第28話 昼前のモーニングコール
「……とくん、ゆい……ん? もうお昼……よ」
暗闇に囁くような音が落ちてくる。
声にも近しいそれは灘らかに流れる澄んだ小川のようで、無意識にも手放したくないこの安寧をより心地のよいものにしていた。
何かが結人に触れる。
鈍い感覚の中でも顔周辺のパーツは比較的に冴えるからか、触られているのが額であるのは何となく分かった。
優しい手つきが目にかかった前髪を横に避けていて、それが普段のペティの触れ方とは明らかに違うことに気付いた結人はゆっくり目を開く。
開けた視界にまず飛び込んできたのは、斜め上からこちらを覗いている涼音の美貌だった。
「起きましたか? おはようございます。って言ってももうすぐお昼ですけど」
淡く歪んだ焦点が徐々にはっきりとしてきて、涼音の浮かべている微笑みまで鮮明に読み取れるようになる。
とりあえず結人は上体を起こし、幾度か瞬いて瞳を潤わせた。
「……おはよう、ございます。……えっと、これは今どういう状況で?」
「話すと長くなるのですけど……そうですね、スマホの通知を見た方が早いと思います」
涼音に勧められるまま傍らのスマホを掴み、電源ボタンを押す。
画面に表示された十一時という時間帯に驚きつつも、昨夜『明日休みだから遊ぼうぜ!』と言う康介の誘いに乗って遅くまでゲームをしていた自分を思い出し、結人は頭を抱えた。
それはさておき人差し指で画面を下にスワイプすると通知欄が現れる。そこには同じ送信者から連続して連絡がきていた形跡があった。
『おはようございます』
『昨日のお話通り今日も結人くんのおうちにお邪魔させていただくのですけど、結人くんさえ良ければお昼ご飯を私に作らせてください。せっかく時間のある休日ですし、普段お世話になっている分個人的にお返ししたいので』
『もしかして寝てます? 一応、昼前には着くようそちらに向かいますのでよろしくお願いします』
上の二つは九時ごろに連続で、最後の一つは今から三十分程前に来ていた。
「……なるほど。大体理解した」
事の経緯をあらかた把握してスマホの画面から涼音に視線を移すと、涼音はほっと安心したように一息ついてから心配するような表情に。
「結人くん、その様子だと朝ご飯食べてないでしょう? 流石に二食抜くのは健康上よろしくないと判断して勝手に起こしましたけど、大丈夫でしたか?」
「大丈夫、というかむしろありがとう。それと連絡の方、寝過ごしてごめん」
「いえ、気にしないでください。……では私はお昼ご飯を作るので、結人くんは起きてからすること、諸々済ましてきてくださいね」
「うい」
返事を聞くや否や、涼音は立ち上がってドアの方へ歩いて行く。
しばらく目覚めの余韻に浸ってから行動しようと、結人は涼音を見送らずにぼーっと視線を下に落としていた。
「あ、そういえば一つ言い忘れていたことが」
声に反応して顔を上げると、ドアの取手に手を掛けた涼音がこちらを振り返っている。
言い忘れていた、ということで言葉を待っていると涼音は久しく見せていなかった小悪魔のような魅惑的な笑みを浮かべた。
「結人くんの寝顔、可愛かったですよ。それではまた後程」
内開きのドアを引いて涼音が寝室とリビングの境界線を越える。ぱたりとドアが閉じると同時に姿は見えなくなった。
静かな寝室に一人取り残された結人は、先程涼音が出ていく前と同じように視線を下に落とす。
ただ、目覚めの余韻に浸ることは叶わなかった。
(寝起きにそれはずるい……)
時折見せる涼音の変わった一面、それも恐らく親しい間柄でないと見せないであろう一面。
それをなんの耐性もない寝起きにぶつけられると素直な反応が出てしまう。
微かに乱れた呼吸のリズムから胸元に手を当てると脈拍がいつもより早くなっているのがわかるし、続けて仄かに感じる頬の熱に両手を当てるとじんわりと上がった体温が掌に伝わった。
布団が暑くなってきたので汗をかく前に布団から出て立ち上がる……と、リビングの方から水の流れる音が聞こえてくる。
涼音がキッチンでお昼ご飯を作り始めたのだろう。
寝起きの恥ずかしい姿を見られた上に涼音の悪戯をまともに食らった身として、動揺している状態で再び涼音と顔を合わせるのはなるべく避けたい。
なので、涼音が何か別のことに専念しているのは都合がよかった。
とりあえず着替えるために結人はタンスから服を取り出す。
選んだのはグレーのベルトレススラックスと裾が腰より少し下まで伸びた前開きの黒シャツというカジュアルさと清潔感を兼ね備えた組み合わせだ。
形から入って寝起きのふわふわした感覚を一掃する目的と、涼音と対面しても恥ずかしくない格好を考えた結果だった。
(……どうせなら髪形も拘りたいな)
昼食ができるまでに髪を弄るぐらいの余裕はあるだろう。
洗面所に向かうため寝室のドアをゆっくり開けて隙間からキッチンを盗み見ると、食材の下ごしらえをしているのか、流しの前で作業をしている少女の後姿が映る。
その後ろ姿に気付かれないよう、結人は忍び足で寝室を抜け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます