5-3「再会の言葉。」

「――僕は、優菜の死を受け入れたい。君の死に、絶望したい」


 わずかに開いた扉の隙間で、優菜がじっと僕を見上げている。幅の広い二重をしたその目は、記憶のなかの優菜とぴったり重なっていた。唯一違っていたのは、むず痒くなるようなハイライトをしていたはずの瞳が、ただ真っ黒に乾いているだけという点だった。


「少しだけでいい。話、しない?」


 優菜のこちらを窺うような視線に、身体がまるごとすくい上げられそうになっている。優菜は扉を開放すると、入っていいという意味なのか、そのまま部屋の奥へと歩いていってしまった。玄関で靴を脱ぎ、扉を閉めて、それから彼女のあとを追う。


 部屋は、優菜が地元に住んでいたときとほとんど同じつくりをしていた。部屋に入って右側には勉強机らしきものがあって、正面の窓の下に、淡いピンク色のベッドが配置されている。部屋の中心にミニテーブルがあるのは食事を摂るためのものだろうか。


 優菜はベッドに座って、じっと僕を見つめていた。何から話せばいいかわからず、「お邪魔します」、テンプレートのような言葉が口を衝く。


「うん」


 お酒の力は偉大だったんだな、と思った。大人は何か心の中身を吐きだすとき、互いの間に酒を挟む必要がある。通常状態でのものの話し方を僕はきっと忘れてしまっていた。


「元気、だった?」

「バーチャルヘヴンで病気はしないよ」

「そうだよね」


 はは、と乾いた笑いが部屋の空気にすっと溶けていく。優菜は堪忍袋の緒が切れたみたいに息を吐きだしたあと、ベッドから降りて床に腰を下ろし、「有里のほうは?」僕を見上げて言った。上目遣いをしているようにも、睨んでいるようにも見えた。


「仕事が忙しくて、大変かな。あ、そう、成瀬さんっていう上司がいて、締切に間に合わなかったり仕事が遅かったりすると鬼みたいな目つきで『早くしろ』とか『遅い』とか怒ってくるから大変で、あ、でも普段は甘い物が好きだったり猫とかが好きだったりして、別に悪い人じゃなくて……、えっと」


 あれ、僕は、何を話したかったんだっけ。会社での生活が意外と悪くないとか、麺二郎さんとよくラーメンに行くこととかがまた浮かんで、仕事の話ばっかりになっていると気づく。話したいことは湧き出てくるのに、オチっぽいものは浮かばないから困った。


「有里は、変わらないなあ」

「え」


 優菜は小刻みに肩を揺らしながら、内側から溢れだすみたいに笑った。「え?」とか「何が」とか、曖昧な意味の言葉を吐きだしながら、彼女の突然の変化に戸惑っている自分を感じる。


「ごめんね。もっと突き放すつもりだったんだけど……、うん、上手くいかないなあ」


 心がまんなかからぐっと膨らんでいくのがわかった。優菜の笑顔を見たのは何年ぶりだろう。


「突き放す……?」


 彼女は目に涙を滲ませたまま息を吐くと、「あーもう、我慢できなかった」、すこしだけ悔しそうに言った。


「私は変わっちゃったから」

「……記憶にあるままだよ。目も髪も雰囲気も、全部変わらない」

「口説かれてるみたい」

「え、いや、別にそういうわけじゃ」


 あはは、と優菜が笑う。前回会ったときの、すべてを拒否するようなあの表情とは全く違っていて、目の前の彼女に、僕は何を言えばいいかまたわからなくなっていた。でも、この、昔に戻ったような感覚がどこか心地いい。


「……うんうん、そっか。会社、楽しい?」

「行かなくてもいいなら行きたくないけど、行かなくちゃいけないなかでは楽しいと思う。ラーメンに連れてってくれる上司もいるし」

「ラーメン梵?」

「そう。……あ、でもあの店さ、内装が変わってて。別の店みたいになってた。味は変わらないけどね」


 あの店にはたしか、優菜と一回だけ行ったことがあった。当時も店主は気難しそうな顔をしていて、優菜が「残したら殺されそう」と必死になってラーメンを啜っていた思い出がある。結局あれはどうなったんだっけ。


「懐かしいなあ」

「うん。でも、他はあんまり変わってないよ。中村家のカフェとか、駅前の今にも潰れそうな本屋とか」

「あの本屋さん、まだ続いてるんだ。唯は元気?」

「元気だよ。唯はナカムラを継ぐことになったらしくて、経営の勉強しながらあそこで働いてる」


 言葉を交わすたび、当時の思い出が鮮明に蘇ってくる。帰り道にふたりで寄ったコンビニ、そこで毎回買っていたアイス、一緒に立ち読みしていたら追いだされた駅前の本屋、どれもが過去としての性質をしていた。「そっかそっか」、優菜は咀嚼するみたいに何度か頷いた。


「有里」


 優菜が僕を呼ぶ声は、音自体がしっとりとしている。舌っ足らずで、音を弾くみたいな発音が、脳の奥にある悲しさのようなものをぐっと引っ張りだそうとしていた。


「な、なに」

「有里はどうすれば私が死んだことを受け入れられるの?」

「……バーチャルヘヴンの開発者が教えてくれた。人を死に至らしめるものは、絶望なんだって。人の死を受け入れるためには、その人の死に絶望する必要があるらしい」


 どうすればいいのか、具体的なことはわからなかった。抽象的な言葉でごまかすことしかできなかった。


「じゃあ、絶望するためにはどうしたらいい?」


 そこまで踏み込まれてしまうと、やっぱり僕は何も返せない。「その先のことを、まだ上手く掴めずにいる」、僕が正直にそう言うと、優菜は少し困ったように微笑んだ。


「私、有里が最初に会いにきたとき、嬉しかったけど、でも悲しかった」

「え、なんで」

「まだ私が死んだことを引きずってるんだって、思ったの。私のせいで前を向けずに生きてるんじゃないかって」

「そんなこと……」


 そんなことはないと、否定しきれなかった。実際彼女の言うとおりだった。僕は彼女の死から目を背け続けて、受け入れられないまま七年間を過ごしてしまっていた。


 見たくないことからは目を背けていい。嫌なことから逃げてもいい。それが仕方のないことだったとしても、今まで甘えすぎてしまった。


「でも、安心した。ちゃんと、私のことを忘れようとしてるんだって」

「……まだ、完全にはできてないけどね。でも進んではいると思う」

「何か、私に心残りがあるんじゃないの?」


 目を細めて、優菜は儚げな笑顔で言った。


 心残りはいくらでもある。僕はもっと一緒に時間を過ごしたかったし、想いを伝えればよかったと後悔しているし、それにあのとき連絡するべきだったと何度も考えた。だから、僕がしたいことはひとつに集約されていた。


「僕は、優菜にずっと謝りたかったんだと思う」

「謝りたかった?」

「うん。あのとき想いを伝えられなかったことを、ちゃんと謝りたかった。あれが転機だったんだよ。僕がちゃんと自分の行動を決められていれば、優菜は死なずに済んだのかもしれない」


 隣で、優菜が僕を見つめていた。彼女の存在をたしかに感じられるのに、ふとした瞬間にただのデータでしかないと思いだしてしまうから、心臓が踏み潰されたみたいに狭くなっていく。


 僕は自己決定が苦手だった。自分の軸みたいなものを僕は持っていなかったのかもしれない。失敗する可能性のある決定を先延ばしにしてしまっていた。

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