第2話 プライベートと自己満足

 カードキーの入ったポーチをセンサーにかざすと、ピッと小気味良い電子音が鳴ってエントランスのドアが左右に開いた。


 エントランスに入っていつもの癖で結人は受付のデジタル時計を流し目に見る。


 多少の誤差はあれど、示されているのは普段とさほど変わらない時間だ。

 まあ、それもそうだろう。部活に入っていない結人は放課後寄り道もせずに真っ直ぐ帰ってくるのだから。


 受付の係員さんと軽く挨拶を交わしてエレベーターホールに足を運び、ちょうど止まっていたエレベーターに乗って自室のあるフロアに上がる。

 再びポーチをかざして薄暗い中廊下に出ると自室が近い安心感からか意識していなかった疲労感が胸に滲んできた。


 それでも廊下の突き当たりまで歩いていけば自室の前に着く。

 鍵でドアを解錠して軽く息を吐いてから、結人は左足を軸に体を捻って右手で体重任せに取っ手を引いた。


「ただいまー」


 玄関に入って脱力気味に帰宅を伝えると、声に反応して廊下の曲がり角の向こうからフローリングをトタトタと駆ける足音が近づいてくる。

 立ったまま待っていると、曲がり角から黒と灰色の混じった毛並みの猫が姿を現して結人の足に身体を擦り寄せてきた。


「ただいま、ペティ。いい子にしてたか?」


 鞄を置いて左腕でペティを抱え上げる。

 右手で頭から背中にかけてゆっくり撫でるとペティは気持ちよさそうに喉をゴロゴロ鳴らしてエメラルドの目を細めた。


 ペティは結人が中学生の時に拾ってきた元捨て猫だ。

 高校生の春からこのマンションで一人暮らしをすると決まった時、両親は『飼い主の結人と離れ離れにするわけにもいかないだろう』とペティを連れて行く許可を出してくれた。


 生活する場所の変化がペティに悪影響を与えないか心配だったが、ここ一か月間、今のところペティの体調に悪い変化は見られない。


「後で遊ぼう。先に着替えてきていい?」


 靴を脱いで腕からペティを降ろす。

 ペティはじゃれ足りない様子を見せたが、結人がリビングの方向を指差すと言いたいことを理解したのかリビングに駆けていった。

 ピンと張った尻尾が早く遊びたくて仕方ないと主張していて、微笑ましさに思わず結人は笑ってしまった。


 ペティを見送った後、結人は洗面所で手を洗ってリビング横の寝室に向かう。

 その足取りが軽やかなのは、結人にとってこの後にくる時間がお楽しみの時間であるからだった。


 寝室に入った結人は荷物を置いてメガネを外す。

 制服を脱いで代わりにタンスから白い生地にカラフルな絵の具を撒いたような柄のTシャツと黒いジーンズを取り出して身につけた。この二つの組み合わせは結人のお気に入りだった。


 それから結人は洗面所に戻り、ミラーキャビネットからヘアアイロンを取り出してコードをコンセントに繋いだ。


 無論髪型をいじるためなので前髪を少しとってヘアピンで止めた後、早速前髪の内側にアイロンを通していく。

 それが終わったら今度は髪の毛全体に左右ランダムのカールを作っていく。

 後ろ髪は耳より上の部分を膨らませて、下の部分は締めておくのがポイントだ。


 少し外ハネをつければアイロンの出番は終わり、仕上げにワックスを髪の毛に馴染ませていく。

 耳を隠しているサイドの髪を左右とも耳に掛けて、お気に入りのシルバーのフープピアスを左耳につければ完成だ。


 鏡に自身を映して出来栄えを確認する。

 ウルフヘアと服装が違和感なくマッチしていて「……よし」と自己満足の声が出た。


 プライベートを大切にしたい結人にとって、格好をいじることはルーティンのようなものだった。

 それに、学校で根暗そうな見た目をしている分プライベートで好きに着飾った方が自らギャップも楽しめるし、何より個人の時間を満喫できる気がした。


 結人は制服を纏めて洗面所の洗濯かごに放り、鼻歌を歌いながらリビングに向かう。


 リビングに着いて中央に赴くと、お気に入りのネズミを模したおもちゃを突いたり転がしたりして遊んでいたペティが主人のもとに駆け寄ってくる。


 結人はその場に座って、駆け寄ってきたペティを抱きかかえて撫でくりまわす。

 目を閉じて完全に身を委ねてくる様子が大変愛らしくてしばらく撫で続けていると、ペティは途中で結人の懐から抜け出して「こっちでも遊んでよ」とでも言いたげにおもちゃを咥えてきて結人の前に落とした。


「ごめんごめん、お前が可愛いからつい。……いいか? 投げるぞ、ほらっ」


 ペティが遊んでもらおうと落としたおもちゃを拾い上げ、投げる素振りを見せてから少し遠くに投げる。

 ペティはすばしっこく走っておもちゃを取りに行った。

 猫の狩猟本能による素早い動きはいつになっても見飽きることがない。それくらいに鮮やかで無駄のない動きだった。


「相変わらずすげえな、お前」


 戻ってきたペティの顎を撫でてやると、愛猫は結人の手に頬擦りをして甘えてから、またさっきと同じようにおもちゃを咥えてきて結人の前に落とした。


 そのまましばらく遊び相手をしているとペティは途中でおもちゃを咥えたまま自分の寝床に入っていく。

 遊び疲れたのだろう。おもちゃを包むように丸くなって、少しすると小さな寝息を奏で始めた。


 気分屋の可愛らしい寝顔を見届けてから、結人はバルコニーに出て洗濯物を取り込んでいく。

 マンションの壁を伝って流れる春の涼やかな風が衣類を優しく撫でると、服に馴染んだ柔軟剤の匂いが宙を弾けて舞う。

 臭覚に意識を集中させるとアロマの匂いが疲れた体を少しだけリラックスさせてくれた。


 大した量もない洗濯物はすぐに取り込み終わり、結人はそれぞれの衣類を所定の位置に畳んで片づける。


 着替えて、ペティの遊び相手になり、乾いた洗濯物を取り込む。

 帰ったらとりあえずやることを一通り終えて、結人はリビングのソファに身を預ける。

 この後夕飯の買い出しに行く予定もあるが、そこまで急ぎでもないしとりあえず一段落、といったところだった。


 ソファに身体を預けながら、結人はリビングの端で眠っているペティになんとなく視線を向ける。

 丸くなったペティはすぅー、すぅー、と静かな寝息を漏らしていて、時々口元をもごもごと動かしている。好物を食べる夢でも見ているのだろうか。


 気持ちよさそうに寝ている愛猫の様子を眺めていると、視界が段々とぼやけてくる。

 あまりに自然な睡眠導入に抗う気も湧かず、結人は溶けていく意識に身を任せた。

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