5-9「約束。」
「もういいのですか?」
玄関の扉に手を掛けた社長の背中に、成瀬さんがしっとりとした声で言う。社長は一度こちらを振り返ると、ゆっくりと首を横に振った。
「いいんだ。これ以上いると、また引き返せなくなりそうだ」
「そうですか」
がちゃん。扉は社長を送りだしたあと、静かに外界を遮断した。続いて成瀬さんが靴を履き、玄関の扉へ手を伸ばす。
「夕陽、すまなかったな」
「え、なにが、ですか」
「社長に伝えたこと。私はただ、夕陽の助けになりたかったんだ」
「いや、社長がちゃんと向き合えるなら、こうすることが最善だったんだと思います」
そうか、とだけ成瀬さんは呟き、ちいさく僕に微笑みかけた。それからゆっくりと扉を開ける。そのとき、後ろから「すみません」と舌っ足らずな言葉が聞こえてきた。
「あの、成瀬さん、でしたよね」
「ああ。久しぶりだな」
振り向いて返事をした成瀬さんは、普段顧客を相手にしているときとは異なり、柔らかくて温かい表情をしていた。外からは、鉄製の階段を降る音がする。音は、力強く、それから開放的な属性を帯びていた。
「お父さんのことを頼みます。あと、有里のことも」
「ああ、任せてくれ」
「有里にはきっと、成瀬さんが必要だから」
「ああ……?」
成瀬さんは怪訝そうな表情のまま首を傾げたあと、「わかった」と間の抜けた声で言った。余計なことを言わないで、と口に出そうとしてやめた。
成瀬さんが玄関から出ていったあと、僕と優菜は一度部屋へ戻ることになった。ベッドに背を付けて床に座り、その隣に優菜が腰を下ろす。前に話をしたときと同じだった。
「お父さん、大丈夫かな」
「うん、きっと」
「そうだといいな」
「たぶんそうだよ」
優菜が僕の肩に頭を乗せる。それから手を握られたとき、羞恥心とか恥じらいとかの感情より、心は悲しみに近い色をしていた。優菜の手は、仮想空間のわりに、人間らしい体温をしている。
「唯にさ、伝えておいてよ。『いい彼氏見つけろ』って」
「彼氏、いるらしいよ」
「じゃあ、『幸せになれ』って」
「わかった」
「大人になったんだなあ、みんな」
床に付いた僕の手を眺めながら、優菜はたしかめるように何度も頷いた。僕は大人になっていた。七年は当時想像していたよりずっと短かった。
「うん、有里は生きないとダメだよ、ちゃんと。まだ、たくさんできることがあるよ」
「できるだけ、頑張ってみるよ」
あはは、と優菜は笑った。
昔からよく同じ夢を見ることがあった。夢のなかで、僕は優菜に想いを伝えている。好きです、付き合ってください。そうすると優菜は顔を真っ赤にして、視線を左右に泳がせたあと、恥じらいながら「うん、お願いします」と言って、最後に弾けるような笑顔で笑う。
もし同じ高校に行っていたとしたら、放課後にどこかへ遊びに行きたかった。特別な関係であることを、クラスメイトにからかわれてみたかった。大人になったら、一緒に旅行へ出かけてみたかった。
そんな未来があったかもしれないし、所詮幻想は文字どおりの意味で終わってしまうのかもしれない。過去を変えることはできないから、僕は未来に向かって生きていくしかなかった。これらの願望は僕の過去にしかない。僕だけが大人になってしまった。
「ちゃんと結婚して、幸せな家庭を築いて……、ううん、ひとりで幸せになってもいい。有里が納得するやり方で、つらいことはあるかもしれないけど、おじいちゃんになるまでしっかり生きて」
「うん、大丈夫だよ」
「そっか、そっか」
優菜は満足げに頷くと、僕の肩から頭を上げて、それからじっと僕の目を見つめた。幅の広い二重と黒く透き通った髪。想像以上の距離感に、身体がどんどん熱を生成していく。
「私は有里のことが好きだよ。寂しいけど、でも、有里が他の人を好きになってくれたことが嬉しい。前を見てくれているんだって」
「え、いや、そんなんじゃ……」
「いいよ、気を遣わなくても」
七年間で優菜への思いはどんどんトリミングされ、残ったのは彼女を失った憂鬱だけだった。そのはずなのに、成瀬さんに心が反応してしまったときは毎回、妙な後ろめたさみたいなものを感じる。朝から会社がある前の夜、なかなか寝付けないときの焦燥に似ていた。「……うん」、僕はそう答えるしかなかった。
「でも、最後に、すこし甘えてもいいかな」
「うん」
死は符号でしかなかった。事実はただの記号としてしか機能していなくて、僕たちは、意識的に彼女を殺す必要があった。
「……消えるの、ちょっとだけ怖いから、少しの間こうさせて」
そう言って優菜は僕の背中に腕を回した。「うん」、僕はその返事しかできていない。
「死ぬ瞬間を待つの、怖いから時間決めてよ。何時ぴったりとか」
「……うん。じゃあ、十時ぴったりにデータを消すよ」
言語学において、言葉を音と概念に分離したことはやはり間違いだったと思う。でも、死を受け入れるためには必要な儀式の意味合いがそこにはあった。葬式やお通夜といった死を証明するための行事を、音で終わらせるか意味を理解するか、自分自身に委ねられていた。
「ほんの少しだけ、生きてればよかったなって、思っちゃった。ずるいよ。死んだあとにわかるなんて」
優菜は僕が抱きしめるにはちいさすぎる身体をしていた。体温は優しく身体に染み込んでくる。絶えることなく感じられる熱は心地よかった。大人になってもきっと、綺麗な顔立ちをしたままなんだろうなと思った。「優菜、ありがとう」、僕が言うと、優菜は今にも壊れてしまいそうな笑顔を浮かべた。
「私ね、人を死に至らしめるものは、『忘れること』なんだと思う」
「じゃあ、僕が優菜のことを忘れなければ、優菜は心のなかで生き続けることになるね」
「うん、そう。だから、約束。私が死んだときは――」
身体が離れて、優菜の目を真っ直ぐ見たとき、彼女の顔はやっぱり涙で濡れていた。それなのに、心の底から、みたいな笑顔を浮かべるから心臓がぎゅっと締め付けられる。
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