4-14「音のしないさようなら。」
応接室へ向かう廊下に、朝の閑散とした清々しさはまったく残っていなかった。社員が忙しなくすれ違っていくのをやりすごしながら、成瀬さんの隣をしっかり歩いていく。
「夕陽、今回の依頼人は高橋凪だ。有明誠士郎じゃない」
「わかってます」
死を扱う会社だから、心を重たくするのは仕方のないことだった。だから僕たちは、しっかり自分と他人の間に境界を設置しなければならない。人が生きるという営みの、そのなかでどうしようもなくなって苦しんでいる人たちに、ほんのすこしの拠り所を届けることが僕たちのするべきことだった。
「きっと、そのほうが救いになるんでしょうね」
「たしかに当分は後悔が残るだろうけどな。気を引き締めろ。もうすぐだ」
成瀬さんはもしかしたら、会社の方針からすこしズレているのかもしれない。大切な人を亡くした人々に拠り所を与えるこの会社とは違って、彼女は、残された人々に前を向くきっかけを与えたいと願っている。扉を開ける成瀬さんの背中は、水族館で見たときよりもずっと大きく感じた。
「失礼します。株式会社バーチャルヘヴンの成瀬です」
成瀬さんに続き、名乗りを上げてから入室する。すでに席に着いていた高橋凪は、前回カフェで見かけたときよりもすこし痩せているように見えた。
「前回お話ししたものはお持ちいただけましたか?」
こくん。成瀬さんの質問に高橋がちいさく頷く。切りそろえられた前髪から覗く濃いアイシャドーの、目のふちに沿って塗られた部分が早くも剥がれてしまっていた。
高橋が取りだした書類一式を受け取り、内容に不備がないかを確認していく。空調が稼働していないせいで、聞こえるのは紙をめくる音だけになっていた。壁や扉にはある程度の防音機能が備わっていることも相まって、僕と成瀬さんのふたりが書類を読んでいる間、静寂の音がした。水にもなにか味がするように、静寂のなかでも空気はたしかな振動を帯びていると思う。
「はい、確認できました。問題ありません。最後に、こちらにご署名をお願いします」
高橋は何も喋らなかった。机上を擦るように書類を引き寄せ、丸っこい字で自分の名前を記入する。筆音がやけに際立って聞こえて、学校のテストを思いだした。
「それでは、これからコントロールルームにご案内いたします」
コントロールルームから応接室まではそう遠くない。利用客のために作られた部屋はすべて、フロントと同じ三階に位置している。移動中、今朝成瀬さんと話した席には、別の男女が座っていた。あまりにも仲が良さげだったから居心地が悪かったし、高橋が見たら悲しみを加速させてしまいそうだったから気づかないフリをした。
「まずはこちらの端末を使い、チェックイン時に使用しているIDとパスワードでログインしてください」
データ消去対応のマニュアルを会社のシステムから探して読んだが、バーチャルヘヴン利用契約よりもずっとページ数が少なかった。データ消去は、二、三ほどの手順で完了する。成瀬さんが指示しているうちに、データ消去は最後の局面を迎えたようだった。
「プライベートメニューの一番下にある『データを削除する』を押していただき、『はい』をご選択ください」
高橋の指が『データを削除する』のアイコンに触れる。すると警告文のポップアップが浮かび、その下には「データを削除しますか?」の文章と「はい」「いいえ」の選択肢が表示された。
有明の言葉の真意を、まだ高橋は知らない。いや、僕が口外しない限り、彼女がそれを知る機会は訪れないだろう。
高橋の目が強く閉ざされる。吐きだされる息が、迷いの色を帯びている気がした。指が落ちる。画面が変化する。「データの削除が完了しました」の文章が、見せつけるみたいに表示された。
これで有明誠士郎はバーチャルヘヴンからも姿を消すことになる。そしてこれは、彼の望んだことでもあった。三ヶ月間はバックアップが残るとはいえ、削除すること自体が重たく心に響くのだと思う。
有明誠士郎は生者との関わりを断とうと考えた。そしてその根本は、優菜との会話で生まれたものあるとも言っていた。「忘れられたい」、その言葉が具体的に何を表しているのか、わからない。
優菜は、何を望んでいるのだろう。
「……あっけなかったな」
未だにポップアップが出ている画面を見つめながら、高橋は凛とした声で言った。僕はこの日、初めて高橋の声を聞いた。
大丈夫ですか、そう言おうとしてやめた。彼女に掛けるべき適切な言葉は、それではないような気がした。
「平気ですよ、別に。やっぱり現実味はないけど、私は平気です」
高橋は僕が何かを言おうとしていたことに気づいたようだった。「なら、よかったです」僕がそう返すと、彼女は困ったように笑った。
「本日より九十日間は有明誠士郎様のデータがバックアップされます。期間後はデータが削除されますのでご注意ください」
「……たぶん、もう生き返らせることはないです。いい機会だったんで」
彼女を見送ったあと、応接室の片付けをしている間に成瀬さんは口を開かなかった。なかなか消せない元恋人のことを考えているのかもしれなかった。
いい機会だった、と言った。彼女は自立する瞬間をずっと待ち望んでいたのかもしれない。想像していた結末ではないのかもしれないし、大切な人を亡くした悲しみは当分心に絡みついてくるかもしれないが、こうして死んだ恋人から離れられたことは彼女にとっていい結果だったのではないだろうか。
だからといって、「これで前を向いて生きられますね」とか「人生にとっていい意味になったと思います」とか、そういう綺麗事みたいな言葉を口にすることはできなかった。おそらく彼女も、その言葉は望んでいなかった。
「夕陽、今日の仕事終わり、空いてるか?」
成瀬さんが口を開いたのは、応接室での作業が終わってからのことだった。「はい」、なるべく感情を出さないように返事をする。彼女は一度開いた口を閉じて、たいして乱れていない前髪を直したあと、大きく空気を吐きだし、「そうか」と言った。
「データの削除に付き合ってほしい」
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