第29話 献身の釣り合いと充実感
リビングに戻ると美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐってきた。
結人が色々としている間にも料理の方は滞りなく進んでいたらしい。
肉や野菜、調味料等の匂いに加えてわかりやすく際立っていたのは、恐らくパスタ麺を茹でていたであろう独特な湯気の匂いだった。
(メインはミートソースのパスタかな……)
そんな予想を立てながらキッチンを覗く。
視界に入り込んできたのは、菜箸で鍋の中を一回ししてからIHコンロの電源を切る涼音の様子だった。
「なにか手伝えることあったらやるよ」
今から麺を湯切りしてお皿に盛り付けよう、という涼音の動きを読んで結人は声を掛ける。涼音がIHコンロの前にいるのもあって、空いたワークトップのスペースで何か手伝えないか言ってみた次第だった。
「お、いいタイミングで来ましたね。それなら出来上がっているものからテーブルに運んでいってくれると助かります」
涼音はこちらを見ずに、パスタと並走して作っていたであろうスープの出来栄えを確認しながら結人に迅速な指示を出した。
「オーケー」
【出来上がっているもの】ということでワークトップを見渡せば、少し奥まったところにあるサラダの入った大皿が目に留まる。
(……持って行っていいのかな)
もしかしたら涼音が個別の皿を取り出して盛り付けるかもしれない。
結人は最初そう思ったが、盛り付けるぐらいダイニングでもできるだろうし別にいいかという考えの元、大皿を持って行こうと手前に引き寄せた。
ただ、一応で引き止められる余地を残すために隣の様子を窺う。するとちょうど涼音がこちらに視線を向けているところだった。
「涼音さん、これ持って行っても大丈夫?」
大皿に手を添えながら聞いたのだが、涼音からの返事はない。
視線はこちらを向いているものの、どこかぼんやりしているようで、瞬きもせず結人の胸元から下の方へかけてゆっくりと視線を落としていた。
「あれ、涼音さん? おーい」
「……あっ、は、はい! なんでしょう?」
顔の前でひらひらと手を振ると、はっとした様子の涼音が目をぱちぱちしながら結人を見上げてくる。
「これ持って行っていい? ここで取り分けるなら待つけど」
「いえ、持って行って大丈夫です。……ところで結人くん」
「ん?」
「服装、なにか意図して選びましたか? 普段より明らかに大人びて見えますけど」
「あー、それね」
服装については自己満足で済ませるつもりだったので、涼音が触れてきたのは意外だった。
ただまあ、他人に見える変化、それも服装なんてわかりやすいものは話題に触れられてもおかしくはないのかもしれない。
「うーん……意図、というより意識したのはカジュアル且つ清潔感のある格好良さ、かな」
「なるほど。それは何故に?」
「何故ってそりゃあ、寝起きのだらしない姿を見られた上に『可愛い』だなんて男の尊厳を弄るようなこと言われたら意識しないほうが無理だしなあ」
素直に理由を明かすのも少々居心地が悪いので、あくまでむこうに非があるような、そんな言い方を不貞腐れたようにしてみる。
実際のところ、寝起きの一幕に関しては互いに是非もなにもないと結人は思っていた。あれはありふれた日常会話に他ならないだろう。
しかし涼音は結人の言葉をどう受け止めたのか、申し訳なさそうにこちらの表情を窺ってきた。
「……いじわるしたこと、怒ってます?」
「え、いや全く」
真顔で返すと涼音はほっと胸を撫でおろした。
「それならよかったです。……私は似合っていて格好良いと思いますよ。事実としてぼーっと見入ってしまったくらいですので」
「そりゃどうも。涼音さんが見入るなら折り紙つきだね」
じゃあ、と会話はそこまでにして結人はサラダを食卓に持っていく。
次いでパスタとスープを運び終えれば、最後に涼音が取り皿とドレッシング、カトラリーを持ってやってきて、食卓の準備は整った。
特に何も考えず結人が向き合うように料理を並べたのもあって、二人は向き合って食卓に着く。
「どうぞ」
「どうも」
涼音からサラダの取り皿とカトラリーを受け取って間もなく手を合わせた結人に、涼音はにっこり微笑んで促すように手を差し出した。
「どうぞ召し上がってください」
「ありがとう。いただきます」
食材と料理人に感謝を告げて早速口にした料理はやはりどれも美味しかった。
食べる前からわかり切っていたことだが、久しぶりに涼音の手料理を口にして改めて感じる彼女の料理の腕前たるや。
ミートソースのパスタとサラダにあっさりとした味付けのスープという献立は食べ合わせが良いだけでなく、色合いや栄養価までバランスが取れていた。
掻き立てられる食欲のままに手を進めていると、正面から「ふっ」と短く息を吐くような音が聞こえてくる。
その音に反応して上げた視線の先には、微笑を溢しながらも恥ずかしそうに口元を手で隠す涼音がいた。
視線が合ってパスタを咀嚼している途中だった結人が首を傾げたところ、涼音は「いえ」と視線を彷徨わせる。
「……その、満足していただけたようでよかったなって」
それを聞いた結人は大きく頷いてから、咀嚼したパスタを胃に落とし込んだ。
「それはもう、美味しくて大変満足してますよ。それにここ一ヶ月で久しく親しい人が作る料理を食べてるけど、やっぱり一人で食べるよりいいなって思ったね」
実家にいた頃は両親が共働きだったこともあって、一人で食事を済ませることが暮らしの常だった。
一人暮らしを始めてからもずっと身近にペティがいたとはいえ、人肌恋しいとまではいかないが食事中に人と話せないのは密かに寂しくもあったのだ。
「確かに。私も一人で食べるより、こうして結人くんと一緒に食べている方が……なんというか、暮らしが充実してるなって思います」
「いいね。win-winってことだ」
「そうですね。それでふと思ったのですけど、休みの日は私が昼食と夕食を作るというのはどうですか?」
肯定の後に一息置くこともなく会話の流れで涼音がとんでもない提案をしてきたので、結人は理解するのに数秒の時間を要した。
「……作るって、ここで?」
「はい。平日の放課後はよくお世話になっていますし、今後もお世話になるでしょうから。それに対するお返しとしてどうでしょう?」
「なるほど。聞いた限りだととても良い提案だと思う。……うん、細かい部分は追って決めるとして一先ず賛成かな。涼音さんの苦労がちょっと心配だけど」
「そこに関しては心配ありません。……ただ、この後の夕食の買い出しには同行してほしいです」
「それはもちろん」
「ありがとうございます。結人くんって本当に優しくてかっこいいですね」
「……急にどうしたの?」
「え、そのままの意味ですよ?」
恐らく涼音は気付いているだろう。
結人が重い荷物を持つためだけでなく、【涼音をもしもの事態から守るために同行している】ことに。
「そう? じゃあ、ありがとう。涼音さんもわざわざ借りを返そうとするなんて、健気で可愛いよね」
純粋無垢な言葉はやはり言われ慣れないもので、恥じらいと視線を隠すために結人はスープの器を口元に持ってきて音を立てないように啜る。
再び視界が開けるようになると涼音は結人の動作から思い出したかのように食事を進めていた。
その姿勢が少し俯きがちだったのはどこか違和感を覚えるものだったが、気恥ずかしさの余韻のせいで結人は指摘することもできない。
結局それ以降、その食事中に結人と涼音が会話することはなかった。
涼音が話しかけてこなかったのは気まずさか気遣いなのか、はたまた単純に話題がなかったからか、結人には知る由もない。
ただまあ、食後は普通に会話を交わせたので、気を損ねたわけでないのは確からしかった。
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