第2話 ティータイムジャック

頭の奥の奥の、さらに隅っこの方が、定期的にカンカンと叩かれているような気分だった。


酒は車で来ていたので飲まないようにしていたのだが、(というより飲めないのだが)あれだけの酒池肉林である。匂いだけでも酔ってしまったのだろうか。


はたまた、鼓膜を破るのを前提としたようなあの派手なBGMを聞いたせいであろうか。


それとも、あのなんとも言えない下卑げびた色のライトがそこらじゅうを追っかけまわしていたからだろうか。


女のアマイ匂いか?酒のキツイ匂いか?……爆音か?光?それとも夜の闇?……


1夜開けた朝のセレウスは、まともに頭が働いていなかった。


手にした書類をパッと投げ出して、目頭を押さえながら、出勤時カバンに詰め込んだタウン誌を取り出してぼんやり眺め始めた。


ここは、エリモスファミリーが南地区に構える事務所の一部屋である。


もとは物置きだったのを整理して使っているせいか、本やファイル、段ボールが多くて狭いうえに少し埃っぽい。

だが、日当たりはよかった。

セレウス自慢の物置き部屋オフィスである。


突然で恐縮だが、諸君らはセレウス・リーブスのことをどれくらい知っているだろうか?


20代半ばで背丈が大きい。しかし、肩幅や胸囲が少し寂しいので、ガッチリした印象は受けない。


髪の毛はクセっ毛で、立派な「天然パーマ」である。

よれたスーツがよく似合っていた。


彼の仕事は雑用に雑用、さらに雑用である。


マフィアだからといって、四六時中殺し合いをしているわけではない。


人並み面倒なことを…特にセレウスくらいの扱いになれば子どもの使いっぱしりと同じくらい、どうでもいいような仕事も押し付けられる。


しかしセレウスの場合まだマシで、大学で学んだ知識をかわれ、事務作業に当たることが多かった。

彼の生まれや境遇が、もう少し温かいものであれば、人間的な性質を考えても、こんな世界にいるはずのないような男である。


いまいちしっかりしない頭で……というのも、セレウスは転職という話題を前にすると、真面目に考えるのをやめてしまうのだ。


清掃業、ウェイター、スタンド、介護職、学校事務、ペットショップ……クラブ店員にスポーツインストラクター、出版社に……厩務員きゅうむいん見習い??朝四時から競争馬の世話をするのか……


最後の仕事はさすがに興味を引かれたが、しかしどれもこれもいまいちパッとしない。

給料や勤務地、雇用形態、時間……どれをとってもなにかが満たされているようで、何も満たされていない。


7分遅れている掛け時計を見てみると、ちょうどおやつが欲しい時間になっている。


向かいのドーナツ屋に行くか。いや待て…屋根の修繕を頼まれていたような……ならばいっそ大通りのカフェまで……いや、あそこの女給仕には彼氏の愚痴に付き合わされる…マーじーさんの店だ!もうそこしかない。…あぁぁ…!じーさんのやつ、福引きで当てた旅行だったな…………


選択肢がどんどん削られていく。

さんざん悩んで、座ったり立ったりした。

しかし結局、もう面倒だと思って、給湯室でインスタントコーヒーを入れることにしたようである。

インスタントコーヒーは人類の叡智の結晶なのだ。


ガシガシと天然パーマをさらにこじらせて、キャスターを引いたとき、誰かが廊下を歩いてきていることに気付く。

セレウスは咄嗟に身構えた。


「セレウス、居るか?…入るぞ……なんだ、出かける途中だったか?」


「……スリカータさん、いえ…別に…」


黒で統一されたシングルスーツのストルグがそこには立っていた。

一眼見ると、その顔つきからも、ビジネスマンに見えなくもない。


しかし、その黒は単なる黒ではなく…セレウスには分からなかったが、間違いなく、自分のスーツの黒より上品な色合いである。


ネクタイの結び目がとにかく美しかった。


「こんな末端事務所に……なにかあったんですか?」


「…いや、別に何もない。個人的にお前に相談があってな……」


椅子を探すストルグに、セレウスはさっと自分の椅子を差し出した。

他に椅子はパイプ椅子しかない。

鞄から取り出された書類に、セレウスは素早く目を通す。


「拝見します。ああ、前言ってた不動産所得税の件ですね。それにこっちは……教育資金の見積もり‥‥ですか……あ、あの娘さんおいくつでしたっけ?」


堅く冷たい表情を少し緩めて、ストルグは鼻頭を掻いた。


「先月ちょうど2歳になった。娘は誰もが聞いただけで震え上がるくらいの大学に入れたいと考えている」


「………‥ま、まぁ計画はどんどん先を見て考えていくからこそ計画なんで……とりあえず不動産の方からいきましょうか」


セレウスが卒業した学部は経済学部であった。

並みの銀行員くらいの……いや、下手をすればそれなり以上の仕事はできるかもしれない。


せまっ苦しい部屋で、セレウスの話をストルグは静かに聞いていた。

時計の針だけがどんどん進んでいく。


「……なるほどな。妻にも説明して、お前の言う通りにしてみよう。大分時間を取らせてしまったようだな。これ、少ないが礼だ。しまっとけ」


書類を片付けながら、ストルグは茶封筒を取り出して机の上に静かにおいた。


「もらえませんよ。別に対したことはしてません」


「いや、お前に聞かなければこれ以上の損を被っていたかもしれない。それに俺は情や精神だのの心の繋がりを信用したりしない。物的なつながりこそが至上。……」


圧に押されて何も言い返せないまま、セレウスは封筒を受け取った。

膨大な額ではなかったが、こんな話でもらっていい金額とも思えない。


ストルグは去り際、机の端に追いやられた先ほどのタウン誌を目にする。


「……バイトでも始めるのか?」


「ああ、いえ、そのページはたまたま‥‥」


ストルグがその時なぜかふっと笑った。

最恐と畏れられるストルグ・スリカータには見えないどこか優しい笑顔だった。


「さっさと転職するんだな」


転職。それはまさに呪いだ。

その一歩が果てしなく遠い……自分を苦しめる呪いなのだ。

この呪いが無ければ、セレウスだって、興味もないようなタウン誌を持ってきたりしない。


「………はぁ…屋根でも直しに行くかな」


少し間を空けて、セレウスはため息混じりに部屋を出ていくのだった。














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