5-4「最後のお願い。」
「有里は、自殺はいけないことだと思う?」
ベランダのガラス戸から入り込んでいた日光が収縮し、部屋から明度が失われていく。大きな雲が太陽を覆い隠してしまったようだった。
「……どうなんだろう。死んだら全部終わりって思うし、でも、つらいなかで、他にどこに逃げればいいんだろうとも思う」
「うん、うん。やっぱり有里は私の気持ちを考えようとしてくれる」
僕の回答を聞いた優菜は、満足そうに頷いた。その姿を見て、僕も安心している。言葉は心から出たものだった。陽射しはまだ復活しない。
「私は、お父さんに会いたくない。自殺した私を責めようとする。いや、本人は責めてるつもりはないんだろうけど、私の気持ちをわかろうともしてくれない。あのときから何も変わらない」
「あのとき?」
「うん。私が自殺したとき」
「……嫌じゃなければ、聞かせてほしい。当時のこと」
自殺したとき、という言葉に違和感がなかったのは彼女の表情が昼間の暗い部分にうまく紛れ込んでいるからだった。この日は、僕がいるなかで、初めてバーチャルヘヴンに雨が降るかもしれない。
「私が転校した先でいじめに遭った……、って話はたぶん知ってるよね。担任も他の先生も困った顔で『話を聞いてみるね』って言うだけで何もしてくれなかったし、お父さんも忙しそうで話を聞いてくれなかった」
「……ごめん。やっぱり僕が連絡してれば」
「それは違うよ。私から相談することもできたはずだし」
「でも」
そのあとに言葉を続けられなかった。何も浮かばなかったのではなくて、この後悔とやるせなさと優菜を大切に思う気持ちがとめどなく沸き上がってきて、僕は結局、どの言葉を選ぶのが正解かわからなくなってしまった。どれを選んでも僕の自己満足にしかならなかった。
「自殺志願者の気持ちって、たぶん、一回死ぬほどつらい経験をした人じゃないと理解できないんだよ。誰にも見てもらえなくて、どうしようもなくなって、自分って本当に生きてるのかわかんなくなって、曖昧になるの」
自殺したことで楽になるということがたしかにあるのかもしれなかった。どうしようもなくて、逃げ道はそこにしかない。僕が彼女の気持ちをわかってあげられるような気がしたのは、もしかしたら自分にもその素質があったからなのかもしれなかった。
優菜がいないことを知って、大声で泣くこともできないまま、彼女のいない世界をただ生きている間は身体が重たくて仕方がなかった。苦しんで生きるくらいなら、彼女のように何も考えられなくなったほうがいいかもしれないと考えたこともある。
優菜と僕の違いは、重要な決断を下せるかどうかだった。僕は自分を殺すという決意までたどり着けずにいた。
「私は、自分の選択が間違っていたとは思わない。死んだ人を忘れられなくて、つらい気持ちを抱えて生き続けることもきっと間違ってない。でも、バーチャルヘヴンで私を生き返らせたお父さんは違うと思う」
ころん。優菜の頭が僕の肩にもたれかかる。仮想空間のくせに、シャンプーの優しい香りがした。服越しに伝わってくる体温はやけにリアルだった。
優菜の話を聞いて、彼女に貸していた小説の下巻のことを思いだした。優菜は、ふたりが最期に心を満たしたまま死んだからではなく、ふたりが苦しみ続けないで済んだことに対して「いいお話だった」と言ったのかもしれない。幸せや救いの価値を自分勝手に押し付けるほうがずっと間違っていた。
「有里は、大きくなったなあ」
優菜は僕の右手にちいさな左手を重ねると、噛みしめる、みたいに言った。喉の奥がぎゅっと引き締まって、声が出せずにいる。いまこの瞬間まで、自分が二十三歳だということを忘れてしまっていた。
「見た目だけだよ」
「そうだね、中身は変わらない」
弾けるように笑いながら優菜が言った。自分で思っていたことだが、いざ人に言われると心にくるものがある。しかし優菜が紡いだのは、僕の想像とは別の意味を含んでいたようだった。
「中身が優しいのは変わらないよ」
「……そう、かな。元々優しくなんかないと思うけど。自分勝手だし」
「自分勝手なのは私のほうだよ。有里がどうして私に想いを伝えなかったのかも知らずに、あのとき『私のことは忘れて』って一方的に出てきちゃった。あのときは、私が引っ越すことを知ってて何も言わなかったんでしょ?」
「……怖かっただけだよ」
たしかに僕は、優菜から事前に引っ越すということは聞いていた。東京にも優菜に見合う人はいるだろうに、遠く離れてまで交際することが彼女にとっての最善かわからなかった。迷って、僕は結局思考を放棄することを選んだ。優菜が言うほど、綺麗な理由じゃない。
「……あのさ。優菜は、どうしたいの?」
「ん。私、みんなに忘れられたい」
「忘れられたい?」
有明誠士郎から聞いたとおりだった。引っ張られるみたいに、「私が生き返って喜ぶ人に、会いたくないよ」という言葉を思いだす。
「うん、そう。お父さんは私の自殺した理由なんかどうでもいいんだよ。自分が後悔し続けて、苦しんで生きる理由があればそれでいいんだと思う。私がそんなこと、望んでるはずないのにね」
言葉は、僕の胸に刺さった。社長の気持ちが痛いほどわかる。自分が救えなかった責任のぶん、それ以上に苦しんで生きなければいけないような気がしていた。自分だけが幸せに生きていることが許せなくなっている。
昔の僕は、自殺が優菜にとっての救いになったとは考えたくなかった。そうだとしたら僕は自分を責める手段を失い、その先、どうやって生きればいいのかわからなくなりそうだった。明るい未来だけを描いて生きることはできそうになかった。
社長はきっと、優菜がどんな思いで自殺したのかを聞かないと、彼女の死に納得することはできない。
「ねえ、有里は大切な人、できた?」
「でき、ない」
一瞬成瀬さんの姿が脳裏に浮かんだのはきっと最も近しい人物だったからだ。優菜は目を細めて笑うと、「ぜったい、嘘」語尾に思いっきり力を込めて言った。
「あの、成瀬さんって人。ぜったい有里のタイプだもん」
「そんなんじゃ」
「だったら、その人のために生きなくちゃ」
肩から優菜の頭が離れる。残っていた彼女の体温は、蒸発するみたいにすぐ消えてしまった。
優菜も大人になったんだな、と唐突に思った。外見は十五歳で止まっているが、この世界で七年も過ごしているのだ。社員以外とは交流もあったらしいし、僕が想像している以上に様々な経験をしてきたのかもしれない。大人になっているのも当然だった。
「有里、お願いがあるの」
「お願い?」
優菜の手を握る力が強くなる。ふわり、風に押し上げられて柔らかそうに膨らんだカーテンの、わずかな隙間から光が舞うみたいに午後の陽射しが入り込んでくる。熱い紅茶と手作りクッキーが、ちょうど似合いそうな時間帯をしていた。
「……私の、データを消して」
風の音に混ざって、聞いたことのない鳥の鳴き声がした。涙が零れそうな彼女の横顔から視線を逸らして、重なったままの手から逃げるように光を追っていった先、淡く照らされている正面の壁に焦点が着地している。太陽は、ベッドに背中をつけて寄りかかる僕たちの、ちょうど後ろ側に位置していた。
「……え?」
声、自分が紡いだ音の符号を聞きながら、呼吸の仕方を思いだそうとしている。息を止めていても平気なはずなのに、横隔膜の引きつるような衝動が鬱陶しかった。
「いや、え、なんで。社長に会わなくていいの」
「お父さんは、私に会ったらまた思いだしちゃうだろうから」
「……そっか」
こうならなければならないことは、僕が「受け入れる」と口にした時点から定められていたようなものだった。もう一度優菜が死んで、僕はちゃんと絶望する。そのチャンスがまた巡ってきたのに、僕は手放しで喜ぶことができなかった。
優菜の父親に気づかれることなくデータの消去を完遂する。無謀だ、と思った。でも、やらなければならないとも思った。どうすればいいのか、思考がまんなかから半分に引き裂かれていく。間にどっちつかずの自分がいる。
「ずっと前に有里は優柔不断って言ったこと、撤回する。有里に必要なのはたぶん、正しいことを選ぶ力じゃなくて、選んだことを信じる力なんだと思うよ」
「信じる、力……」
「うん。有里があのとき私に想いを伝えてくれたとしても、ふたりで上手くやっていけたかはわからない。何が起こるか、わからないんだよ。だからね、自分が選んだことを、後悔しないように信じないといけないんだと思う」
「……難しいな。でも、うん、信じてみたい」
僕の右手から優菜の手が離れる。ふわり、風が優菜に触れていた部分を優しく撫でていった。風は、金木犀の甘い香りがした。十月の中旬でもこの付近にはまだ金木犀が植えられているようだった。
「優菜、ありがとう」
「うん。私、やっぱり、有里が好きだ」
すこしだけ強く吹いた風は、それでも音をかき消すことはしなかった。耳に絡みついてくる風の、この仮想空間でしか味わえない雑音のない静けさが僕は好きだった。優菜は言葉を終えたあとに僕の目をじっと見つめると、一度目を細めて、それから微かに頷いたあと、僕の背中に腕を回した。
七年間の空白は、鼓動を抑えるのに充分だった。
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