住んでてさぁ」
不意に相馬くんが口を開く。私はラムネ瓶から目を離し、隣に座る相馬くんに目を向けた。どこか遠くを見つめるその瞳はやけに寂しげで、まるで何かを焦がれているみたいにも思えた。形の良い唇が、続く言葉を紡ぐ。
「今は、高校の近くで姉ちゃんとふたりで住んでるけど。母さんたちは今も昔の家使ってる」
「そうなんだ…」
「だから、ばーちゃんとは昔から知り合い。ちっちゃい時からこの店には友達と毎日のように来てたよ」
自転車で40分。たしかに毎朝通うとなればきついのかもしれないけれど、通えない距離ではない。交通の便が悪いわけでもないから、電車を使えば20分くらいで学校には着ける。
けれど、相馬くんがそれをせず地元を離れてお姉さんとふたりで暮らしているのには、なにか訳があるのだろう。安易に触れていいことではないような気がしたので、私は何も言葉にはせず、曖昧に相槌を打った。
「気になる?」
「……気にならなくはないけど、べつに、無理に聞こうとかは思わない。相馬くんが話したいならこのまま聞くし、触れないでほしいなら何も知らないふりするよ」
「ふうん?」
「やさしーんだ、八月朔日」そう付け足されて、曖昧に眉を下げる。やさしい、というのだろうか。誰だって、人に言いたくないことや聞かれたくないことがあるものだと思う。
私だってそうだ。家族との間に感じているジレンマを、そう簡単に人に話したいとは思わない。話すとしても、心を許した人間を選ぶと思う。逆の立場だったとしても、補習で2日前にまともに話したような浅い関係の相馬くんには話さない。
だから分かる、その気持ちが。
「好きなんだよな」
芯のある、真っすぐな声だった。好きだと思っちゃったんだよな。2日前、同じような言葉を聞いた。根拠は無いが、相馬くんの口から出る「好き」が向かう先には、同じものが居るような、そんな気がした。
「……それは、何に対しての」
「あれ。無理に聞こうとは思わないんじゃなかった、八月朔日」
「え」
「残念だけど、八月朔日に対してのそれじゃないことだけは確か」
相馬くんが悪戯に笑う。なんだこいつ、と正直思った。意味深な「好き」を言うから、聞いてほしいのかと思ったのに。勝手に捉えてしまった私が悪いのか、否、私の反応で遊ぶ彼が悪いのか。内心ムッとしながらも「そんなのわかってるよ」と乱暴に返す。
相馬くんが私のことを好きなんていう可能性は最初から考えていなかった。私たちはまだ友達にも満たない関係。それなのに、どうして私が振られたみたいになってるんだ。一応私にも乙女心たるものが存在するわけで、冗談でも、少しだけショックだ。口を尖らせ、ふいっと目を逸らす。
「ごめんって八月朔日」
「べつに、何も怒ってないよ」
「悪気はなかった」
「わかってるよ。怒ってもないし」
「声、怒ってる」
「それは相馬くんが…」
相馬くんが。相馬くんが、何だろう。こういうところ、ふとした時に自分が女であることを自覚する。面倒くさい女の子に多い、あれだ。怒ってるのに怒ってないって言っちゃったり、怒る必要のないところで拗ねたり。わかってるのに止められないって、人間ってけっこう感情的。時々、自分のそんなところが見えて嫌になる。
言葉を詰まらせたままやるせなく俯いた私に、「なぁ」と声が落ちた。
「八月朔日だけじゃないよ。女の子のことを、そういう目で見れない。病気なのかな、わかんねーけどさ」
────その言葉に、私はなんて反応したのか。
ぱっと顔を上げた先、金色の前髪の隙間から覗く、ビー玉の何倍も黒い瞳。その中で、私の影が揺れている。蝉の声が遠くなる。相馬くんの唇が動く。私は、石化したみたいにその場から動けなかった。首筋を伝う汗が、やけに冷たかった。
「俺は、男を好きになっちゃうんだ。気持ち悪いって、笑っていいよ」
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