4-15「ひとりで生きていける気がしない。」

 高橋のデータ消去から定時までの二時間は吸い込む空気がすべて湿気で重たくなっているように感じた。僕よりも重たい空気で呼吸しているであろう成瀬さんの口数は少ない。パソコンの画面から放たれる光は、明るさの設定を最小限にしても眩しいから困る。


 僕も成瀬さんがしようとしているように、そして唯や高橋凪がそうしたように、いつか大切な人の死に絶望しなければならない。いつか、とはいつのことなのだろうと思う。誰かが決めてくれれば僕はもっと早く楽になれるはずだった。


 重大な決断を迷わず下せるようになることは、優菜の墓参りに毎年足を運ぶことなんかよりずっと途方もないことだった。


 時計が定時を指しても、成瀬さんはなかなか動かなかった。無数に開かれたタブの、ふたつだけを使ってデータの入力を行っている。社員のうちひとりが立ち上がったとき、周囲の喧騒が一段階音量を大きくした。


 成瀬さんが「行こう」と言ったのは、オフィスの社員が半分ほど姿を消してからだった。パソコンの電源を落とす、立ち上がる、椅子をデスクに押し込む。ひとつひとつの動作に強い重力が引っかかっている、と思った。


 エレベーターの、ちいさな空間で機械音がしているだけの何気ない沈黙は、心の角張った部分を優しく削り取ってくれるようだった。重力に従って身体は落ちていって、到着した瞬間、覚束ない二本脚にじわじわと重さのしかかってくる。足取りとは裏腹に、スピーカーからは到着を知らせる「ぽーん」という電子音が軽く響いた。


 コントロールルームの室内は埃の乾ききった匂いがした。空気は、真冬のように冷たい。成瀬さんが端末を操作すると、『データを削除する』のアイコンはすぐに表示された。


 脳裏には、彼女がスマートフォンのロック画面に設定していた、仲のよさそうなふたりの写真が鮮明に焼き付いている。屈託のない笑みを浮かべる男性、その隣で少し困ったように、それでいて満たされたみたいに成瀬さんが笑っている。


 僕たちには生きる意味が必要だった。何かに寄りかかる瞬間だけ、上手く生きていけるような気がしていた。なんとなく視線を移した窓の、ずっと向こうには鈍い色の雲がかかっていた。凝視しなければ気づかないくらい、雲はゆっくりと空を滑走している。視線を逸らすのも何か違う気がして、少しずつ形を変えながら進んでいく雲を僕はしばらくぼうっと眺めていた。


 僕は、生きる責任みたいなものを優菜に丸投げしてしまっていたのかもしれなかった。身体を重くする根本的な原因ではなくて、現状の、視線を逸らし続けている自分を見つめ直さなければならなかった。


 人は必ず死ぬ。それが老衰であるとは限らない。後悔しないように一瞬を大切にしようと言う人がいるけど、大切な人がいなくなれば後悔や憂鬱を抱えてしまうのは当然のことだった。


『データの削除が完了しました』のメッセージが出たとき、成瀬さんは画面を見ながら、「うん」と言った。


「もっと、泣き喚くかと思っていた」


 顔を上げた成瀬さんと視線が交差して、堪えるみたいに歪んだ口元から咄嗟に目を逸らし、彼女の足元に落っこちてしまった視線をどこへ持っていこうかと悩んでいる。「いいですよ、泣き喚いても」、窓の外はもう暗くなっていた。三階から見える夜の街は、息を呑み込めるほど綺麗な色をしていなかった。


「前、『独り立ちできたら消していいよ』って言われた」

「そう、ですか」

「だから、たぶん、これでよかった」


 低い声で、噛みしめるように成瀬さんが言った。


 残された者たちだけじゃなくて、死者のほうも自分が死んだことを受け入れていくのかもしれない。何年も死後の世界を過ごして、いつか、残してしまった人に自分自身の幸せを掴んでほしいと願ってしまう。


 優菜に貸していたあの小説はハッピーエンドを迎えるものだと思っていた。でも、今なら彼女が「いいお話だった」と言った意味がわかる。世界は主人公とヒロインのふたりだけで完結していた。生きるために前を向くとか未来のために何かをするとか、そういう典型的なことではなかった。結局、僕たちは自分が納得できる回答を探さなければならない。


「私はいま、ちゃんと絶望してる」


 月は、中途半端なかたちをしている。半月よりも少し丸くて、満月にしては不完全なあの月の呼び方を僕は知らなかった。月より、窓に反射して輝く蛍光灯のほうがずっと明るい。そして、成瀬さんの目元に乗っかった強いハイライトのほうがずっと綺麗な色をしていた。


 外部を発生源とする空気の擦れる音が、二人だけの空間で膨張するみたいに反響している。輪郭を帯びた、夜、みたいなものが窓の外で順番待ちをしていた。僕は思いっきり息を吸い込んで、成瀬さんの元へ足を進める。絶望を経験してこなかった人が口にしてきた「過去に縋るな」という善意たちが、外で侵攻の機会を窺っているような気がして、僕は、なかなかこの部屋を出る気になれなかった。


「なんだよ」


 僕と目が合ったとき、悲しみと笑顔のちょうど半分くらいの表情で成瀬さんは言った。彼女は机に腰掛けていたから、頭を撫でるのにちょうどいい高さをしていた。


 艶のある黒い髪に、天使の輪みたいな光沢が載せられていた。手を動かすたび、川が流れるみたいに髪が流動する。いくらかの沈黙が続き、静寂の音がし始めたころ、成瀬さんはおもむろに僕の手を振り払った。


「……ひとりで生きていける気がしない」


 成瀬さんの声は湿ったままだった。音の震えはそのまま僕の横隔膜に宿って、正体不明の感情が、逆流するみたいに上昇を始めている。僕が再び頭に手を置くと、成瀬さんは目元を手で拭いながら、もう一度「なんだよ」と言った。髪越しに伝わってくる体温が生々しかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る