第15話 久しい茶目っ気

 少し湿り気を含んだ風が布越しに身体を撫でていく。

 肌で感じた生温い感覚や鼻先に触れた植物性の油の匂いはこの時期独特のもので、結人にとっては忘れることのできないものだった。


 テスト期間前らへんから梅雨に入って雨がよく降るようになっていたが、天気予報によると今日は朝から昼にかけて曇り、午後からは晴れるらしく雨は降らないようだ。

 なので、結人は駅前の広場で敢えて屋根の無い石材のベンチに座ってなんとなくロータリーの方を眺めていた。


 朝の通勤ラッシュをとうに過ぎた駅前は人通りも少なく閑散としている。曇り空のせいか寂れた雰囲気が引き立てられていて、ロータリーに停まったバスの乗降客数は目で追った限りではどれも一桁に留まっていた。

 これが休日ならばそうはいかないのだろうが、平日の十時といえば頷ける光景だろう。


 週初めの月曜日、テスト明けの休みであるこの日、結人は人と会う約束をしていた。


 その人と最後に会ったのは二か月前、ちょうど結人が一人暮らしを始めた頃で、こうして会うのは家具の設置やら色々手伝いにわざわざマンションまできてくれた時以来だ。

 一人暮らしを始めてから連絡こそ取り合うようになったが、彼女は仕事など諸々の都合で忙しくなかなか会うことができない。それに心配性ならともかく、ありがたいことに彼女は結人に対して全面的な信頼を置いてくれているので、ここ二ヶ月間会うことはなかったのだ。


(…………遅いな)


 スマホに映った現在時刻は彼女から送られてきた到着予定の時間をとうに過ぎていた。


(まあ、もう少し待つか)


 座り続けて曲がった背中を真っ直ぐ正し、軽く首を回す。それからどうやって時間を潰そうかとスマホの画面を見たその時、結人は突然後ろから何者かに肩を掴まれた。


「わっ!」


「うわぁ!!!」


 耳元で声を出され、驚いた拍子に手元のスマホが吹っ飛ぶ。

 そのスマホを地面に落とさないよう慌てて掴もうとしたせいで二、三回手元でお手玉する羽目になったが、最終的に両手で受け皿を作ることでなんとか事無きを得た。


「……すぅ……………はあ………」


 驚いて早くなった脈拍を抑えるための深呼吸と、こんなことをしてくる血の繋がった大人に対する呆れのため息が混ざる。


「……つむぎさん、良い年して子供みたいなことはやめてくれ」


 疲れ交じりにベンチから立ち上がって振り返ると予想通り、表情に満面の笑みを浮かべた結人より少し背の高い女性が後ろに立っていた。


「ごめんごめん! 久しぶりに会うってなるとちょっとテンション上がっちゃって」


 そう悪びれる様子もなく言う彼女は容姿や若々しいオーラからして一見女子大生に見えなくもないが、来栖くるすつむぎという名前の、結人の実の母親である。


 白い半袖のシャツの上にブラウンのニットベストを重ね着してボトムスにはグレーのデニムパンツ、おまけに足元に赤のスニーカー。

 彼女の服装は良い意味で年不相応の雰囲気を醸し出していた。肩から下げている高級そうなショルダーバッグもまた、若さを感じさせるパーツの一つとしてなかなか様になっている。


「思考回路とフットワークが相変わらず若すぎる……」


「久しぶりに会ってまず『変わらず若い』だなんて、結人も褒め上手になったわね」


「いや褒めてないんだけど……」


 会ってからここまで呆れっぱなしなんだが、という言葉は飲み込んでおいて、結人はロータリーへ歩き出す。もちろん、バスに乗るためだ。


「二ヶ月ぶりね。元気にしてた?」


 隣に並んできた紬が楽しそうに笑いながら聞いてくる。本当に、久しぶりに会えたのが嬉しいらしい。


「おかげさまで元気に一人と一匹で暮らせてるよ」


「ペティちゃんも大丈夫そう?」


「大丈夫そう。無事環境に順応できてるみたい」


「そう。滑り出し順調って感じ?」


「んー、だいぶ順調だね」


「さっすがー!」


 くしゃっと頭を撫でてくる紬。その手を「やめろ」と掴んでゆっくり頭から離すと紬は「嬉しいくせにー!」とにやついてくる。


 正直なところ褒められてまったく嬉しくないわけでもなかったが、せっかく満足のいくようセットした髪型をこうも崩されると話は別だ。

 

「……なあ、ワックスついてんの分かるだろ」


「そうね! 身嗜みもしっかりしててえらいじゃない!」


「………………はあ」


 整えてるから触るな、という此方の主張は伝わらなかったらしく、褒めるポイントだと勘違いした紬のお褒めの言葉が飛んでくる。

 気疲れからか、意図が伝わっていない事を訂正する気力ももはや湧かなかった。


 何事もプラスの方向に捉える部分は変わらず健在のようだ。それは彼女のいい部分でもあるが、そのせいで何度調子を狂わされたことだろう。


 心の中での回数を含めると何度目になるか分からないため息をついて結人は顔を上げる。……と、ちょうど目指している停留所に目的のバスが入ってくるのが見えた。


 当然、そのバスに乗れるなら乗りたいが、結人たちがいるのはこのまま歩いていたら置いてかれるだろうという微妙な位置だった。それに経験上、大体のバスの運転手は停留所に並んでいる客が極端に少ないと長くはバスを停めてくれないということを結人は知っている。

 それでも、これを逃したら次の便が来るまで十分程待たなければならなくて、それはなんとしても避けたかった。


「紬さん、あのバス乗るよ」


「え!? ちょ、ちょっと! ……もう!」


 言うと同時に結人は走る。紬も状況を理解したのか、結人の急な行動に戸惑いつつも走って付いてきた。


 意外と余裕があって軽く小走りする程度で間に合い、というよりは運転手がこちらに気づいて待ってくれたようにも見えたが、二人揃ってバスに乗る。


 このバスがこの停留所発であるのと、今が平日の日中だからだろう。結人たち以外の乗客はおらず、席が選び放題だった。

 「スニーカーにしといてよかった……」と呼吸を整えながら独り言をこぼす紬を傍目に、結人は迷わず一番後ろの五人掛けの席に腰掛ける。窓側に詰めると隣に紬が腰掛けてきた。


「普段混んでて座れないから?」


「うん。普段あんま座らないし座れないけど、こういう時は流石にいいかなって」


 学校は駅と真反対にあって、結人の住んでいるマンションは距離にしてちょうどその中間辺りにある。

 普段の登校日は早朝であるのと自宅付近のバス停から乗るので、それ故に駅からの学生やサラリーマンを乗せた席が埋まっているバスに乗らなければならず、座ることはかなわない。それに結人はもともと進んで席に座らないタイプだった。

 でも、流石にこういうオフの日に自分達以外誰もいないなら、このぐらいは許されてもいいだろう。


 座って間も無くバスが出発し、ロータリーを回って通りに出る。


「まるで貸切ね」


「んまあ、確かに。人が乗ってくるまでだけど」


 言われてみればこの状況は確かに貸切みたいなものだ。

 取り敢えず結人が肯定すると、紬はわざとらしく此方に身体を軽く寄せてきてにっこりと微笑んできた。それは茶目っ気たっぷりの冗談を言う時の仕草だった。


「……二人っきりね?」


「その歳でそれは結構きついな」


 もちろん冗談だと分かっている上で、結人は淡々と対応する。

 こちらの反応を面白がってか、紬はけらけらと笑い声をもらした。


「冗談だって。まさか結構効いちゃったり?」


「いやもうマジ無理っす」


 外見に騙されるような人が相手ならともかく、残念ながら血縁者で一人息子の身としては普通に気味が悪くて無理なので、結人は窓際に少し身体をずらして苦い顔をしながら顔を背ける。


(……なんで効くと思うんだよ)


 結人は窓の外の景色を意味も無く眺め、母親に対する反抗の意思を示すのだった。

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