5-7「空白を埋める。」

 しばらく、室内では重たい沈黙が音の支配権を握っていた。ふたりは何も言わずに僕の言葉を待っている。圧力で声帯が閉じたようになっていた。


「何か答えたらどうだ」

「……優菜に頼まれたんです。社長に黙ってデータを消すように」

「ふざけるんじゃないっ」


 彼は大声でそう言うと、僕の首元に手を伸ばし、勢いよく胸倉を掴み上げた。首元をきつく締め付けられ、呼吸が苦しい。何か言葉を吐きだそうとしても、彼の形相を見たらすぐに引っ込んでしまった。


「あの子の頼みだと? ふざけるな! 私がどんな思いで優菜を復元したと思っている? 大切な娘のデータを勝手に消そうなどと何を考えているんだ!」


 社長に鉢合わせればこうなることはわかっていた。事前にデータを削除すると伝えても取り合ってもらえなかっただろう。これが最善のはずだった。視界の端に成瀬さんの狼狽える様子が見える。結局僕は最善のはずの手段で、失敗してしまった。


「社長、手は出さないと約束したはずです」


 成瀬さんがそう言うと、社長はようやく首元から手を離してくれた。体重が突然足に戻り、よろめいた身体が膝から崩れ落ちる。喉に詰まった咳を出しきったあとも、室内の空気はヒビが入ったままだった。


 データを削除したあとだったらいくらでもやりようはあったのだと思う。バーチャルヘヴンで優菜は父親に向けた録音メッセージを残しているし、そこでは自分の死を受け入れられない父親に対する願いまで言及されているはずだった。


 データが消えたあとのどうしようもない状況だったら、一瞬熱くなろうとも、社長は優菜の死を認めざるを得ないのではないかと思っていた。いや、この様子では計画していた方法でも上手くいったかはわからない。


 本来だったら葬儀で受け入れるものなのに、当時、死者をある意味で生き返らせるというENT技術が発展途上だったのがよくなかった。もしかしたら死んだ娘に、生きていた姿で会えるかもしれない。そういう希望は、彼が優菜の死を受け入れることを妨げてしまっていた。


 僕は、この選択が正しいと自信を持って言える。優菜が「自分の選択に自信を持って」と言ってくれた。だから、結局この方法を取ることが最善だった。


「……優菜は、いつまでも自分の死を引きずられるのが嫌なんだそうです」


 だんっ。室内に腹の底を揺らすような音が響き、遅れて彼が机を叩いたのだと理解した。彼は今にも噛みついてきそうな勢いで僕を睨んでいる。


「それが私に無断でデータを消していい理由にはならない」


 どんな場面においても、全員が救われる選択というのは存在しないのだと思う。誰かが必ず損をするし、悲しい思いをしなければいけなくなる。最善を選ばなければならなかった。あの小説の下巻で、主人公たちが自殺を選んだのはきっとそれが最善だったからだ。


「優菜を殺そうとしたな?」

「……違います。僕は――」

「何も違わない。あの子はバーチャルヘヴンで新しい人生を始めるんだ」


 だから、最善から外れたこの状況で、僕の言葉はどんなかたちを取っても社長の耳に入ることはない。放とうとした言葉がすべて遮られてしまっても仕方がなかった。優菜の死に絶望して、受け入れる必要がある。僕はそのことを上手く伝えられずにいる。


 僕とは異なり、社長は優菜の死を受け入れる気がないようだった。このままではきっかけが起こらず僕は優菜の死に絶望できないままだし、社長も優菜の望むような別の心の拠り所を見つけることはない。


「もういい、端末はロックしてある。君は――」


 これは仕方のないことなのかもしれなかった。僕の意識外で何かを言った社長が横を通過し、出口へと向かっていく。


「社長」


 今度は成瀬さんが社長の言葉を遮った。ドアノブにかかっていた彼の手がぴたりと動きを止める。


「夕陽には、こうしなければならなかった理由があるんです。たしかに、勝手にデータを消すという彼の行動をすべて肯定することはできない。そう判断したからこそ今回のことを社長にお伝えしました。でも、彼なりにこの決断をした理由があるのだと思います」

「もう話は終わった」

「社長! ……私は、後悔しているんです。有明誠士郎と高橋凪の件で、私はふたりを会わせないよう夕陽に命令しました。でも、本当は夕陽の言うとおりにしたほうがよかったんじゃないかって、ずっと、頭の片隅に引っかかっているんです。何が正しいのか、わかりません。でも私は、誰にも後悔してほしくない」


 社長は何も答えなかった。ゆっくりとこちらを向いたその視線が、成瀬さんと座り込んだままの僕を順に眺める。僕が口を開きかけた次の瞬間、成瀬さんは突然、深く頭を下げた。初めて見る光景だった。


「お願いします。夕陽の話を聞いてあげてください」


 誰にも頭を下げたくないと普段から口にしている彼女が、僕のために信条を曲げてまで社長にお願いしてくれている。これには彼も驚いたのか、しばらく目を丸くして彼女を見つめたあと、ちいさく目を伏せて、それから大きな溜息を吐いた。


「なんだ」


 社長が身体をこちらへ向けると、成瀬さんはようやく頭を上げた。僕は立ち上がり、彼の目を真っ直ぐ覗き込む。


「嘘、吐いてすみません。本当はこの前、ちゃんと優菜と話をしました。勝手に消そうとしたことも謝ります。でも、忘れられることが優菜の望みなんです」

「どういうことだ」

「優菜は、『私のことは忘れて、それぞれの人生を生きてほしい』と言っていました」


 遠くから、救急車のサイレンが聞こえた。もしかしたら、誰かがこれから死ぬのかもしれない。大切な人を失うことは避けられないことだった。多少時間をかけてでも前を向かなければならなかった。


「優菜は知らないのだ。私がどれほど大切に思っているか」

「……知ってるからこそですよ。社長は、自分を責め続ける理由がほしいだけなんだと思います」

「私の何がわかるんだ!」

「なんで、社長は自分だけが苦しいと思ってるんですかっ」


 心のなかで、ガラスの砕ける音がした。優菜が死んだことで生まれた憂鬱を、僕だってずっと抱えて生きてきた。


「わかりますよっ、社長の気持ちくらい。僕だって優菜を助けられるはずだったはずなのに、自分の選択が悪かったせいで救うことができなかった。だから、ずっと後悔してたんです。でも、優菜はそんなこと望んでなかった!」


 過去を覆せるはずはないのに、そうやって自分の責任に縋って思考を放棄し、楽になろうとしていた。それが苦しさと快感の、ちょうどいい塩梅をしていた。


「僕たちは、優菜が死んだことを受け入れる最初の機会を見過ごしてしまったんです。宝城開発部長が言っていました。人を死に至らしめるものは『絶望』なんだって」

「何? 宝城が?」

「あれからずっと、考えてたんです。必死に考えて、自分なりに結論を出しました。残された人たちに必要なのは死者をいつまでも大切な存在にすることなんかじゃなくて、ちゃんとその人の死に絶望して、生活から切り離して、ちゃんと弔うことなんじゃないかって。僕たちはちゃんと優菜が死んだって絶望して、受け入れなくちゃいけないんです」


 互いの中身を見透かすみたいに交わっていた視線を、社長のほうから逸らした。目に宿っていた、熱のようなものが少しずつしぼんでいくのがわかる。


 どうしようもなかった。受け入れがたい悲しみは、それでも受け入れるしかなかった。絶望しなければならないということが、どうしようもなく悲しかった。


 部屋の空気は乾いている。重量感のある呼吸音だけが水気のない空気を揺らしていた。衣擦れの音はしなかった。しばらくして、社長が「最後に優菜と会わせてくれ」と言った。

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