第8話 理想的(?)な朝
「昨日のは……夢、だよな…………?」
ベッドの上で上体を起こした後、ぼんやりしたまま数秒が経過して眠気混じりの一言目である。
相手を必要としないタイプの問いに、傍らで座っていたペティが首を傾げて不思議そうにこちらを覗き込んできた。
「ふわぁ…………おはようペティ」
目が覚めるに連れて頬で正確に感じ取れたザラザラした感触とその産物であろう頬の湿り気、そして当然のように傍にいる飼い猫。
どうやら甘えん坊な飼い猫がいつも通りに主人の顔を舐めながら起こしてくれたようだ。
「なあ、ペティ。いつも起こしてくれるのはほんと助かってるけど、頼むから学校行く前に顔を舐めるのはやめてほしいな」
ティッシュで頬の湿り気を軽く拭き取りながら飼い猫に再三に渡るお願いをする。
話を聞いていなかったのか、ペティはこちらを一切見ずに掛け布団で覆われた結人の太腿の上に乗ってきて、うつ伏せに小さな身体を伸ばした。撫でて欲しい時に見せる仕草だった。
これまたいつものことで、結人は苦笑いしつつも仕方なく右手でペティの背中を撫で始める。左手は枕の横に置いてあるはずのスマホを手探りで見つけて掴んだ。
電源ボタンを押してとりあえず現在時刻を把握し、頭の中で家を出るまでの簡単な行動計画を立てる。まず顔を洗って洗濯機のスイッチを押し、朝食を摂り……とそんな感じに。
そのついでに僅かな記憶を辿ってコミュニケーションアプリを開くと、やはりというか、涼音の名前が友達一覧に並んでいるという事実だけが視界に認められた。
続けてトーク画面を開くと『改めて今日は色々とお世話になりました。ご近所同士よろしくお願いします』という涼音のメッセージと、それに対して結人が返信した『夕食までいただいてとんでもない。こちらこそよろしくお願いします』というやりとりの履歴があった。
「……どうやら夢じゃないらしいな」
確かに昨日あったらしい事実は小さく感慨を生むだけでそれ以上特に何もないが、だいぶ頭も冴えてきて布団から出るきっかけになった。
「んっ……くぅ…………よし、顔洗いに行くぞ」
両腕を上げて伸びをして、ペティの背中に軽くトントンと触れる。起き上がってこちらを見上げてくるペティのお腹に腕を回して肩に乗せ、結人は洗面所へ向かった。
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偶然出会ってひょんなことで夕食をご馳走してもらったからといって、それがなんだというのだろう。
朝食がてらコーヒーでも飲もうと赴いたキッチンで、バックカウンターの引き出しからマグカップを取り出して結人はふと思う。
昨日は突然の出来事と驚きの連続で多少混乱していたかもしれないが、今になって考えればあれはただの御近所付き合いにすぎないのだ。
確かにその御近所付き合いの相手が自身と同学年の異性で、その上学校では人気者の立場に立たされる程優美な人物であるのは特殊かもしれない。連絡先を交換した故に今後関わりが増える可能性も大いにあるだろう。
でも、だからといって何かを変に期待しようとは思わないし、あくまで真っ当な付き合いをしていくのが互いのためなのだ。
結人はスライド式の吊り棚からドリッパーを取り出してマグカップの上に重ね、紙製のフィルターをセットする。それからコーヒー豆を収納してある引き出しを引いて、既に挽かれた豆が入っている瓶のうち、ラベルに書かれたおおまかな賞味期限と自身の好みを基準に一つ取り出す。
蓋を開ける前からほんのりとしていた甘い香りは蓋を開けることで臭覚いっぱいに感じられた。
一人あたりの適量をスプーンで掬って計りながらフィルターに落とし、ケトルでお湯を注いでいく。最初は多めに、次は一回目より少なめに、最後はほんの少しと三回に分けてお湯を注いで、頃合いを見てドリッパーを外す。
結人は出来立てのコーヒーとバタートーストの乗った皿を持ってキッチンの反対側に移動する。そこは結人のお気に入りの場所だった。
キッチンは横幅が2.5m程とかなり長いのだが、ワークトップ部分から右側の正面に壁はなく、奥行きとともに一段下がった部分はカウンターテーブルとしても使うことができる。
その特徴的なカウンターテーブルをカフェのように活かしたくて、結人はLDK部分のインテリアをカフェっぽい物で揃えて擬似カフェ空間を創り出した。
机や椅子、棚などは主に木製のもの(椅子は柔らかいクッション付き)を使い、落ち着いた色合いのソファや絨毯を買い揃えたり、少しばかり緑を加えることでゆったりと寛げる雰囲気を醸し出すことに成功していた。
一応カウンターテーブルとは別にダイニングテーブルもあって食べ物の種類や取れるスペースなど必要によって使い分けているが、パンやスイーツなどの場合は専らカウンターテーブルを使っていた。
席について早速結人はバタートーストに齧り付く。
微かなバターの味と、口の中で熱とともにふんわり広がる小麦の味。慣れ親しんだシンプルな味わいはコーヒーの前にもってこいのものだ。
トーストを飲み込んだ後にお待ちかねのコーヒーを口にすると、コクのある強い酸味が舌に触れ、すっと喉に通っていく。
以前は衝動に駆られた単なる背伸びだったコーヒーも、今では味わい深く感じられていてしみじみとくるものがあった。
このリビングの雰囲気も今現在ではまだ自己満足の範疇を出ないが、髪型や服装を褒めてくれた涼音にだったら共有してみてもいいのかもしれない。
……とはいえ涼音を部屋に誘う自然な文言なんて到底思いつくものではないし、それにいざ誘う勇気があるかというと怪しかった。そもそも昨日少し話したぐらいで自分は何を勝手に浮かれているのだろうという着地点に落ち着く。
安易に思い付いた発想を消し去ろうと結人は再びカップを口元に当てる。
相変わらずコーヒーは安定したほろ苦さを味覚に供給するのだった。
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