5-2「綺麗なお墓。」
魚はやっぱり海鮮丼で食べるのがいい、と丼に醤油を回しかけながら成瀬さんが言った。たしかに、港の近くにある定食屋は、内陸では考えられない値段設定とボリュームをしている。それから脂の乗りも違う、ような気がする。
「昨日、バーチャルヘヴンに潜っていただろう」
「え、なんで知ってるんですか」
「駅前の本屋に向かうとき、スーツ姿の夕陽を見かけた」
ああ、と相槌を打つ。優菜に会うために会社へ向かっていたところを見られてしまったのだろう。見られているという自覚のない自分を見られるのは、なんというか、靴に小石が入り込んでしまったような気まずさがある。
「で、どうだった?」
「うーん、話はできました」
「そうか」
「あ、でも、強いて言うなら不可です」
そうか、と成瀬さんは同じ相槌のあとにみそ汁を啜った。それを見てなんとなく汁椀に手を伸ばし、同じように口をつける。アオサの香りと出汁の効いた深い味わいは、数ヶ月の勤務で蓄積していった疲れを優しくほぐしてくれるようだった。
この日は成瀬さんに連れられ、彼女の元恋人の墓参りにやってきていた。連休ということもあってか、いや正確には連休ではないのだけれど、とにかくここまでの道は普通の土曜日とは思えないほど混み合っていた。通常なら一時間半程度のところ、今回は二倍以上の時間がかかっている。
運転はすべて成瀬さんに任せている。僕は免許を取ってからほとんど運転していなかったし、何より水色の軽自動車は成瀬さんにとても似合っていた。今朝彼女が迎えに来てくれたとき、「成瀬さんって運転できたんですね」と言ったら、「馬鹿にしているのか」という不満げな表情が返ってきた。
「ここって近くに水族館あるんですね」
「行きたいのか?」
「いや、そういうわけじゃ」
「用事が済んだら連れてってやってもいい」
「成瀬さんが行きたいだけじゃないですか……、え、どうしたんですか」
突然彼女が目頭を押さえるからどうしたのかと思ったら、ただ単に誤ってわさびの塊を食べてしまっただけのようだった。漬け物皿に追いやられた山のようなわさびが、彼女の辛いもの嫌いを物語っている。
食事を終えた僕たちは、墓参りの前に、近くの砂浜で海を眺めることにした。感動に値する透明度をしているわけではないが、海というのは波の様子を眺めているだけで心を癒してくれるものである。浜辺には子連れの家族と、学生らしき小集団の姿があった。
砂浜には大小様々な足跡が付いていて、成瀬さんはそのどれとも重ならないルートで波打ち際へと歩いていく。僕は彼女が付けた足跡とほとんど同じ場所を歩いていた。彼女の歩幅はすこし狭いけど、せっかくの休日だし、普段から歩くペースの速い僕にはそれくらいがちょうどいい。
海の表面で日光が輝く様子を、「宝石のよう」と最初に表現したのはどんな人だったのだろう。きっとその人は、豊かで芳醇な心をしている。その人にとっての雨は繊細なガラス細工で、清流は絹糸の束だったたに違いない。
僕にとっての海は、ぐしゃぐしゃに丸めたセロハンフィルムを、もう一度開いただけの平面でしかなかった。
「私は最後に、お別れを言いたいだけだった」
海のずっと遠くのほうを眺めながら、成瀬さんはひとりごとのように言った。太陽の光によって海は輝いていて、水平線が今にも溶けだしそうになっている。空は海より、かろうじて薄い色をしていた。
「突然の別れだったから、最後に話ができればそれでよかった。アイツ、『つらくなったらまたここに来ればいい』って言うんだよ」
「罪な男ですね」
「だろ?」
いつまでも悲しみに浸っていることは正しくないのかもしれないけど、僕だけは成瀬さんの気持ちをわかってあげられる気がした。生きていれば人生を変えるような選択を迫られるときがあって、ごく稀に、こうやってどうしようもないまま進行方向を換えられてしまうことがある。僕たちは無力で、その流れに抗うことはできない。受け入れるしか手段はなかった。
「最初は似てると思った」
「え?」
「雰囲気が。あとは、私が落ち込んでいるときに、敢えて肯定する言葉を選んでくれるところも。でも、夕陽は別人だし、夕陽にしかない優しさもある」
「重ねないでくださいよ」
はは、と成瀬さんは笑った。それから「もう重ねてないよ」と続ける。その言葉によって何かが込みあげてくるのを感じて、あれ、と思った。心の、境界線のようなものが不安定になっていた。
空気の、ちいさく吐きだされる音がする。鳥が鳴いている。波の音はバックグラウンドになっていた。微かに冷たい風が吹いて、僕の肌の表面から少しずつ熱をかすめ取っていく。いつまでも身体が冷え切ってしまわないのが不思議だった。
「……ずいぶんかかったな。独り立ちするまで」
「難しいですよ。だって、突然いなくなったんだから」
「そうだとしても、長すぎだ」
波打ち際は長閑な空気をしていた。時間がゆっくり流れているとかではなくて、その空間に含まれているものたちが、強制的に不活性的な属性を付与されているのだと思う。
「行こうか」
「はい」
成瀬さんは、墓参りに来るのは彼が死んだ時以来だと語っていた。無意識のうちに彼の死を連想させるものから距離を取ろうとしていたかもしれない。人を失った悲しみや憂鬱に浸っている間は、つらそうに見えて、意外と悪くない。
重たい感情のなかだったとしても、そこに優菜がいて、触れ続けて、形式的にだけでも苦しんでいられればよかった。優菜のことを、忘れたくなかった。
「成瀬さん、貝殻」
「おい、砂が付いてる。戻してこい」
「海水で洗ってきます」
「足を浸けるなよ。濡らしたら車に乗せないからな」
観察していると、波は意外と同じことの繰り返しではないことに気づく。水の量が多かったり、足元に近い場所までやってきたり、あとからやってきた波に飲み込まれたり。
貝殻をなんとか海水で洗い、水分を払ってから片方を成瀬さんに渡した。「子どもだな」、彼女は笑いながら受け取った。冷たい風に当てられていたはずなのに、そのとき成瀬さんの指先はちゃんと人間らしい熱を持っていた。
海辺から墓地までは車で三十分もかからなかった。車を降り、柄杓と桶を持って階段を登っていく。死とはほど遠く思えるような、緑の広がる穏やかな場所に目的の墓はあった。
墓地は階段状になっていて、段を上っていくちょうどまんなか、十五段目で成瀬さんは進路を変える。彼女が立ち止まった墓石には、白い百合が供えられていた。
周囲に人の姿はなかった。不思議と、均等に並べられた墓石のどれからも死の雰囲気は感じられない。墓地というのは、生と死の境界線がうまく機能していないのかもしれなかった。
「綺麗な墓だな」
ぽつり、成瀬さんが呟く。たしかに、『石川家之墓』と書かれたその墓石はおろしたての車のような表面をしていた。綺麗に磨かれた部分に、僕と成瀬さんの輪郭が微かに反射している。それほど彼を愛する人が多かったのだろう。
成瀬さんは咳払いのあと、目を閉じて手を合わせ、そのまま動かなくなった。彼女に続き、僕も手を合わせる。この行為にどれほど意味があるのかはわからない。もしかしたら全く意味はないのかもしれなかった。
死後の世界なんてものは存在しない。バーチャルヘヴンも人が作りだした偽物の天国でしかない。一度死んでしまえば、その人と対面することはあり得なかった。
「私は彼の葬式に出なかった。出られなかったんだ」
目を閉じたまま成瀬さんが言う。「そうなんですね」、ちょうど吹いてきた風に紛れるよう返事をする。
「葬式に出たら、死んだことを見せつけられる気がした。それに、線香をやって、お経を読んで、死体を燃やして……。当時はそんなことに意味があるとは到底思えなかった」
「僕は今でもわかりませんよ」
顔を上げた成瀬さんの視線が、一度墓地の奥へと向けられて、それから手前の墓石へと落っこちていく。
死者に意識はない。魂もない。だから、いつまでも昔の風習をなぞらえて行う葬式という行事に僕は意味を見いだせずにいた。
「時間が経って、ようやくその意味を理解できた気がする。あれは、死者を弔うためでもあるが、私たちにとっても必要な儀式だったんだよ。あの場面で私たちは、その人が死んだことを実感しなければならない。夕陽の言葉を借りるなら、絶望する必要があったんだよ。葬式に出席せず、私は絶望し損なった」
「僕は葬式に出たけど、絶望し損ねました」
「理解しないといけないんだ。とにかく私は、今になってようやくあいつの死を過去にすることができそうだ」
「それはよかったです」
そうなるまでに彼女は、どれだけ途方もない決断をこなしてきたのだろう。考えるだけでも目眩がしてきそうだった。「行こうか」、とまた成瀬さんは言った。片道で三時間を費やしたのにもかかわらず、この日の目的は十五分ほどで終わった。それでも、これは必要な儀式で、費やした時間以上に価値のあるものだった。
「そっちはどうなった?」
車を出すとき、サイドミラーで後方を確認しながら成瀬さんが言った。今度は僕が優菜を断ち切る番だった。
「……頼み事をされました」
昨日、バーチャルヘヴンに潜った僕は、たしかに優菜と話をすることができた。優菜が僕に託した頼みごとは、僕にとってあまりにも荷が重すぎる内容だった。
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