4-12「メリーバッドエンド。」

 目を覚ましてから布団を脱出できず、天井をぼうっと眺める日々が続いていた。外から差し込んでくる朝日が、窓のかたちに壁を照らしている。なかなか動く気になれないのは、秋風がどんどん気温を落としているせいだと考えることにした。


 今日が休みでよかった。起き上がろうとして身体に力を入れるが、ベッドから降りるには至らず、結局変に体勢を変えただけになる。もし誰かがこれを見ていたら、僕はかなり間の抜けた格好に映るだろう。


 考えなければならないことが多いとき、思考の重さに比例するように身体も重量を増していくような気がする。優菜のこと、有明と高橋の関係、それから成瀬さんとの言い合い。深く考えようとしたそばから早朝の脳はとろけていく。


 なんとなく手に取ったスマートフォンで、理由もなく起動したSNSの、何気なく開いたつぶやきは今度映画化するあの小説に関する内容だった。


 僕はその作品の結末を知らなかった。優菜に貸したままの下巻は彼女の死後も買い足されることはなく、本棚とすら呼べないちいさな箱のなかで上巻だけが寂しそうに埃を被っている。


 小説を読もう、と思い始めてからは早かった。洗顔から寝癖直しまでを最速で行い、簡単に着替えを終わらせる。外行き用の服はクローゼットケースの一番手前から取りだしたため、図らずして前に成瀬さんと出かけたときと同じ格好になってしまった。


 外は微かに雨が降っていて、せっかくやる気を出したのにとも、人が少なくて助かるとも思った。本屋へ向かう途中、デーパードパンツの裾がどんどん濡れていくので、前者のほうへと思いが傾いていく。一〇分の時間をかけて僕はようやく駅前の本屋に到着した。


 本屋での買い物はあっという間に終わった。目的の下巻は大々的な映像化コーナーのおかげですぐに見つかったし、読書の習慣を持たないため、他の書籍に興味を惹かれることもなかった。


 続いて足を運んだ喫茶ナカムラは、雨の影響もあってか、カウンター席で読書をする中年男性が一人いるだけだった。高橋の姿は見当たらない。キッチンで調理していた唯の父親に軽く会釈をして、奥のテーブル席に腰を下ろす。この時間は彼が一人でやっているようだった。しばらくして彼は僕の前に水を置くと、「注文」、目を合わせて言った。


「あ、珈琲とモーニングで」


 何も言わずに去っていく彼の背中から、小説へと視線を戻す。何があったらあの寡黙なマスターの元で唯のような騒がしい娘が育つのだろう。


 珈琲を飲みながらの読書が心地いいことを初めて知った。珈琲の香りと、小説のページをめくるたびに漂ってくるインクの匂いはかなり相性がいい。


 買ってきた小説は不幸な男女の恋愛を描いた作品で、上巻は、追い込まれた二人がすべてを捨てて旅に出るというところで終わる。現状を破壊し、自分たちの幸せを掴むために行動できることはすごいと思う。


 現状は、変わらなくていいならそれに越したことはない。何かを変えると、それに適応するために他の部分まで変化させる必要がある。変化、というものは途方もないことだった。


 半分ほど読んだあたりで、追加の珈琲を注文した。普段から活字に触れてこないせいで、一ページを読むだけでそれなりの時間がかかってしまう。唯の「おまたせ」を聞いて顔を上げたとき、ちょうどカウンターの中年男性が最後のページをめくるところだった。唯は僕が気づかない間に出勤してきたようだった。珈琲を受け取り、代わりに空のカップを渡す。


「有里って凪ちゃんと知り合いだったんだ」

「いや、別に。そういう訳じゃないけど。色々あって」

「そう。まあそれは置いといて、ひとつ気になってたことがあるんだけど」

「なに?」


 唯はトレーにコーヒーカップを載せると、周囲を見回しながら「あのさ」と言った。書店でもらった栞を小説に挟み、机の上に置く。唯にしては声が小さかった。


「優菜って、バーチャルヘヴンにいるの?」

「そうだよ。会いたくなった?」

「……うーん。やっぱり、会わなくていいかも。会ったら、優菜がいるものとしてこの先、過ごしちゃいそう」


 唯は自分の回答を噛みしめるみたいに頷いたあと、「うん、そうだと思う」、ひとりごとみたいに言った。


「どうしたの、いきなり」

「ううん。確認したかっただけ。もやもやしてたから」

「そっか」


 ソーサーの上でコーヒーカップを回して、取手を正面に向ける。なかの黒い液体が波を打って、隆起した部分だけが褐色になった。一度浮かせたコーヒーカップを、再びソーサーに着地させる。スプーンが間に入り込んで、耳障りな音が鳴った。


「うん、やっぱり、心の拠り所は、人生のなかのちゃんと意味がある部分にしなきゃいけないんだと思う」


 たしかにそうだね、と僕は返していた。手持ち無沙汰を埋めるために、またコーヒーカップに手を伸ばしている。カップ越しの珈琲は、九十度から全く温度を下げていないように感じた。足首の辺りはまだ湿っていた。


 深く考えずとも、僕には、成瀬さんがバーチャルヘヴンの住民の捉え方を変えた理由がわかってしまった。オトマさんの言葉は半分だけ正しかった。成瀬さんはバーチャルヘヴンにいる元恋人を、データ上の存在と捉えなければ切り離すことができないのかもしれなかった。


 小説の下巻、主人公たちは取り返しのつかないところまできている。しがらみから逃げられたとしても、もう元の日常を謳歌することはできない。最後、ふたりは手を繋いだまま海に身を投げるのだった。ふたりとも、最後の瞬間まで満たされていたようだった。メリーバッドエンド。全員が幸せになることを望むはずの優菜が、これを「いいお話」といった意味がわからなかった。


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