5-6「永遠のお別れ。」

 社長室は静まりかえっていた。電気を点けると外から気づかれる可能性があるため、事前に用意していた懐中電灯をバッグから取りだし、室内を照らす。光が窓に当たらないよう、充分に気をつけなければならない。


「どこだ……」


 ありそうな場所の候補はいくらか絞れているが、そう簡単には見つからないだろう。まずはデスク周りを探してみることにした。机の上、書類ケース、バインダー、引き出し、引き出し。決算やら会議やらのことが書かれた書類ばかりで、求めている情報はなかなか見つからない。古い共用のパソコンがそうであるように、バーチャルヘヴン没入用のゴーグルにテプラでパスワードを貼っているのではないかと思ったが、そう物事は上手く運ばなかった。


 その瞬間、人の、廊下を歩く気配がした。咄嗟に机の裏にしゃがみ、身を隠す。足音はどんどん近づいてくる。もしかして、社長が戻ってきたのだろうか。忘れ物をした、実はまだ帰っていなかった、様々な可能性が脳裏を駆け抜けていく。もしかして、僕の行動を監視していたのではないか。外部の業者に委託すれば、ログイン時の映像を再現することができる。もし、僕たちの会話が筒抜けだとしたら。


 社長にこのことが知られれば、僕はただでは済まないだろう。空気はひりついていた。足音はどんどん大きくなっていく。心音が、呼吸音よりもずっと大きな音を奏でていた。足音が肌に煎りついていく。


 結局、廊下を歩いていた誰かは何ごともなく社長室の前を通り過ぎていった。鼻の頭に滴の感触があって、自分の額に汗が滲んでいたことに気づく。立ち上がるとき、膝が不自然なほど震えていたのでつい笑ってしまった。


 机の上は、触ったことが気づかれないよう書類たちを元あった位置に戻しておいた。侵入に気づかれずに済むならそれに越したことはない。社長にはただ、優菜のデータが消えたことだけが伝わればいいのだ。


 残る引き出しはあと一つだけだった。取っ手を握り、息を吐きだす。中身を見たとき、一瞬、心臓が止まったような気がした。なかに、写真が入っていた。


 制服を着た優菜と当時の社長、隣にいる女性は母親だろうか。優菜の弾けるような笑顔と、女性のお淑やかな笑顔は真逆のようで、目元はそっくりだった。


 初めて優菜とラーメン梵に行ったとき、そういえば彼女の残りを僕が食べきったんだった。苦しいながらもうどんのように太い麺を胃に押し込んで、吐きそうになりながら自宅への道をふたりで歩いたことを覚えている。途中でコンビニに寄って、ふたりともアイスで口のなかをさっぱりさせたかったけど、丸ごとひとつは食べきれないから、結局半分にして食べることにした。


 夏の夕暮れ、夕焼けチャイムと蝉の声が、うだるほどの暑さにぴったりだった。冷たい、と優菜が言う。僕は、ゆっくり食べようと返す。優菜が首を吊るちょうど一年前のできごとだった。


 社長室に侵入してから三十分、優菜の写真と同じ引き出しに目的のものはあった。通知書は現在のような形式をしておらず、どちらかと言えばメモのようなかたちでログインIDとパスワードが記載されていた。


 成瀬さんに立ち会ったため、データ削除の手順は知っていた。このままメモしたパスワードとIDを持ってコントロールルームに行けばすべてが終わる。この七年間の思いに決着を付けることができる。


 社員用の特別プランでデータを削除するとき、他の社員との間に二者確認が必要となる。しかしそれはあくまで形式的なものに過ぎない。のちの処理のことを無視すれば、僕ひとりでも簡単にデータを削除することができる。


 社長にどう説明したらいいか、未だに考えつかずにいた。痛み、みたいなものが心に入り込んでくる。妻に続けて娘を失い、それでもなんとかバーチャルヘヴンの優菜に縋り、生きてきたのだろう。僕がそうだったように、何度も目の前の娘が本人かどうか、葛藤してきたのかもしれない。


 社長室の外には誰もいなかった。音を立てないようにさきほどの非常階段へ足を運び、コントロールルームがある三階へと降っていく。フロア二つぶんの降下は、上昇よりもずっと楽に終わった。


 屋内へ続く扉を開けたとき、廊下の照明が点いているから驚いた。僕が知らないだけで、こんな時間まで残業をしていく社員がいるのだろう。とにかく、好都合だった。僕がこの時間まで行動している怪しさを幾分か軽減することができる。


 コントロールルームのドアノブはひどく冷たくて、硬かった。これから起こることを僕は、俯瞰した目で見てしまいそうになっている。最後にもう一度優菜に会いたくなっている心を引き締めるつもりで、僕は、思いっきり扉を引いた。


「え」


 照明のスイッチに触れる前から明るいコントロールルームの、まんなかに立つふたつの人影を見て僕は身体を空中に固定されたようになった。「え」、「いや」、頭のなかは真っ白で、意味のない言葉だけが浮かんでくる。


「夕陽はそうすると思ってたよ」


 成瀬さんが言った。え、帰ったはずでは、それになぜ成瀬さんが社長と一緒にいるのか。声が喉の奥で潰されたようになっている。視線を移動させた先、「説明しろ」、社長が鋭い目つきで言った。

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