5-8「絶望の儀式。」
憂鬱から脱却するために必要な力は、朝、まどろみのなかで布団を出るために必要な力に似ていると思う。眠たいまま布団を出たあとは、何か忘れ物の気配がしているような寂しさがある。無理矢理重たい気持ちから目を背けても結局は寂しい思いをするだけだった。受け入れるための、前を向かせてくれるできごとは起こらない。
夜は静まりかえっていた。バーチャルヘヴンの世界には犬の遠吠えも虫の鳴き声も、救急車のサイレンも存在しない。それでも、夜空で、天体が輝いている様子はやけにリアルだった。僕は、夜の、強制的に感傷的な気分にさせられる温度感が好きだ。
「……じゃあ、優菜に話を通してきます」
社長は何も言わずに頷いた。成瀬さんも黙ったままだった。ふたりに背を向け、優菜の部屋へ続く階段を上がっていく。インターホンに手を掛けると、夜とは相性の悪い軽快な電子音のあとに、はーい、優菜の声がした。
「有里、です」
優菜はすぐに出てきた。彼女に連れられて上がった部屋は、前回よりも片付いているような気がした。優菜はこれから存在ごと消えてしまうことを知っている。何もしないでいるのは落ち着かなかったのかもしれない。
「びっくりしちゃった。もう会えないと思ってたから」
「うん、ちょっと、ね」
はは、と場を誤魔化すために笑ってみると、優菜もわずかに微笑みを返してくれた。
バーチャルヘヴンの住民はデータを消されれば死ぬ。優菜はこの瞬間まで、ひとりで消える覚悟をしていたのかもしれない。データ消去に失敗した。そのことをどうやって伝えようかずっと考えていた。彼女の覚悟を踏みにじる行為なのかもしれなかった。
「失敗、した?」
黙ったままの僕を、覗き込むようにして優菜が笑う。その薄く乗っかった笑顔を見て情けなくなった。声が震えてしまいそうなのを、息を飲み込むことで押さえ込んでいる。
「……うん」
「そっか」、と優菜が言った。秒針の音が僕たちの間を通り過ぎていく。消えたそばからまた新しい音がやってくるから、言わなければならないことを急かされているような気持ちになった。僕たちの間にはしばらく沈黙が続いていた。
外から微かに衣擦れの音がしたとき、「あのさ」、僕たちは同時に口を開いた。
「あ、ごめん。どうしたの?」
「有里、先いいよ」
「うん、ありがとう」
できるだけ落ち着いた口調を演出した。横隔膜は軽く痙攣したようになっている。優菜は僕に「ひとりで消える」という望みを伝えてくれた。社長を呼んだとなれば、裏切りのように思うかもしれない。
死ぬのは怖い。自分の存在が丸ごと消えてしまうことを想像すると、恐ろしくて堪らなくなる。自ら死を選んだとなればなおさらだ。二度も死を選ぶなんて、僕には、その恐怖を思い描くことすらできない。
「……あのさ、結局、社長に見つかっちゃったんだ。それで、最後にどうしても会いたいって。それで、いま、外にいる」
「お父さんが?」
「うん」
優菜は丸くしていた目をゆっくり伏せると、「そっか」、囁くみたいに言った。俯いた拍子に顔から光が落っこちて、彼女の表情が見えなくなる。
「……私、お父さんが自分を責めちゃうから自殺した理由を黙ってるって言ったけど、半分は嘘なの」
「え?」
「本当は、あのとき話を聞いてくれなかったお父さんを責めたい気持ちがあった。それで逃げ続けてたら、いつの間にか話せなくなってた」
僕と社長は死にたい人の気持ちを考えられていなかった。責められても文句は言えない。だから、優菜が「私もお父さんと話したい」と言って、そのとき僕は、情けないことに、なんとなく許された気分になっていた。
「わかった。呼んでくる」
立ち上がるとき、優菜の視線が泳いだのがわかった。今さら何を話せばいいのか、迷っているのかもしれない。「大丈夫?」声をかけると、「うん」、すこし気の弱そうな笑顔が返ってきた。
扉へ向かって足を進めているとき、やっぱり部屋が綺麗だなと思った。ひとりで消えゆく瞬間を待っていた優菜のことを考えると、心臓がぎゅっと締め付けられるようになる。
社長たちはすでに扉の前までやってきたようだった。玄関を開ける前から、向こう側に人の気配がしている。扉を開けたとき、社長は焦りと悲哀、その他たくさんの感情が混じったような表情をしていた。
「社長。優菜が『お父さんに会う』って」
僕が言い終わるよりも早く、彼は靴を脱ぎ捨て、「優菜!」勢いよく部屋へ上がり込んでいった。彼に続いて僕も部屋へと引き返す。あとから入ってきた成瀬さんは、自分の靴だけを揃え、「お邪魔します」と礼儀正しく言った。
視線を優菜のほうへ戻すと、部屋のまんなかで、彼女は困ったような表情で座っていた。部屋の入口で突っ立ったままの社長を見上げて、それから床に視線を落っことしたあと、再び顔を上げる。「久しぶり」、優菜がちいさく言ったとき、堰を切ったみたいに社長が優菜を抱きしめた。
「優菜、すまなかった」
社長の震えた声に当てられて、ふたりのほうへ踏みだしていた足がぴたりと動きを止める。吸い込んだ空気が肺のなかで膨張し、次の空気を取り入れることができなくなっていた。僕は廊下でふたりの再会を見守ることにした。
「……ずっと、優菜のことを考えていた。あのとき……、あのとき、どうして話を聞いてあげられなかったのだろう。父親失格だ。優菜だってお母さんを失って大変な思いをしていたはずなのに、学校のこともひとりで抱え込んでいたのに、何もしてやれなかった。本当に、本当にすまなかった」
驚いたように固まっていた優菜は、一瞬悔しそうな顔をして、それから震えた声で「私、こそ」と言った。次の言葉は嗚咽に遮られて、それ以上出てこられないようだった。
「自分を責めない日はなかった。いつまでも縋るのはよくないとわかっている。でも……、でも、考えずにはいられなかった」
社長の言葉はゆっくりと、まっすぐ僕の心に刺さった。
いくら忘れようとしても、彼女と過ごすなかで感じた風とか匂いとか、そういう日常の些細な部分で思い出が蘇ってくるからどうすることもできなかった。悲しみを乗り越えることは、もしかしたら絶対に不可能で、だからこそ僕たちにはただ受け入れるしか選択肢は残されていなかった。
「私のほうこそ、勝手に死んじゃってごめんなさい」
部屋は涙に相応しい温度をしていた。優菜の頬を涙が伝って、社長の肩を経由し、音もなく落下する。唇を噛んで声を抑えている様子がひどく儚げに映った。
「お父さんは、私のこと、忘れなくてもいいよ」
「優菜……」
「でもね、私はもう死んじゃったから、自分の人生を、ちゃんと生きてほしいの。この世界で生き返ってから、ずっと、考えてた」
嗚咽が混じった優菜の声は静かな空間にかなしく響いた。唐突に湧いてきた目頭の熱が降下していき、全身が火照ったようになっている。
「……そうだよな。有里くんにも言われたんだ。大丈夫だ。ちゃんと、別れる覚悟をしてからきた。私もそろそろ独り立ちしなければならない。わかっている」
「……うん、うん。そっか。よかった――」
ふたりの涙に当てられて、空間自体が悲しくて穏やかな気配をしていた。社長はもう一度優菜を強く抱きしめて、彼女もそれに応じる。
もし優菜が自殺を選ばなかったとしても彼女はきっと痛みを抱えて生きていくことになっただろうし、どちらにせよ今からそれを覆すことができないことが堪らなく悲しかった。自分の力の無さと、どうしようもない事実が刻々と心に煎りついていく。
誰も声を発さない状態がしばらく続いて、秒針の音が鮮明に聞こえるようになってきたころ、「そろそろ行くよ」、社長が名残惜しそうに言った。「うん」、優菜がちいさく頷く。
「優菜。お父さんにとって優菜は本当に大切な存在だった」
「……うん。私も、お父さんが大好きだよ」
「もう受け入れないといけないことはわかっている。でも、しばらく落ち込んでしまうことを許してくれないか。そのあと、必ず前を向いてみせる」
「お父さん、ありがとう」
社長は大きく頷くと、目元を手で拭い、くるりと方向を換えた。それから一歩をたしかに踏みしめるように、ゆっくりと部屋をあとにした。僕とすれ違うとき、「すまなかった」社長が言った。
「いや、僕のほうこそ」
「私は心の準備ができていない。いや、これから先も娘を消すなんてできないだろう。……だから、有里君。任せてもいいか?」
「……はい」
覚悟が伝わるよう、できるだけ強く頷いた。社長は「ありがとう」と満足そうに言った。
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