5-10「僕が決めたエンディング。」

 どうしようもなくなったら、お空に向かっておねがいすればいいよ。きっと、有里のおねがいも叶えてくれるから。


 だったら僕の願い事は、もっと成績が上がって、給食で好きなものがたくさん出て、優菜のお母さんの病気が治って、それから。あれ、あのとき僕は、他に何を願おうとしたんだっけ。


 目を開いたとき、さっきまで優菜と触れ合っていた部分は、乾いた秋の冷たい空気に晒されているだけだった。皮膚には彼女の、なめらかな肌の感触が残っている。立ち上がったとき、膝に乗っけていたスマートフォンが地面を転がった。拾おうとして屈んだ拍子に、ワイシャツの胸ポケットに入れていたボールペンが落下する。


 チェックインルームの扉を開いた先には人影があって、正確に視認するよりも前から僕はその人物の正体に気がついていた。「……あ、成瀬さん」僕が言うと、彼女はこちらを振り返り、軽く手を上げてから「おつかれ」と言った。


「元気出せ」

「元気ですよ、これまでないくらいに」

「そうか」

「はい」


 早めに心の準備をしておこうと思ったのに、コントロールルームとチェックインルームの間には数メートルの距離しかないから困る。足を踏み入れてから大きく吸い込んだ空気は、学校のパソコン室のような匂いがした。


 端末へ向けて一歩を踏みだすたび、数センチずつ、意識が沈み込んでいく。窓は風で揺れ、音を立てていた。蛍光灯の真っ白な明るさがやけに網膜を刺激していた。


「大丈夫か?」

「はい。大丈夫です」


 電源ボタンに指を乗せる。起動、ログイン、メニュー選択。記憶にある情報を辿って画面を操作していく。成瀬さんは後ろで僕のことを見守ってくれていた。


 僕はきっとあのときの成瀬さんと同じ気分をしているのだろうけど、今の成瀬さんは当時の僕とは全く違う感情を抱いているに違いない。一歩先に進んだ彼女に、追いつけなかった僕の幻影がそこにはあった。でも、もう関係ない。


 優菜を消す罪悪感より、彼女がいなくなる喪失感のほうが大きかった。無機質な端末の、一瞬暗くなった部分に自分の顔が映る。悲しい顔をしているのだろうと思ったが、意外と普通の表情をしていた。


「……『データを削除する』」


 画面の文章を読み上げてから、あれ、何をしてるんだっけと思った。これまで、心への影響が小さく、味のしない方向へ続くよう未来を選択してきたはずなのに、油断すればすぐにでも大声を上げてしまいそうだった。警告文のポップアップまでは声に出す気になれなかった。


 それでも、僕は一文字ずつ丁寧に、表示された文章に目を通した。バーチャルヘヴンに復元したデータの削除プロセスを開始します。このデータを削除すれば、復元した人物はバーチャルヘヴン内で表示されなくなります。この操作は取り消すことができません。


 文章、研修やマニュアルで飽きるほど読んできた内容をそれでも読み進めていく。依頼人や成瀬さんの立ち会いでも読んだから、僕がこうしてわざわざ目を通す必要はなかった。それでも、これは僕にとって避けてはならない儀式なのだと思った。最後に書いているであろうバックアップについての説明には、あえて目を通さないでおいた。


『はい』の文字列に指を伸ばす。手が根元から震えている。勢いに任せて押してしまいたいところを、僕は、ちゃんと、力を込めて選択した。『データ削除を実行中』、文字、かたちだけの無機質な情報が脳に流れ込んでくる。バーが一〇〇パーセントに達したとき、一瞬、身体が浮き上がったような気がした。


 人生におけるかけがえのない選択は僕に優しくなかった。何を選んでも失敗に終わる気がずっとしていた。僕を気遣ってくれるのはいつも、誰かが考えだした言葉だけだった。大人になっても、何も変わらない。「御社は」を枕詞に紡がれた言葉は、やっぱり借り物の言葉でしかなかった。自分の選んだ言葉が誰かに、そして自分の未来に影響を与えてしまうのが怖かった。


 優菜に想いを伝えていれば僕の人生はきっと全く違うものになっていた。引っ越しが決まったあの日、選択しないことを選んだ自分を殺してしまいたかった。


 僕は変わることができた。自分の言葉で社長を説得したし、自分で優菜のデータを消す選択をした。それでも、優菜が消えてもう二度と会えなくなることがどうしようもなく悲しかった。


 言葉、別れ際に優菜が口にしたことを思いだす。


「――うん、そう。だから、約束。私が死んだときは、ちゃんと私のことを忘れてね」


 気づけば僕は座り込んでいた。窓は軋んだ音を立てている。バーチャルヘヴンには存在しない空気の歪みと風の強さがあまりにも現実的で、どうしようもない気分になった。優菜を救えなかった自分を責める、みたいな生き方を続けることでこのかなしみを上手く呑み込める気はしなかった。


 ふわり、金木犀のような香りが漂ってくる。地面に影が落っこちている。視界のなかにあるものが、ゆっくりと輪郭を失っていく。目頭から落っこちた熱の塊が、地面に付いていた手の甲で砕け散って死んだ。


「……よく、頑張った」


 柔らかい感触に髪を撫でられて、顔を上げた先、成瀬さんがちいさく微笑んでいた。涙が頬を伝っていって、彼女の表情がクリアになった側からまた視界がぼやけていく。あ、絶望している、と思った。どうしようもない悲しみと憂鬱が心のなかで膨張して、身体の内部、内臓のどこかが今すぐに破裂してしまいそうだった。


 絶望のやり場がなくて、僕は、声を上げた。僕は子どもみたいに泣いていた。身体が熱くなって、腹の底から沸き上がってきた熱は涙に変換される。


 どうして自分をおいて自殺したんだ、と考えていたときもあった。自殺みたいに世間的な評価がよくない死に方でも、人を救うということがたしかにある。死者に縋ることも同じだった。部分的には救いで、ある一部だけが毒だった。残された僕は、世間の評価がどうだったとしても、優菜の死を自殺として受け入れるしかなかった。


 私を忘れてと彼女は言ったけど、優菜を忘れることなどできそうになかった。だから僕なりの解釈で忘却を働くしかなかった。分離された言葉の意味は、僕に委ねられている。僕は、あのとき抱いていた想いをここで完全に終わらせることにした。


 優菜が好きだった。いつかそれはかたちだけが残って、憂鬱に浸る材料にしかならなかった。自分を責めて生きるのに都合がよかった。眠気と夢の寂しさみたいにあとを引くその感情に、ここでけりをつける必要があった。


 バーチャルヘヴンはたしかに生者を救っていた。でも、僕たちは大切な人の死に絶望して、縋ってしまうその感情を忘れ、受け入れなければならなかった。もしかしたら、バーチャルヘヴンに必要なのは生者と過ごす時間なんかではなく、ただ数分、こうして絶望の準備をするための時間なのかもしれなかった。



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