4-13「甘めの缶コーヒー。」
早朝、アラームが鳴るより前の時間の空気は高い純度をしているような気がする。空気は僕が目を覚ます直前に濁り始め、起床時刻を境にどんどん憂鬱な属性を帯びていくのだった。
その日は最初に、ひどく清々しい風を感じた。空気を作る分子が、例外なく澄んでいる。いつもより早くに目が覚めたため、余裕を持って家を出ることにした。何でもない日を鮮やかに着色するには、早朝の心地よさを絶やさないための営みが必要なのだと思う。
「おはようございます」
時間が早いせいか、オフィスはいつもより閑散としていた。僕が紡いだ控えめな挨拶に、疎らな「おはよう」が返ってくる。始業まではまだ三〇分あった。自分のデスクにいても特にやることはないので、缶コーヒーでも飲もうと思い、席を立つ。部長とすれ違うときに「早いねえ」と言われたので、「あはは、そうなんです」と返しておいた。
休日の二十四時間はどうしようもないまま過ぎていくのに、いつもより多い三〇分ぶんの余裕が朝の空気をがらっと変えてしまうから不思議だ。いつもより早起きした日の午前中は時間の流れが緩やかに感じる。
喫煙ブース付近の自販機に人の姿はなかった。三階には受付カウンターの対角側にフリースペースがある。ガラス張りになった壁側には五組のテーブルとソファが置かれていて、外から風が入ってくることはないものの、ここで珈琲を飲めば朝の清々しさを堪能することができそうだった。
硬貨を投入口に押し込み、冷たい缶コーヒーを購入する。十月にしては気温が高く、陽射しも暖かかった。腹を冷やすような寒さをしていない限り、僕は冷たいコーヒーを飲むようにしている。気分というよりも抽象的な、心の輪郭、のようなものが引き締まる気がするからだ。
成瀬さんに会ったら謝ろう、と思った。彼女の気持ちを考えずに、責める勢いで言葉をぶつけてしまった。高橋たちが和解しないままデータを消すことが正しいのかはわからない。そもそも、正しさという言葉が曖昧すぎる。有明の思いを考えるとやりきれない気持ちになるが、それは結局、想像上の彼でしかない。成瀬さんが言ったとおり、ただの無意味な同情だった。
唯の言葉が頭から離れずにいた。心の拠り所は、人生のなかのちゃんと意味がある部分にしなきゃいけない。生きていく指針のようなものは誰にでもあって、たとえばそれがもうこの世にいない人間だとしたら、その指針を持つ者はそれ以上前に進むことができなくなってしまう。
高橋のように、それが真実かどうかは別として、偽物の理由を付けてでも過去に見切りを付ける方法こそが正しいのかもしれなかった。
「あ」
僕が座っている場所の一〇メートル後ろ、自販機の音に反応してつい振り返ってしまった先、そこに立つ人物を見て僕は目を疑った。最初に浮かんだのはすでに就業時間が始まってしまったという焦りだった。しかし、腕時計に目を落としてみても、まだ十五分以上の余裕がある。だから僕は、これほど早い時間に成瀬さんが会社にいる理由が全くわからなかった。
取り出し口から缶コーヒーを回収した成瀬さんは、そこで初めて僕の存在に気づいたのか、「わっ」と悲鳴のような声を上げた。
「おはようございます。こんな早くからどうしたんですか?」
「おはよう。別に、たまたま早く目が覚めただけだ」
缶コーヒーのタブを引きながら、成瀬さんが正面の席に腰を下ろした。外へ視線をやった彼女に倣い、僕もビルの外を眺めてみる。飛行機の、低いエンジン音がした。
遠くまで続く幹線道路の両脇で、背の高いイチョウの木々が堂々と列を成している。柔らかく照りつける朝日が葉の黄色い表面に高い彩度で反射され、明るくて穏やかなものだけが心に染み込んでくるようだった。早起きしていなければ見ることのなかった光景だ。
「悪かったな」
「え?」
「先週末。言い方が悪かった」
「……いや。悪いのは僕のほうです。成瀬さんがどうしてそういう考えに至ったのか、想像しようとすらしなかった。それに、有明くんや高橋凪に同情してしまっているのも事実です。すみませんでした」
缶コーヒーは筋肉を収縮させる苦味をしていた。いまの僕にはこれくらいがちょうどいい。脳細胞を余すことなく叩き起こすような刺激が僕には必要だった。
「私も人のことを言えない。会社ではなくて、依頼人にとっての最善を選ぼうとしている。本来だったら有明誠士郎の真意を伝えて和解させるべきだ。そうすれば契約は継続にされ、会社の利益に繋がる」
僕はあのとき、もしかしたら、自分の責任ではない部分で高橋に真意を伝えたかったのかもしれない。僕ではない誰かが有明の思いを踏みにじり、ふたりを和解に導いてくれればそれでよかった。
「いや。充分、立派だと思います」
彼女は缶コーヒーに口を付けたあと、ちいさく息を吐いて、「いつのまに仲良くなったんだな」といたずらな笑みを浮かべた。「え?」「有明誠士郎と」「ああ」成瀬さんの飲む珈琲はいつも甘い匂いがする。
「貴重な同年代ですから。友だちは少ないし、同期はみんな別の部署だし」
「私だって三つしか変わらないだろう。名前で呼んでもいいぞ」
「えっ」
「夕陽にそんな勇気はないか」
あははと成瀬さんが笑うので、試しに「藍さん」と呟いてみる。彼女は「悪くないな」とまた笑った。
彼女がこの時間に出勤してきたのは、もしかしたら僕と話す時間を作るためだったのかもしれない。そんな僕の希望的思考を遮るみたいに、「もうすぐ時間だ」と成瀬さんが言った。
この日は高橋凪のデータ消去実行の予定が入っていた。彼女に準備完了のメールを送ってからもうすぐで二週間が経つ。その間、彼女は喫茶ナカムラにも現われなかった。何年も一緒に過ごした大切な人を、再び手放さなければならないことに迷いがあったのだろう。それでも結局、彼女はデータを消すことに決めたようだった。
午前中の仕事は清々しい気分のまま終わった。心を重くするような仕事があるときは、早くから気分の流れを作ってやることが重要だとこの半年間に学んだ。麺二郎さん他数名とラーメンを食べにいって、午後の雑務をこなしていると予定の時間はすぐにやってきた。
「結局、有明くんのことは言わないんですよね」
「そのほうがいい」
いつかデータを消さなければいけないことはわかってる。高橋もそう言っていた。これが彼女の思い描く理想の未来に繋がっているなら、どれだけつらかったとしても、僕たちは仕事をこなさなければならなかった。
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