第27話 鍵を渡してから

 鍵を渡して以来、涼音はほぼ毎日結人宅を訪れるようになった。

 

 最初の数日間、涼音が毎度丁寧な文面で断りを入れてから結人宅に来ていたので、それに対して結人は『事前連絡は要らない』という旨を伝えた。

 毎回事前に連絡を入れるのは手間だろうし、涼音のことだから連絡する度に申し訳ないという感情を抱いていそうで、そういう感情や『お邪魔させてもらっている』という一歩引いた距離感を取り除いておきたかった。


 結局のところ、涼音が自宅と同じくらい結人宅で寛いでくれたらいいなと結人は思っている。

 もとより鍵を渡したのは涼音の日々の疲労を和らげるためだったので、そのために彼女が来やすく、そして過ごしやすいよう配慮するのは当然のことと言えよう。


 そういった意図が伝わったかどうかは知らないが、そう伝えてから涼音は事前連絡なしに結人宅を訪れるようになった。


「あ、結人くん。お邪魔してます」


「……ああ、いらっしゃい」


 だから、今日みたいに家事を済ませてリビングに戻ると涼音がいた、なんてことも起こりうる。


 多少は想定していたことでもあるのでさして驚くこともなく、ソファに腰かけて膝元のペティを優しく撫でている涼音と軽く挨拶を交わして結人はキッチンに入った。


「飲み物はいつものでいい?」


「はい。ありがとうございます」


「オーケー」


 お湯を沸かし始めて二人分のマグカップを用意し……とこれまで通りにもてなす準備をしつつ、時折愛猫と涼音が触れ合っている様子を微笑ましく感じながら眺める。

 ここ最近、つまり涼音が来るようになってからは大体こんな感じだ。


 涼音がいるからと言って結人から積極的に彼女に構いに行くことはなく、いつも通り飲み物やお菓子でもてなす時を除いて結人は基本的に涼音を放置している。

 もちろん必要があれば結人から話しかけることもなくはないが、恐らくペティと触れ合うことをメインの目的に来ているであろう彼女にわざわざ茶々を入れにいく必要もないだろう、というのが結人のスタンスだった。

 

「涼音さん、カフェオレできたよ」


 カフェオレを作り終え、一言掛けてからカウンターに運んでいると視界の外から「すぐ行きます!」と涼音の元気な声が聞こえてくる。


 ……ただ、自由気ままな愛猫はお気に入りの相手を手放したくなかったらしい。


「うわっ、とと。……ふふ、また後でお相手しますから、今はごめんなさいね?」

 

 少し戸惑うような声音と、それに続く思わず漏れ出たような甘い微笑。

 振り返れば、周りをぐるぐる回っては後ろ足で立ち上がって涼音に飛びつくペティと、屈んでそれをあやしている涼音の姿が見えた。


 絵になる光景に数秒見入ってから、我に返った結人は目を瞬かせる。


 ご主人命令で涼音からペティを引き剥がそうか考えたが、興奮状態のペティには言っても届かなそうだ。それに涼音も涼音で一旦遊びをお預けにするつもりが、ペティの猛攻を受けて言葉とは裏腹に再び触れ合いモードに入りかけている。

 

(……仕方ないなあ)


 このままでは先に進まないので、結人は涼音とペティ両者の意図を汲んだ特別措置をとることにした。

 

「涼音さんが面倒見れるんだったらペティをカウンターの方まで連れてきてもいいけど」


 あわや二人きり、ではなく一人と一匹の世界に入り込みそうなところを横から言葉でつつく。そうすれば、わかりやすく涼音が撫でる手を止めてこちらを向いた。


「……いいのでしたら是非」

 

「ん。じゃあペティがカウンターに上がったりしないようしっかり見といてね」


「わかりました」


 ペティを両手で抱え上げてから「本当にいいのですか?」とでも言いたそうにこちらを見る涼音に「お席の方へどうぞ」と手で勧めて結人はキッチンに戻る。


 カウンター側にやってきた涼音は普段より椅子を深めに引いて腰掛け、空けた前のスペースにペティを座らせた。


 涼音の腕から解放されたペティがテーブルの端から顔だけを机上に覗かせてキッチンの結人を見上げたり、真上の涼音の顔をどうにかして見ようと忙しく首を回しているのが可愛らしい。

 涼音もペティの様子を微笑ましげに眺めては軽く撫でていたのだが、いざカフェオレを飲もうとマグカップを持ち上げるとどうしてもペティの注意を引いてしまうので少し飲みづらそうだった。

 

 その様子を見て結人はバックカウンターの最下段からキャットフードが入った袋を取り出す。

 カリカリしたスナックタイプのそれを間食としての許容量までしっかり計り、底が深いプラスチックの小皿に入れてカウンターの手前に置いた。

 

「飲みづらかったらそれで上手くペティの気を逸らしてみて」


「お気遣いどうもありがとうございます。……えっと、結人くん」


「うん?」


「飲みづらいことはないのですけど、ご飯あげてみたいからあげるというのは」


「全然問題ない。そこに入ってる分は全部あげてもいいよ」


「やった! ありがとうございます」


 許可を得てから早速小皿に手を伸ばしてカリカリを一粒摘む涼音。

 そのままゆっくりとペティの口元に近づけるとペティはすんすん、と匂いを嗅いでからぱくりとカリカリを口に咥えた。


「……!」


 瞳が揺れたのは感動故だろう。

 咥えたカリカリをそっと親指で押し込んでもペティが抵抗せず口に含んで咀嚼してくれたので、涼音の表情はいつにも増してふにゃふにゃに溶けていた。


「結人くん! 食べてくれました!」


「うん、見てた。よかったね」


「はい!」


 その後もお代わりを求めるペティにご飯を与えながら、結人と涼音は世間話(主に学校の話)をしながら過ごした。


 談笑しつつ、話題が途切れたタイミングで結人はふとリビングの壁掛け時計に目を向ける。

 示されていた時刻は今まさに五時半に差し掛かろうかという具合で、それはある種のタイムリミットでもあった。

 

「涼音さん、時間大丈夫?」


「……そうですね。そろそろ買い出しに行かないと」


 結人の確認口調に促されて壁掛け時計を見上げた涼音は、現在時刻を確認してから僅かに残っていたマグカップの中身を飲み干す。


 来る時間はまばらなものの、涼音は毎回決まって五時半には結人宅を発っていた。

 なんでも夕食は自分で作って済ませたいらしく、そのための買い出しに掛かる時間を加味すると突き詰めてもこの時間がリミットらしい。


 それならと思って結人は以前、涼音に「夕食もよければ作るけど」と提案したことがあるが、それはやんわりと断られた。

 断るにあたって挙げられた「単純に申し訳ない」「料理の腕を落としたくない」などの理由を結人が尊重したのは言うまでもないだろう。

 

 空のマグカップを受け取って自分のカップとまとめて結人が洗っている間、涼音は身支度を進めていた。


「買い出し、結人くんも来ます?」


 洗い物を終えて手の水分をタオルに吸収させている時、カウンター側から飛んできた言葉に結人は一考する。


「んー、じゃあ行こうかな」


 実を言えば一緒に行ったところで物を買う予定はない。けれどこれまでの経験上、涼音の身にもしものことがあると心配なので付いていくことにした。

 

「わかりました。あと明日は学校お休みですけど、お家にお邪魔してもいいですか?」


 立て続けに聞かれて結人は少し思い悩む。

 手の水分を取り終えたついでに軽く身だしなみを整えて正面を向けば、相変わらずの美貌がこちらを覗いて返答を待っていた。


「……まあ、いいけど」


「……けど?」


「いや、いつでもどうぞ。それより買い出しだっけ。急いで支度してくるから先に玄関で待ってて」


「……? は、はい」


 何やら釈然としない表情の涼音を置いて洗面所へ向かう。


 洗面所に着いて、結人は先程ふと頭に過った疑問を思い返した。


(自ら聞いてまでして涼音さんがうちによく来る理由って何なんだろう。やっぱりペティと遊べるってのが大きいのかな。)


 涼音に聞かれたあの瞬間にそんなことを思っていたわけだが、本人に聞くにはそんなつもりがなくとも言葉の響きが冷たくなりそうで聞けなかった。


 なにも涼音がそういう利点だけを見て結人宅に来ているとは考えられない。

 もっと感情だとか信頼だとか、そういうものも少なからず足を運ぶ理由にはなっているはずだ。


 ……と、そこまで邪推して結人は考えるのをやめた。

 きっと友人間の亀裂は、こういった細かな部分に引っかかる人間性から生まれるのだろう。これまで友人と決裂した経験がない結人でも、なんとなくそんな予感がする。


 現状に満足しているなら変に考えすぎないことだな、と結人は心の中で自分に言い聞かせた。

 

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