第5章『思い出だけ、胸のなかに置いといて。』
5-1「忘れさせてくれない。」
優菜が死んだ、と聞いた。言葉として馴染はあるのに、それは現実のかたちをしていなかった。
非日常は軽く喪失感を凌駕した。大人たちが忙しなく動き回るのを、映画の気分で眺めている。チケットの代わりに香典を、ポップコーンの代わりに数珠を持っていた。
葬式の会場で、呆れてしまうくらいの黒さを感じた。目に映るもののほとんどが暗い色をしている。虫眼鏡で太陽光を集めて、黒い画用紙を燃やす実験を思いだした。お経が読み上げられている間、上空に巨大な虫眼鏡を設置したらすぐに燃えてしまうんだろうな、と考えていた。残念ながら、太陽が仕事をする時間帯ではなかった。
葬式というのは、わざと暗い雰囲気になるようにしているのだと思う。明るい色をしている仏花も、場を紛らわすために置いているとしか考えられない。よくわからない決まり事に締め付けられながら、窮屈な時間を過ごしている。
葬儀場には見慣れた制服を着た人たちがいて、そのなかには唯の姿もあった。唯は同級生の肩で、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。どうしたら思いっきり泣くことができるのか、わからなかった。悲しみというより、身体が重たくなるような気分のほうがずっと強く作用する。
お悔やみ申し上げますの言葉は風のように周囲を飛び交っていた。僕も両親の真似をして同じ言葉を口にする。大人たちの隙をついて、スマートフォンで「弔う」という言葉を調べてみた。人の死を悼み、遺族にお悔やみを言う。僕だけが優菜の死を悲しめていなかった。
どうしてみんな、優菜の死を現実として受け止められるのだろう。目に涙を浮かべた同級生が僕を見て、一瞬、冷めた目をした。僕は、早々に優菜の死を受け入れられるほうこそ非情なのではないかと思った。
優菜がこの世界からいなくなって、もう二度と会えないと言われてもしっくりこなかった。現実は輪郭を帯びていなかった。大きく心を動かすようなできごとばかりが曖昧な見え方をしている。
「自殺、だったらしい」
「え?」
「大人の人が話してるの、聞いちゃった」
「え、なんで」
だから優菜が自殺したと聞かされたときはやけに混乱した。輪郭が見えないから、死の実感がどんどん遠くなっていく。
別れる前、優菜は「私のことは忘れて」と言っていた。彼女の死は、僕が彼女を忘れることを許してくれなかった。
* * * * *
休日の朝と珈琲はちょうどいい相性をしていた。これが仮に出勤日だったら「飲み終わったら仕事」という考えになってしまうから、そうはいかない。目を覚ますためだけに飲む珈琲は酸味が強いような気がする。
秋の心地よい風に押し上げられたカーテンから、高度の低い朝日が入り込んでくる。十一月初旬は、限りなく冬に近い、乾ききった空気をしていた。僕はこの空気の匂いが好きだった。夏の終わりは寂しいと言うけど、完全に終わってしまえば寂しさなんて知らぬ間に心から抜け落ちてしまう。
インスタントコーヒーの粉末をマグカップに入れ、電子レンジで温めていた水道水を加える。できあがった褐色液の表面を覆う薄い泡は、苦味が凝縮されたみたいな味がした。
昨日は祝日で、会社が発した有給奨励日に従うことになった。祝日という望んでもいない日に有休を消化することは、夏の終わりになって初めて蝉の声を認知するような寂しさがある。それでも僕は、社会に蔓延する「なんとなく」の風潮に乗っかるしかなかった。
今日も続けて有給を取得し、小賢しくも四連休を作りだしたのは、そういう風潮へのささやかな抵抗だ。僕のような小賢しい社員は他にもたくさんいたようだった。
納期の寸前になって詰め込むより、普段から少しずつ仕事をこなしていくほうがずっと楽だと思う。それと一緒だった。一度大きな流れに逆らうより、すこし苦しくても、その苦しみを我慢し続けるほうがよっぽど健康的だ。
空になったマグカップを水に浸け、外出の準備をこなしていく。扉を開けてアパートの階段を降っている間に鍵を閉めたか不安になったが、戻ってみると扉はちゃんと施錠されているから不思議だ。
社外にも四連休を作りだした人が一定数いたのか、会社へ続く幹線道路はひどく混み合っていた。車がそれぞれ二列になって並ぶ様子を横目に、会社までの道のりをゆっくりと進んでいく。車の進みは、徒歩の僕とほとんど変わらなかった。
この日僕が会社に向かおうとしている理由は、職場が恋しくなったからでも、唐突に無賃労働がしたくなったからでもない。成瀬さんが自分の気持ちに決着を付けたのだから、自分も何か行動をしなければならないという焦燥感が僕の足を会社へと向かわせている。だからといって、手癖でスーツを着てしまったのはどうなのだろうと自分でも思った。
歩道をイチョウの葉が覆い尽くしてしまっているせいで、障碍者用の点字ブロックは健常者にとってほとんど存在の見えないものになってしまっていた。よく見れば、色もイチョウの葉とかなり似ている。点の並んだブロックを踏んだとき、足つぼマッサージみたいで気持ちよかった。
そういえば祝日と祭日は何が違うのだろう。疑問を持ったからといって特に調べる気にはならなかったし、超能力で僕の思考を読める誰かがその違いを教えてくれたとしても、その人が満足するような返事をすることはできそうになかった。どうでもいい疑問を上手く手放せるようになることが大人になるということなのではないだろうか。
オフィスビルの入口で社員証を提示し、エレベーターに乗り込む。今日は働きに来たわけではないのだから、わざわざそうする必要はなかったかもしれない。とはいえ、応対のために他の社員を呼ばれても反応に困る。結果的に、これが正解ということで落ち着いた。
社員が依頼人への応対などでチェックインルームを使うとき、フロントに使用する旨を申し出る必要がある。この日の僕は、客とはまた立場が違うし、社員用の特別プランでバーチャルヘヴンを利用しているわけでもない。チェックインルームを使うとき、どう伝えるのがいいのだろう。社長の名前を出したら普通に使えたりしないだろうか。
エレベーターを降りてフロントへ向かう途中、「夕陽ー!」とやたら元気そうな声が聞こえてきた。彼の場合、声量のおかげで振り返る前からその正体がわかる。喫煙ブース付近の自動販売機、その前に大きく手を振る麺二郎さんの姿があった。
「あれ、有給取らなかったんですか?」
「使い過ぎちまってさ」
笑いながら麺二郎さんが答える。時刻は正午過ぎ、彼は昼休み真っ最中のはずだ。暇そうにしているのは、社員が少ないせいで、ラーメンに誘える人がいないからかもしれない。
「あ、そうだ。社長が第三チェックインルームの予約取っておいたって。好きに使っていいらしいよ」
「わ、ありがとうございます」
社長には、この日もう一度優菜にチャレンジすると言っておいた。フロントに状況を説明する手間が省けるのはかなりありがたい。別れ際、麺二郎さんが「出世したな」と言ったので「そんなんじゃないですよ」と返しておいた。
チェックインルームの空気は真冬のように冷え切っていた。喧騒をかきわけて静かな場所へ足を踏み入れたとき、夢から覚めたような喪失感が無条件に心を侵食する。一歩ずつ着実に進んでいるように見えても、後ろを振り返ってみれば大して進歩していない。時計を見ながら授業が終わるのをじっと待ち望んでいるようなことだと思う。秒針はたしかに一秒を刻み続けているのに、授業終了の鐘はなかなか鳴らない。
過去になった死者との付き合い方、前を見る方法、自分のなかで大切な人を殺す方法。この会社で触れてきたことは足を進めさせてくれたようで、互いにどれも上手く繋がってはくれなかった。僕はまだ絶望の方法を知らずにいる。
仮想世界に潜る瞬間の、暗闇に意識が溶けていく感覚は未だに馴れることはない。いつか、そのまま死んでしまうような気がしている。
呼吸をする必要はないのに、無意識のうちに肺が空気を取り込もうとしている。一度身体に染みついた癖は二度と消えることがないのかもしれなかった。
優菜と話をする。それが、心を占める重さを解消するために、まず僕がしなければならないことだった。できることに手を伸ばすという肯定的な動機なんかではなく、逃げ場のない空間でもがいているような、儚くてどうしようもない感覚を燃料に、僕は脚を動かしている。
十八時を過ぎたあとに優菜が居住スペースにいないのは、定時後になるとやってくる社員たちをやり過ごすためだろう。有明と交わした会話の内容から、優菜が丘の公園に現われるのは午後七時を過ぎてからだと推定できる。
彼女が住んでいるとされる部屋から丘の公園まで、徒歩で三〇分もかからないはずだ。それにもかかわらず一時間も空白があるのは、最短ルート上には本社があるため、迂回して向かっていることが理由だろう。外周をなぞるように移動していると仮定すれば、それほど時間が掛かるのにも説明がつく。つまり、平日のこの時間、優菜は高確率で家にいる。
昼のバーチャルヘヴンは穏やかな空気をしていた。僕がこの空間に来るときは必ずいい天気をしている。詳しく聞いたことはなかったが、バーチャルヘヴンに雨は降らないのだろうか。僕が訪れる日だけ、偶然晴れているだけなのかもしれない。
優菜が住んでいるとされる場所はごく普通の、僕が暮らしているのとそう変わらないアパートの一室だった。彼女はこの世界の最初の住人であり、社長の娘で、それからバーチャルヘヴンが始まったきっかけでもある。そんな彼女が一般的な部屋で生活していることは意外だった。
ひとりで七年間も過ごしてきて、寂しくなかったのだろうか。
優菜の部屋へ近づくにつれて、脚の震えが大きくなっていく。息を吐きだしてから、その行為に全く意味がないことに気づく。インターホンに手を伸ばす。電子音がコンクリートの廊下に響き渡る。
「……優菜」
がたん。部屋のなかから何かの落ちる音がした。
中学生のとき、いくらインターホンを押しても返事がこなかったことがあった。その前日に殺人鬼の映画を見てしまったため、僕は、起こりえない万が一の可能性にひどく引っ張られることになった。
「いる、よね?」
あのときと同様、優菜からの返事はなかった。当時どうして優菜がいなかったのかはもう覚えていないが、おそらく部活が長引いたとか友だちと喋っていたとか、そういう他愛のない理由だったのだと思う。
「今日は社員としてじゃなくて、幼馴染として、夕陽有里として優菜に会いに来た」
成瀬さんのデータ消去に立ち会って、優菜が求めていることがわかった、ような気がする。謝罪とか再会の言葉とか、そういう過去を引きずるようなことはおそらく必要なかった。
僕は優菜のことが好きで堪らなかった。でも、それは優菜が生きていたころの話だ。今は違う。もしかしたら成瀬さんに惹かれているかもしれないとかも今はどうでもよくて、ただ、僕は優菜との関係に決着を付けなくてはならなかった。彼女はもうずいぶん前に死んでいる。いま扉の向こうにいるのは優菜であって、でも仮の姿でしかない。
だからこれは、僕のための儀式だ。
「僕は、優菜の死を受け入れたい。君の死に、絶望したい」
それなのに、わずかに開いた扉の隙間から僕を見上げる、幅の広い綺麗な二重の目が記憶にある優菜と全くの誤差を持たないから、困る。
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