4-11「どっちつかず。」
窓から鋭い角度で差し込んでくる夕日の、その眩しさに目を細め続けるのが億劫になってくる時間帯、僕のノートパソコンは「データ消去の準備が完了しました」という委託先からのメールを通知した。成瀬さんに確認してもらい、高橋凪宛てにメッセージを作成する。目がむず痒くなるほどの光を放ち続けている窓の、ブラインドを降ろそうとする人は誰もいなかった。僕もそのうちのひとりだった。
昨日は初めて有給休暇というものを使った。目が覚めたのは午後になってからで、その後の何をするでもなく時間を浪費していく焦燥感が心地よかった。
思考が行き止まりに達して足踏みをしているとき、そのもどかしさに頭を抱えるのは一瞬だけで、少し経てば何もかもがどうでもよくなり、すべてを投げだしたい気持ちになってしまう。
有休は僕に効果的な時間を与えてくれなかった。メールを送信したとき、時計は定時の数分前を指していた。
「メールは送れたか?」
デスクに散らばっていた書類をまとめながら成瀬さんが言った。「あ、はい」送信済メールの画面を彼女のほうへ向ける。彼女は画面を一瞥し、「ごくろう」と呟くだけだった。
「成瀬さん。この前喫茶店で、高橋凪に会いました」
「そうか。どうだった」
「有明誠士郎の真意に気づいている様子でした」
成瀬さんは先ほどまとめていた書類をバインダーに挟むと、「それで?」、ちいさく首を傾げて言った。彼女の眉間には、わずかに皺が寄っている。これから僕が言おうとしていることを、初めからわかっていたようだった。
「有明くんは、消えるのは寂しいって言っていました。高橋凪のほうも、このままデータを消したら後悔すると思います」
喫茶店で高橋の姿を見たら、そう考えずにはいられなかった。高橋の状況は、僕が優菜に対して抱えている後悔と似通ったものがある。その場の感情で動き、取り返しのつかないことをしそうになっている。
有明にも、心に抱えたものをすべて取り払ってから最期を迎えてほしい。たしかに、すべての人間が後悔せずに死ぬのは不可能なのかもしれない。でも、有明のように、自分が消えることを知っているならなおさらそう考えずにはいられなかった。
「……夕陽はどうしたいんだ?」
時計は間もなく定時を迎えようとしていた。成瀬さんのデスクはすっかり片付いてしまっている。
「やっぱり、ふたりを最後に会わせるべきなんじゃないかって。これだと有明くんが……、浮かばれません」
可哀相、という言葉を使おうとしてやめた。僕が彼に対して抱いている心の重さを、同情などという安っぽい感情で片付けられたくなかった。
「私は反対だ」
「どうしてですか」
はあ。成瀬さんが溜息を吐く。陽射しはまだ眩しい。
「死者は死者だ。彼らは本来存在しないし、あれは仮想空間に再現されたデータに過ぎない」
「前と言ってることが違います」
「何がだ」
「前は、死者と生前の人物は同一の存在って言っていました」
気づけばオフィスは静まりかえっていた。こちらの様子を窺っていた社員と目が合って、逸らした先、今度は別の社員と視線が交差する。強まってしまった声を誤魔化すみたいに咳払いをしてみても、室内で他に声を発する人はいなかった。空気清浄機の機械音が、やたら耳に残る。
「ものの捉え方は状況によって変わる。今回はそう捉えるべきだと判断したまでだ。夕陽は死者に同情しているだけだろう」
成瀬さんが言い終わるのと同時、時計の表示が十八時〇〇分に変化した。「お先に失礼します」、淡々とした声はいつまでも室内で響いているようだった。
たしかに入社時は、僕も彼らをただの人工知能だと思っていた。でも、最初の依頼を受けてから、彼らにはたしかに人間としての魂のようなものが宿っているような気がしてならなかった。桐原刑事は人間ではないと捉えていたようだが、たとえそれが本人じゃなかったとしても、記憶を持ち問いかけにも応じてくれて、触れ続けていれば嫌でもひとりの人間に見えてしまう。
* * * * *
「まあ、そう思わないとやってられないんじゃないの? 特にデータ消去はね」
麺二郎さんはそう言うと、箸でごっそり掬った麺を一気にすすった。「そうなんですかねー」、間抜けな返事が赤いカウンターテーブルに滴り落ちる。「麺二郎のくせにいいこと言うねえ」、社員のひとりが茶化すように言った。
昼食以外でこの店に来るのはこれが初めてだった。それから、五人という大人数で来るのも。夜という時間が相まってか、脂身が舌の奥に触れるたび、脳から幸福物質が分泌されていくのがわかる。
この日、麺二郎さんは昼休みにまで会議が長引いてしまったせいで、ラーメンを食べに行くことができなかったらしい。そういう日は仕事終わりに暇そうな人を集めてラーメン梵に足を運ぶのだと、麺二郎さんは続けて語った。その輪に僕を入れてくれたのは、きっと成瀬さんと言い合いをしていたことに気遣ってのことだろう。
「でも僕は、有明くんが不幸なまま消えるの、見てられないです。それから依頼人にも後悔してほしくない」
口に含んだばかりの麺を飲み込んだあと、麺二郎さんは「あはは」と大声で笑った。ちゃんと消化されるのか心配になった。
「ま、やってることは人殺しと変わらんからなあ」
麺二郎さんの、僕とは反対側の隣に座っていた「オトマ」という社員が、関西っぽい訛りでそう言った。彼の顔を見たことはなかったから、他の部署の社員なのだろう。「乙間」という漢字を書くことは、彼の名札を見て知った。
「人殺し、ですか」
「そうそう。記憶があって、感情もあって、ちゃんとものを考えるんよ? 生きてるのと同じやない」
「悪い、夕陽。こいつは言葉選びが下手なんだ」
「……はは。でも、僕もオトマさんと同じ意見です。データの消去は人殺しみたいなことなんだと思います」
広い観点で見れば、データ削除も殺人も、その生を終わらせるという部分で共通している。罪悪感を拭うのは難しそうだ。
夜のラーメンは想像以上に重たかった。店を出るころには、胃の重さがそのまま帰ることへの億劫さになっていた。
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