第25話 無自覚な猫可愛がり

 十五階で止まったエレベーターのガラス窓からはエレベーターホールで佇んでいる涼音の姿が見えた。

 マンションのエントランスで一報を入れて自室のある階層のエレベーターホールを待ち合わせ場所に指定した結人だったが、先に着いたのは涼音の方らしい。


 ガラス窓越しに涼音と目が合って、気まずくならないよう結人が躊躇いがちに胸元でひらひらと手を振ると涼音は微笑みながら返してくれた。


「お待たせ。早いね、来るの。送ってからまだ五分くらいしか経ってないと思うんだけど」


「いつでも出れるようにしていたので。それに私もちょうど今来たところです」


 正確な時間は測ってないので知らないが、連絡を送ったのはほんの少し前のことだ。挨拶がてらそのことを指摘すると涼音は澄ました顔で答えた。


「そんなにペティと遊ぶの楽しみにしてたんだ?」


「……まあ、そうですね」


 見透かした言い方をすれば、涼音は気恥ずかしそうに言葉を濁してから頷いて肯定する。

 『ペティちゃんと遊びたいです』という文面での言葉には断固とした意思が感じられたが、聞かれて恥ずかしそうに肯定するのは文面と口頭の差だろうか。


「ま、楽しみにしてくれてさぞペティも嬉しいだろうよ。じゃ、行こうか」


「はい」


(……って言っても俺は帰るだけなんだけど)


 どこかへ出かけるような言い方に自ら若干の違和感を覚えつつ、キーパッドの付いているドアの方に歩き出すと涼音がついて来る。

 制服の胸ポケットから鍵の入ったポーチを取り出してセンサーにかざし、結人は廊下に通ずるドアを開けた。


 廊下に出てから涼音が隣に並んできたが、特に話しかけられることもかけることもなく歩いていたら自室の前に着いた。

 手に持ったままだったポーチのファスナーを開けて中の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。錠の外れる音がしてからドアの可動域に涼音がいないことを確認して結人はドアを手前にぐっと引いた。


「どうぞ」


「ありがとうございます。お邪魔します」


 客人である涼音を優先して、後から入った結人はドアを内側から施錠する。ついでに部屋が散らかっていないか過去の記憶を辿ってみたりしたが、元々散らかすような性分でもないため問題はなさそうだった。


「ただいまー」


 いつも通り廊下の向こうに帰宅を知らせると、そう経たずに忙しない足音が近づいてきて廊下の角からペティが顔を覗かせる。

 玄関に結人以外の気配を感じたからか最初は壁に身を寄せて恐る恐るこちらを覗き込んでいたペティだったが、もう一人が涼音だとわかった途端勢いよく陰から躍り出てきて結人と涼音の足元をぐるぐる回りだした。


「こんにちは。お邪魔させてもらってます」


 はしゃぎ回るペティに涼音は屈んで挨拶する。その屈んだ膝に添えられた両手がペティに触れたそうにうずうずとしているのを結人は見逃さなかった。


「俺は帰ってからやらないといけないこと済ませてくるから、涼音さんはリビングでペティと遊んでおいで」


 そう言いながら結人は鞄を置いて両手でペティを抱え上げる。それから期待の眼差しを向けてくる涼音に差し出すとその瞳が輝いた。


「いいんですか!? ありがとうございます!」


 満面の笑みでペティを受け取った涼音が機嫌良くリビングへ向かったのを確認して、結人は洗面所に体を滑り込ませた。


 普段なら着替えや家事でペティの相手をするのはどうしても後回しになってしまうが、今回は涼音がいるので涼音に任せた。もとより事前に涼音を呼び出して待ち合わせていたのはこのためで、そうすれば【ペティと遊ぶ】という涼音の目的を達成させるのにも都合がよかったのだ。


---


「……どうしよっかなー」


 気分で先に動きやすい服装に着替えて家事を済ませてきた結人は洗面所で鏡に映った自身の姿を見ながらどうイメチェンしようか頭を悩ませていた。


 学校での姿を彷彿とさせる眼鏡は既に外してあり、顔がしっかり見えるよう両サイドの髪を横に避けてみたものの、そこから先が悩みどころだった。


「適当でいいか。出かけるわけでもないし」 


 結人は前髪を留めるためのヘアピンと後ろに流した髪を纏めて縛り上げるためのゴムをそれぞれキャビネットから必要な数だけ取り出す。

 出かけるなら多少でも髪を弄って粧すのだが、今日はそのような予定がないので適当に済ますことにした。


「ペティちゃんっ! どこいくんですか!?」


早速取り掛かろうと自身の髪を櫛で梳いていると、リビングの方というよりほぼ廊下から慌てたような涼音の声が聞こえてくる。


 何かあったんだろうな、とぼんやり思っていたら聞き慣れた足音を立ててペティがドアの隙間から洗面所に入ってきた。

 どうやらリビングから逃げ出してきたらしく、ペティは内開きのドアの死角である洗面所の角のスペースに隠れるようにして体を伏せた。


「……ペティちゃん、どこに行っちゃったのでしょう」


 廊下からペティを探す涼音の声と微かな足音が聞こえてくる。それに反応してペティはさらに体を縮ませた。


「ペティちゃんいますかー? ……あ、結人くん」


 洗面所に顔を覗かせた涼音は突然視界に現れた結人の背中に一瞬驚いたような表情を見せてこちらの名前を口にする。その一連の様子は鏡の反射で結人に見えていた。


「いらっしゃい。なんかあったみたいだけど?」


 結人は鏡越しに話を促しながら前髪を横に流してピンで留めていく。傍らで物珍しそうに結人の様子を見ていた涼音は聞かれて申し訳なさそうに視線を左右に彷徨わせた。


「……その、遊んでいる途中でペティちゃんがリビングから出て行ってしまったので探しているんです」


「あー。……多分だけど、それは逆に探さない方がいいかも」


 恐らくだが、涼音はペティを可愛がりすぎたのだ。

 遊び相手をしてもらって満足したペティになおも構おうとした結果、鬱陶しがられて逃げられたのだろう。考えずともそんな状況が想像できた。


 鏡越しにこっそりペティを一瞥すると、ペティは変わらず伏せたまま心配そうにこちらを見ている。

 遠目から鏡を見ている涼音には角度的にペティの姿が見えていないらしい。もしくは見えてはいるものの単純に視界の端すぎて気付けていないだけかもしれないが。


「十分に遊んでもらってペティも満足したんだろう。きっとしばらく放っておいてほしかったんだよ」


 鬱陶しがられた、なんて言えば涼音を悲しませるのは想像に難くない。なので和らげた表現で言うと涼音は納得したようだったが、気遣いもむなしく悲しげな表情を浮かべた。


「なるほど、私の配慮不足でしたか。……ペティちゃんに嫌われてないといいのですけど」


「それは心配ないんじゃないかな。なあ、ペティ?」


 ちょうど前髪を留め終えて視線を斜め後ろに向ければ、存在をばらされたペティがびくっと体を震わせて逃げ出そうとする。

 そうはさせまいと捕まえて両手で持ち上げるとペティは腕の中でじたばたと暴れたが、「別に悪気があったわけじゃないんだ。涼音さんを許してくれないかな」となだめるように撫でていると落ち着いてきたのか体から力が抜けていった。


「……やっぱりここにいたんですね。リビングから一番近いですし、結人くんがいるのでもしやと思ってましたが」


「ご明察。多分、涼音さんが可愛がりすぎて怖くなっちゃったんじゃない? それで飼い主のもとに逃げてきた、と」


「うっ、確かに今思えば過度に接触しすぎていたような……。これからは適切な距離で接するよう気を付けます」


 ごめんなさいね、と謝る涼音に腕の中のペティはぷい、とそっぽを向く。それを見た涼音は泣きそうな表情でがっくりと肩を落とした。


「うぅ、嫌われました……」


「大丈夫。そういうポーズをとってるだけで少し時間置けばまた甘えてきてくれるから」


「……本当ですか?」


 結人の言葉に希望を見出したのか涼音は上目遣いでこちらを見つめてくる。

 潤んだ瞳が直視しづらくて、ちらっと見てから結人はそれとなく視線をずらした。


「うん。ペティはそんな狭量じゃないはず。……あ、寝やがったなこいつ」


 ふと腕の中に視線を落とすと、いつの間にか目を閉じて気持ちよさそうに寝ているペティがいた。先程までいろいろあった分、結人の腕の中が安心できたのだろう。

 

「これじゃ髪結べないな。どうしよう」


「……よければ私が代わりに結びましょうか?」


 涼音とペティの仲を取り持つために逃げ出そうとしたところを持ち上げたのはよかったが、まさか腕の中で寝られるとは予想していなくて両手を塞がれた結人は困っていた。ただ、それ以上に予想外で結人を困惑させたのは誰に言うわけでもなく溢した独り言を涼音が掬い上げたことだった。


「え? いいの?」


「はい」


 思わず聞き返すと涼音は短く答えてやおらに隣で手を洗い始める。

 早くも躊躇う余地すらないことを悟った結人は、ペティに触れた後で念入りに手を洗う涼音の指先をちらっと盗み見てふう、と短く息を吐いた。

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