第9話 日常とそのちょっとした変化

「ヘイ、クリス! いいところに来た。ちょっと助けてくんない?」


 教室に入って自分の席に座ろうと椅子を引いたところで、椅子の軋む音とこちらの気配に気づいた康介に隣から声をかけられた。


「来栖な。イントネーションも微妙に違うし。……ってことは英語か」


「おうよ」


 軽くツッコミをいれて康介の机上を見やると英語の教科書とノートが広げられていて、また此奴は課題を疎かにしたのだな、とある程度察しがつく。


「おうよ、じゃねえ。お前はなんでそう課題をやってこないんだ」


「いや、昨日はちゃんと時間取ってやったんだって」


「その言い訳は流石に無理だろ。じゃあ今やってんのはなんだよ?」


「……やるとこ間違えちゃったらしくて」


康介は悪びれる様子もなく、てへっと舌を出してくる。


「このおっちょこちょいめ」


「まて! 暴力はよくないって!」


軽く拳を握ってゆっくり持ち上げると康介は身体を後ろに反らしながら両方の掌でガードを作った。

 結人は拳を振り下ろ……さないで、鞄から筆箱を取り出して自分の机を右隣の机にくっつける。


 本音を言えば趣味である読書を始めて空想の世界に浸りたかった。それに課題をやらないのは彼の勝手で結人としては知ったこっちゃない。でも友人として康介を見捨てて隣で本を読み始めるのはいささか薄情がすぎる気がするし、見捨てた後ろめたさで読書に集中できないなんてことになろうものなら本末転倒だった。


「ほら、時間ないんだからさっさとやるぞ」


「マジ? いや助かるわー。なんだかんだ言ってやっぱお前が一番頼りになるわ」


「また調子の良いことを……で、どこが分かんないんだよ?」


 自分が頼りになるのではなくお前が不注意なんだ、と心の中でこぼしながら結人は康介の分からない部分を聞き出していく。

 課題は英語の中文にいくつかの問いが付随している形式のものなのだが、康介は「ごめん、英文から全く分かんねえ」と頭を掻いた。

 仕方がないので結人は文の主題と論理構造、特徴的な単語などをピックアップしながら端的に文章の説明をしていく。


「……おー、なるほど。ってことは、こことここの文は対比の関係になってるんだな?」


「そういうこと。文章構造の説明はしたからあとの問いは自分で頑張って」


「うい、とりあえずやってみるわ。……時間使わせてごめんな」


「別に。それよりテスト近いんだから課題と授業、もっとしっかりやったほうがいいよ」


「うわ、そうだった……」


 嫌なことを思い出させたらしく康介は渋い表情をする。

 そう、二週間後には中間テストが控えていた。

 日々復習に勤しんでいる結人としては心の余裕があって、もはや高校最初のテストの難易度がどんなものか楽しみにしているまであるが、勉強そのものがあまり好きではない康介にとってはなかなかの苦行になるだろう。


 康介を気の毒に思っていると、それまでざわざわとしていた教室の喧騒が僅かに収まりを見せる。

 違和感から周りに視線を向ければ、ついさっき教室に入ってきたらしい涼音の姿が目に入った。


 教室の生徒は男女問わず涼音の美貌に目を奪われていて、相変わらずの魅力に雑談どころではなくなっていた。その様子を横目に眺めてやはり彼女の美貌は万人に通用するのだな、と結人は再認識する。


 集めた視線を気にする素振りもなく涼音は静かに歩いて自身の席に向かう。その途中で結人の横を通り過ぎたが、特にこれまでと変わった様子は見せなかった。


 彼女が自身の席に座って授業の前準備を始めるに連れて、次第に教室も元の騒がしさに戻っていく。

 

「小鳥遊さん、絶対にテストの点数良いよな。大人しくて勉強できる感半端ないし」


「確かにああいうタイプはできるだろうな」


喧騒に乗じた康介の発言に賛同しつつも、結人は昨夜の涼音の様子を思い出していた。

 昨夜、彼女はこうなりたくてなったわけではないのだと、ほんのり疲れ混じりに言っていた。それに対して結人は仕方のないことだと思ったし、今もそれは変わらない。だが、どことなくもやもやするのだ。……それがなんなのかはいまいち分からないが。

 ただ、他人である自分が彼女の本音と現実を勝手に比べて、彼女の現状に勝手に引っかかっているのもよくよく考えたらおかしな話だった。


(俺、キモいこと考えてんな……)

 

 結人は顔を顰めて内心で自虐する。その様子を見た康介が「どうかしたか?」と心配してきたので、「なんでもない」とだけ軽く返しておいた。

 

 悪友の手伝いを終え、結人は机をもとの位置に戻す。それから本来の目的だった読書をしようと鞄から本を取り出したところで、机上に置いておいたスマホが短く震えた。

 何とはなしにスマホを持ち上げて画面を覗き込む。


「…………!」


 通知のトップに出てきたのはニュースでもゲームアプリの通知でもなかった。


 コミュニケーションアプリのアイコンと、それに付随した『おはようございます』というシンプルで丁寧な文字列。送信者の欄には涼音の名前があった。


 結人は瞬時にスマホの電源を切って胸元で画面を隠し、周りを見回してから軽く安堵のため息をつく。

 付近には誰もいなかったし、隣の康介も英語の課題に集中していてこちらには気付いていなかった。

 幸いにも、涼音から連絡がきたという事実はまだ誰にも気付かれていないようだ。


 スマホ片手に結人は取り敢えず教室を出る。

 返事を返したほうがいいのかを判断するには十分な情報を得られていなかった。

 廊下に出てから適当な壁に寄りかかって背後の視線を断ち、結人は先ほどの通知からコミュニケーションアプリを開いた。


 涼音から来ていたのは『おはようございます』の一言だけで、それはだれがどう見ても分かる朝の挨拶だった。

 一瞬、なんでわざわざ挨拶を送ってきたのだろう、という疑問が頭をよぎったが、この際そんなのはどうでもいいことだろう。朝に挨拶をするのは別に普通のことだし、それが直接できないからこうして送ってきたというだけで。

 つまり、結人が今すべきなのは『おはよう』という午前十時ぐらいが期限の挨拶をできるだけ早く返すことだった。

 早速タッチパネルを操作して『おはよう。びっくりした』と打ち込んで送信する。


 あとは教室に戻るだけなので教室の後ろのドアから室内に入ったのだが、その時無意識に視線が涼音の席の方を向いていて偶然にもこちらを見ていた涼音と目が合ってしまった。


(やべっ!)


 反射で顔を逸らした結人には一瞬しか見えなかったが、どうやら涼音は微笑んだらしかった。


 結人はそのまま逃げるように席に着いて、都合よく置いてあった本を手に取って開く。普段なら周りの喧騒が聞こえないくらい本の世界に没入できるのに、今回は文字を読んでも全く内容が頭に入ってこなかった。


(……わざわざ挨拶送ってくるとか、律儀すぎるし可愛いかよ)


 読書を諦めて本を置き、結人は机に伏せるのだった。

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