5-5「嘘。」

「それで、夕陽はどうするつもりなんだ」


 墓参りからの帰宅途中、僕と優菜の話を聞いた成瀬さんは淡々とした口調で言った。高速道路のトンネルは、規則正しく並ぶ照明のせいで、テーマパークのアトラクションのようになっている。ハンドルを握る成瀬さんの手は橙色の光と影を順番に通過していった。


「最終的にはデータを消そうと考えています。……でも、優菜が望むみたいに、社長に何も言わないまま消すのはどうなのかなって」

「当然そうなるな」


 優菜は「私に会ったらまた思いだしちゃうだろうから」と言って会わないつもりのようだったが、僕は本当にそれでいいのかと疑問を抱いてしまっている。社長だって優菜に会いたいはずだ。だからこそこうして株式会社バーチャルヘヴンを作り上げ、何年にもわたってこの世界を運営し続けてきた。


 突然僕がデータを消したとなれば、どれほどの喪失と怒りを抱くことになるだろう。優菜はバックアップのことも知っていた。彼女の望みはそのどちらからも存在を消すことだ。たしかにそれは、僕が到達しようとしている場所とほぼ同じである。


 社長に黙ってデータを消すにはまだまだ問題がありすぎる。優菜は「遺書を残す」と言っていたが、それで彼が納得するとは思えない。それに、自分自身の今後も気がかりだ。社長の視点に立てば、僕は、娘をの命を奪った殺人犯だと言える。


「優菜が望んだことなら、データを削除して、僕たちは自分たちの時間を生きるべきなんだと思います。それはきっと僕と社長にとってもいいことだし、うん、将来のことを考えたらそうなるべきなんです」


 社長はきっと、僕と同じで優菜の死に絶望できていなかったのだろう。もしかしたら、いきなり優菜の存在が消えているくらいの衝撃が必要なのかもしれない。


 別れ際、優菜は「お父さんは私に会うと今以上に自分を責めたくなっちゃうだろうから」と言った。自責は自己防衛の一種だと思う。社長は自分を責めることで優菜の死から視線を逸らし続けてきた。


「社長にはなんて報告したんだ?」

「『優菜とは会ったけど、効果的な情報は得られませんでした』って」

「嘘を吐いたのか」

「はい。やっちゃいました」


 僕は引き返せないところまで来ているのかもしれない。


 データを消去するためにはログインIDとパスワードが必要になってくる。会社のデータベースを漁れば、使用者のIDくらいは出てくるはずだ。それから、以前社長室に呼びだされたとき、チェックイン用のヘッドギアが置かれているのを見かけた。社長室にパスワードが書かれた紙がまだ残っているかもしれない。


 車は夢のような道を走っていた。車という空間のなかでは、外側の音が籠もっているみたいに聞こえる。声だけは鮮明に響くから、意識がふわりと浮き上がっていくような感覚になる。成瀬さんは左手をハンドルから外し、目頭をぎゅっと抑えた。


「わかっているとは思うが、社長には伝えるべきだ。たしかにあの子の言いたいことも理解できる。でも、これは夕陽たち二人の問題じゃない」

「……そう、ですよね」


 自分で選択すること。正しい選択をするのではなく、選んだことを信じ続ける心が僕には必要だった。


 間もなく高速道路の出口に差しかかろうとしていた。成瀬さんが左ウィンカーを出し、車線を変更する。ドリンクホルダーに置いていた珈琲はとっくに冷え切っていた。優菜が言ったように、僕は、正しいと思った選択を最後まで押し通す必要があった。


 * * * * *


 定時を過ぎると成瀬さんはあっさりオフィスを出ていってしまった。以前までだったら「早く帰れ」と急かしていたところを、近頃は「おつかれ」のひとことで済ませるようになっている。そろそろ独り立ちが認められたということだろうか。


 今週に入ってから僕は、成瀬さんが帰ったあとも会社に残って仕事をするようになった。残業代が出るから嬉しいが、会社の外の真っ暗な世界をひとりで帰ることが少し寂しくもある。


 とはいえ、僕が残業して帰るようになったのは、唐突に仕事の効率が落ちてしまったことが原因ではない。優菜の願いを叶えるためにも、僕にはやらなければならないことがあった。


 定時から一時間が経過するころには他のキーボード音もちらほら帰宅を始め、オフィスには数人だけが残るほどになった。僕に課せられた任務は会社にいる誰にも気づかれてはならない。


 あまり長いこと残業していても他の社員に怪しまれるため、社長が帰るまでの間、他の場所で残りの時間を潰すことにした。残った数人に「お先に失礼します」を言い、エレベーターへと足を進めていく。


 冷静に考えた結果、僕は優菜の意見を尊重することに決めた。もし社長が自らデータを消せば、消去したあとも彼は罪悪感に苛まれることになるだろう。父親が自分を責めることを、優菜は望んでいない。それでも彼は自分を責めずにはいられないだろうから、汚れ仕事であるこの役割を僕が引き受けることにした。あと、これは関係ないかもしれないが、優菜には願いを叶えてあげたくなる不思議な愛らしさみたいなものがあると思う。


 優菜のデータを消すことで僕が後悔することはきっとない。もう一度訪れる彼女の死で僕はきちんと絶望して、唯がいつか言っていたように、生のなかで意味のある部分を今度こそ拠り所に置かなければならない。覚悟は充分決まっていた。


 突拍子もないことを起こそうとしているのはわかっている。でも、社長には、もう一度「優菜が死んだ」という事実が必要だった。優菜の死を受け入れるためには、改めて彼女の死を経験する必要があった。


 オフィスを出た僕が次に向かったのは、社員用のチェックインルームだった。ここであれば誰かが入ってくることはないし、社長が帰るまでの間、潜伏するのにはちょうどいい。チェックインルームを使うに当たって、社長の名前を出せば自由に出入りできることを最近になって知った。フロントの社員は、僕たちがなにか特別な業務をしていると思っているようだった。


 人は必ず死ぬ。だから、自分とは関係のない死から生活を切り離して、限られた範囲のなかで自分の生を全うしなければならなかった。


 廊下の電気が消えたことを扉の隙間から確認し、チェックインルームの扉を開ける。時刻は二十一時を回っていた。社長が帰ったと判断するには充分すぎる時間帯だろう。


 社長室は五階にある。エレベーターの動きは他のフロアからでも感知されるため、外の非常階段を使って移動することにした。


 ビルの三階から見える景色はやはり、お世辞にも綺麗とは言えなかった。都心のように、地上が人工光で埋め尽くされているわけではない。裏山のような高い場所から見下ろしてみて、なんとか景色が夜景のかたちをするのだと知った。


 階段をふたつぶん上がるだけでも肉体が悲鳴を上げているから、自分はもう少し運動するべきなのかもしれないと思った。扉を開けて五階に侵入し、真っ暗な廊下を進んでいく。案の定、社長室の電気は消えていた。あまり時間を掛けるとオフィスビルの警備員がセキュリティシステムを起動してしまうので、それまでに僕は社長室からパスワードが書かれた紙を探しださなければならない。


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