第26話 甘やかし上手
手を洗い終えた涼音は壁に掛けてあったタオルで手の水分を丁寧に拭き取っていた。
「……よしっと。お待たせしました」
涼音がタオルから手を放して正面を見ると同時に、待っている間暇で涼音の動向を窺っていた結人も正面の鏡に目を向ける。そうした結果、鏡を通してばちっと二人の視線がぶつかった。
すぐに目を逸らさなかったのは相手が鏡の中にいる虚像だったからだろうか。
普段だったら確実に湧いてくるであろう気恥ずかしさがこの時はなぜか湧いてこなくて、結人は涼音の顔をじっと見つめることができた。
ぱっちり開いた大きな目にすらっとした鼻梁と小さく瑞々しい唇。それらが健康的な肌色の上に絶妙なバランスで組み合わさって美人を形作っている。
(改めて見ても綺麗だよなあ……)
そんなことを思いながら涼音の美貌に魅入られていると、ふいに涼音が首を捻って結人の視線から逃げた。
どうやら長い間見つめられて居た堪れなくなったらしい。鏡の中には赤く染まった可愛らしい耳元が映っていた。
「ごめん、美人だなって」
「え? あっ、ありがとうございます。……その、結人くんも普段隠しているのが勿体ないくらいに整った顔してますよね」
(!?)
思わぬ反撃、それも顔を赤らめた涼音が鏡越しにちらっとこちらを覗いて言ったので、結人は危うくよからぬ勘違いをしそうになった。
それでも、涼音が顔を赤らめているのは先程の居た堪れなさの名残であって言動は涼音が思わせぶりなだけだ、と素早く判断を下してなんとか平静を保つ。
「そう、かな? じゃあ整った顔に似合う髪形を涼音さんのお任せでお願いします」
身長の差を慮って涼音が手を洗っている間に持ってきておいた丸椅子に結人が座ると、涼音は「わかりました」と了承して結人の背後に回った。
「……では失礼します」
少し後ろで声が聞こえたと思ったら、ひんやりとした両手の指先が結人の襟足に触れる。その瞬間ぞわっとした感覚が首筋から後頭部に迫り上がってきて結人は思わず背筋を強張らせてしまった。
結人のその反応を見てか首周りにあった両手はすっと引っ込められ、続いて背後からはこちらを気に掛けるような気配がした。
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫。手が冷たくてびっくりしたってだけ」
「さっき洗ったばかりですからね。もし気になるようでしたら温めますけど」
「いや、そのままでいいよ。ひんやりしてるのも意外と気持ちいいし」
「ふふ、わかりました。……再開しますね?」
ん、と了承すると涼音は再び結人の襟足に触れてから今度は後ろ髪を指先で梳いた。
「結人くんの髪、さらさらしてます」
「毎日トリートメントまでしてしっかり乾かしてるからかな」
「結人くんそういうところしっかりしてますよね。自身の手入れも含めて生活面全般において怠ってる部分が無さそうです」
「……どうだろう。自分ではまともに生活できてるつもりだけど、そのうち涼音さんにずぼらな部分とかぼろが出そうで俺は怖いよ」
「別に私は結人くんにずぼらなところがあっても気にしませんよ。人間誰しも抜けてるところの一つぐらいあるものでしょうし」
「……そういうもんか?」
「そういうものです。……あ、髪結ぶので結人くんはじっとしててくださいね」
「うい」
結人は一度姿勢を正してから言われた通りにじっとする。
話している間に櫛で梳いたり手に取ってみたりして髪の質感を把握した涼音は、後ろから身を乗り出してカウンターに置いてあったゴムを手に取った。
続いて「失礼しますね」という一言と共に結人が左右に避けた髪を涼音は手に取る。そしてその二束を耳の上を通して後頭部で引き合わせ、結び始めた。
椅子に座っている状態から上目に鏡を盗み見ると、真剣な眼差しで髪を結んでいる涼音の様子が見える。
(誰しも抜けてるところの一つぐらい、ねえ……)
ふと、結人はついさっき涼音が自分を諭すために放った言葉を思い返した。
それでいうと涼音はその【誰しも】の部分には含まれないのではなかろうか。
一応、記憶に新しい出来事として涼音は荷物の重さに態勢を崩して転びかけるという珍事を起こしたことがある。だが、それは結人が涼音の提案に甘えたせいで招いた事態でもあるので、純粋に抜けてる部分かというとそうでもない気がした。
「はい。もう動いてもいいですよ」
「お、どれどれ……」
結人は鏡に対して横を向きながら横目に髪形を確認する。ただ、当然ながら横目の範囲では耳の上を通る帯が限界で、後頭部の結び目は見えない。
何度か首を左右に捻ってみても見えないものは見えないので諦めた矢先、後ろからカシャ、とシャッター音が聞こえてきた。
音に反応して振り返るよりも先に後ろから腕が伸びてきて、結人の目前にスマホの画面を光らせる。画面に写っているのは結び目を含む、結人の後頭部だった。
「後ろはこんな感じになってます」
「ありがとう。察しがいいね」
「そういう素振りに見えましたから。……どうですか? シンプルなハーフアップですけど」
「違和感もないしいいと思う。何より自分一人でもできそうで参考になったよ」
「それはよかったです」
「お礼にというか、この後リビングでお菓子と飲み物を用意しようと思うんだけど、どう?」
「いただきます」
笑顔を携えた結人の自然な誘い文句に、美人を模した鏡裏の虚像は華やかな笑みを浮かべた。
---
リビングに移ってから寝ているペティを寝床にそっと下ろしたっきり、結人はキッチンに立っている。
いつも通りカフェオレを入れるためにお湯を沸かしている傍ら、手持無沙汰でパーカーのポケットに突っ込んだ手がポケットの底にある硬い物体に触れた。
それをきっかけに結人は思い出す。
「そうだ、涼音さんに渡したいものがあったんだ」
思い出したまま口にすると、カウンター席に座っていた涼音が不思議そうな顔でこちらを見上げた。
結人はポケットから目的のモノを取り出し、ワークトップから身を乗り出してそれをカウンターの机上に滑らせる。
「…………鍵?」
短い摩擦音の末、目前で止まった物体を目に留めて涼音が呟いた。
「そう、この部屋の合鍵。涼音さん、ペティのこと気に入ってるみたいだし、いつでも来れるように渡しておいてもいいかなって」
因みに持ち手の部分に埋め込まれているチップがカードキーと同じ役割をするので、エレベーターホールの通過も玄関の解錠もこれ一つで事足りるようになっている。
突然住居の出入りを司る貴重品を押し付けられたせいか、涼音はおずおずと躊躇いがちに鍵を手に取って眺めた。
(まあ、そんな反応にもなるよな)
ある程度は予想できていたことなので結人は黙って静かに待つ。
ものがものだけに可否を即決できないのは百も承知だった。
右手の中で数秒弄ぶように鍵を捏ねてから、涼音は再び結人を見上げた。表情には前向きな気持ちに若干の遠慮が混ざっていた。
「……受け取ってもいいのですか?」
「もちろん。涼音さんが好んでペティに会いに来てくれるのは飼い主の俺としても嬉しいことだし、あとは学校とかで溜まったストレスや疲れをペティと遊んで癒してほしいってのもある。あ、もちろんこれまで通りにお菓子と飲み物も付いてくるよ」
長ったらしく言っている途中で少し照れて反らした視線を元に戻すと、涼音は口元に艶やかな弧を描いていた。それは今にも咲きそうな笑顔の蕾だった。
「結人くんは甘やかし上手ですねえ。そんな好条件を提示されたら受け取るしかないじゃないですか」
嬉しそうな声音とともに目を細めた涼音は小さく開いた口元から純白の歯並びを僅かに覗かせる。
鍵を握った右手を胸元にあてて左手でさらに上から包み込んでいるさまは愛らしくて結人は思わず涼音の頭を撫でそうになった。
……だが、ワークトップ越しの距離では涼音の頭まで手が届かないし、それで悶々としていると遅れてきた理性に「何しようとしてんだよ」と頭の中で詰られることに。
結局、結人は行き場のない衝動を握りこぶしにぐっと力を入れることで堪え、誤魔化すようにずらした視線はお湯を沸かし始めて数分経ったケトルに向いた。
ちょうど中身が沸騰し始めたようで、ケトルが小さくポコポコと音を立て始める。
すぐに火を止めて、結人は飲み物を入れにかかった。
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