第4話 やっぱりほら思ったとおり

 翌日。午前最後の授業は体育だった。男子はグラウンドのインフィールドで五十メートル走の記録をとり、女子はトラックを使ってリレーの練習をしているらしかった。


 俺はすでに走り終え、地べたに体育座りをしてじっと目を凝らしていた。もちろん目の前を走る男子にではなく、トラックの脇に座る女子――七海さんにだ。


 体操服の彼女が友人にはさまれて談笑している。いや、笑われていると言ったほうが適切かもしれない。なにか話すたびに左右の友人が笑い、七海さんはきょとんとしたあと照れ笑いをしている。


 イジられているらしい。俺が知らなかっただけで、彼女が天然なのは周知の事実だったのかもしれない。


 その曇りのない笑顔を見ていると、もしかしてシリアスな事情などないのではと思えてくる。


 ――いや……!


 それはリアルではない。現実はつらく厳しいのだ。でなければ、なぜ俺がハードモードの人生を歩まねばならなかったのか分からない。


 ――きっとなにか……、なにかあるはずだ。


 俺は自分の授業などそっちのけで、意識のすべてを七海さんに集中させた。


 と、彼女が教師に呼ばれてトラックのレーンに移動した。


 彼女は三番手の走者だ。教師の笛で一番手の走者たちが走りだす。二番手の走者がバトンを受けて加速する。現在、七海さんのレーンが一位だ。


 七海さんが後ろに手を伸ばして駆けだす。その手に二番手走者がバトンを託す。


 と。


 なぜかバトンがポーンと宙を舞って地面に落ちてからからと転がる。七海さんはあたふたとバトンに手を伸ばす。


 順位はまだ二位。ここから挽回は可能だ。バトンを拾い上げて前を向いた彼女の顔はまだ諦めてはいない。


 知らぬ間に俺は痛いくらい拳を握っていた。


 ――行け……!


 七海さんが走る。


 ――おっそ!?


 彼女の走りはまるで超高速度カメラで捉えた映像のようだった。


 次々と抜かれていく。


 瞬く間に最下位になる。


 表情の必死さはオリンピック選手にだって負けていない。ただまったく速度が足りていない。


 七海さんは三位にも大差をつけられ圧倒的最下位でフィニッシュした。一位から三位の女子は気の毒に思ってか素直に喜べない様子だ。


 七海さんはぺたんと地面に座り、胸に手を当てて荒い呼吸をしている。


 それは一向に治まらない。


「……?」


 ――ちょっと長くないか?


 七海さんは苦しそうに咳きこんだ。一位の女子がそばにしゃがみ、彼女の背中をさする。


 そうしてようやく落ち着いたのか、七海さんは立ちあがり、トラックから出ていった。


 笑顔ではある。しかし先ほどのようなはつらつさは陰っていた。


「……」


 悪い予想が頭をよぎる。


 まさか、あんないい子が、そんな……。


 嘘であってくれ。


 そう願い、授業が終わったあと、校舎に引き返していく七海さんにできるだけ近づいて観察する。否定材料を見つけるために。


 七海さんは俺の視線に気がつき、慌てて前髪を整えたあと、胸元で小さくピースした。


 いつもどおりの彼女に見える。


 しかし俺は発見してしまった。


 白い体操服の胸元。そこにある小さな赤黒い染みを。


 ――そんな……。


 否定材料が欲しかったのに、逆のものが見つかるなんて。


 また期待は裏切られ、悪い予想が当たってしまった。


 ――くそ……!


 しかしこれで今までの七海さんの行動、その理由が理解できた。


 ――なら、俺は……。


 どうするべきか。考えるまでもない。


 俺はそれを行動に移すことにした。




「一緒に帰ろう!」


 放課になったとたんのセリフに教室が『どよっ』とした。


 前は『ざわっ』だったのにどうして今回は『どよっ』なのか。


 答えは、そのセリフを口にしたのが俺だったからだ。


 七海さんはもともと大きな目をさらに大きくした。


「驚いてる場合か? 早く準備をして、ゆっくり帰るぞ」

「は、はい」


「おお」みたいな歓声があがる。なにをそんなに騒ぐことがある。「一緒に帰ろう」はいつのまにか「月がきれいですね」みたいな意味合いになったのか?


 いや、まあそうかもしれない。根底に好意があるという意味では。


 しかし俺のはちょっと違う。


 七海さんが鞄を持って立ちあがった。


「よし、行くか」

「うん」


 俺たちはクラスメイトたちの注目を浴びながら教室を出た。






 俺の隣を歩く七海さんは嬉しそうな、でも少し困惑したような顔でちらちらとこちらを見る。


「もう少しゆっくり歩いたほうがいいか?」

「う、ううん。そういうんじゃないけど」

「早かったら言ってくれ」

「うん」


 困惑の色がさらに濃くなる。


「そういえば例の件だが」

「例の件?」

「俺と付き合いたいってやつ」

「!? う、うん」

「俺でよければ付き合おう」

「……」


 七海さんは立ち止まった。ぽかんとした表情だ。


「なんだ? 気が変わったか?」

「か、変わってないよ! なんか、今日はぐいぐい来るなって……」

「七海さんほどじゃないけどな」

「え? わたしは控えめなほうだと思うけど」

「ふっ……、ふふ、ふはははははは!」

「すごい魔王みたいな笑い方……!」

「面白いジョークだ」

「ジョークって?」

「……」


 体育の時間のやりとりもきっとこんなだったに違いない。


「でも、そっか。わたしと黒森くんが恋人に――」


 とうとつに言葉を切って七海さんは黙った。


「七海さん?」


 呼びかけても返事をせず、焦点の合わない目を斜め下に向けている。


 と。


「う、うぇええ……」


 ぽろぽろと涙を流して泣きはじめた。


「ええ!? ちょ、ちょっと七海さん!?」

「ごめん。ごめんねえ。これは違……、違わないけどお……!」


 顔をくしゃっとして、しきりにしゃっくりをする。


「嬉しくて……!」

「……」


 やっぱり、そうなのだ。


 性急すぎる告白、大きな情緒の波、小さすぎる弁当、進まない箸、虚弱な身体。


 裏の事情はあった。しかしそれは家庭ではなく、七海さん自身に。


 体操服の赤黒い染みが決定打になった。


 あれはおそらく、咳きこんだときに飛んだ血。


 彼女は――、大きな病を患っている。


 そんな彼女が望んだこと。


 それが恋。


 まだ恋の経験がなかった彼女は、いつ止まるとも分からない心臓を恋でドキドキさせたいと願ったのだ。


 だって七海さんは学校全体でも噂になるくらいきれいな子で、どんと構えて待っていればいくらでもいい男が釣れそうなのに、よりによって俺なんぞに告白したんだぞ?


 生き急いでる。そう考えると辻褄が合う。


 なら俺がすべきことは決まってる。


 精一杯、恋を楽しませる。それだけだ。


 しかし、ラブコメのヒロインっぽいとは思っていたが、まさかシリアスラブコメでもさらにハードな、実写映画化するタイプのやつとは。ああいうのって、だいたいヒロインが死ぬほどひどい目に遭う――なんなら本当に死ぬからな。


 ――死ぬ……。


 笑い泣きで涙を拭う七海さん。


 ――この子が……?


「くうっ」


 目頭が熱くなり、俺は顔をそむけた。


「ええ!? なんで黒森くんが泣くの?」

「違う! これは……、これはもらい泣きだ!」

「違わなくない……?」


 七海さんは肩を揺らして笑った。


「黒森くんは天然だなあ」

「お、俺が!?」


 確かにそう見える行動だったが、七海さんに指摘されるのは理不尽な感じがする。


 ――まあ、彼女を笑顔にできたからよしとしよう。


「よし、善は急げだ。デートに行くぞ」

「い、今から!?」

「放課後デートってのがあるらしいじゃないか」

「それはそうだけど……。うーん」


 七海さんは難しい顔をした。


「すごく行きたいんだけど、ちょっと用事が」

「――病院とか?」

「……そんな感じ」


 七海さんは視線をそらした。


 ――やっぱり……。


 またぐっと喉が詰まりそうになるがなんとか堪え、俺は努めて明るい声を出す。


「じゃあ今度の休みにでもどこか行くか」

「うん!」


 俺たちは連絡先を交換して別れた。


 さて、さっさと帰ってデートのプランを練らなければ。

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