4-10「憂鬱の準備。」

 次に僕が喫茶ナカムラを訪れたのは、高橋凪との面談から三週間が経過したころだった。仕事の帰り道、木製の扉を引き、店内へ足を進める。想像していたとおり高橋凪は端っこのテーブルに座っていて、僕と目が合ったとき、あからさまに不満そうな顔をした。


「あれ、久しぶりじゃん」


 カウンター席に着くなり、グラスに水を入れながら唯が言った。「仕事が忙しくて」、模範解答のような返事をする。バッグから参考書を取りだし、勉強を開始するころにはいつもの珈琲が運ばれてきた。


 金曜日の夜は、特別な物質が空気に溶け込んでいるのだと思う。それが肺に流入して、血液に乗って身体中を回り、脳にある種の快楽物質を生成させる。期限は一夜限りで、翌日には消えてしまうから、土曜の朝はどこか虚しい気持ちにさせられるのだ。


 照明の光が乗った珈琲を啜り、舌の上で転がす。苦味は次第に奥のほうへと移動していき、最終的に耐えきれなくなって飲み込むしかない。


 参考書の文言を眺めながら、今日の晩ご飯は何にしようと考えていた。いや、帰ったら、最初に洗濯物を片付けなければならない。風呂掃除を最後にしたのは、いつだったっけ。大人になってから、考えなければならないことが増えたような気がする。


 頭のなかで問題を整理していると、急に手を動かしていないことに違和感を抱き、手元にあったゴミをおしぼりの袋に詰め込んだ。狭いところに何かを押し込むことで、自分が吐きだせない憂鬱みたいなものまで移動していくような心地になる。


 次に口を付けた珈琲はすっかり冷めていて、それまで喉の奥に貼り付いてきた苦味は、舌の側面を突き刺す鋭い酸味に変化していた。珈琲の味は、豆とか挽き方より、そのときの気分が大きく関わってているのだと思う。


 肩甲骨のあたりに痛みを感じて、左手を背に回し、筋をぐりぐりと押し込む。凝りを作るために肉が、筋が、骨にこびりついているみたいだった。


 少しずつ身体の向きを変え、高橋凪のほうへ視線を送る。彼女は小説に視線を落としたまま全く動かない。右耳のピアスは、例外なく照明の光が乗っかっていた。


 彼女が読んでいる小説に視線が着地したとき、「あ」、つい声が漏れた。ずいぶん古い小説だな、と思う。僕が中学生のときに流行ったものだった。優菜に貸したままの、上下二巻構成の小説。


 最近、映画化が発表されたとネットの記事で読んだ。そんなにおもしろい作品だったなら、優菜に貸す前に読んでおけばよかった。そこまで考えてから高橋が鬱陶しそうにこちらを見ていたことに気づき、慌てて顔を背ける。焦点のすこし横で、彼女が顔をしかめたのがわかった。謝罪のつもりで軽く頭を下げておいたが、すでに読書を再開している彼女には届いていないようだった。


 高橋はこのまま有明のデータを消して、後悔しないのだろうか。誰もが望むようなハッピーエンドに終わることはないかもしれないが、自分がその立場だったら、後悔するに違いなかった。しかし彼女に有明の真意を伝えれば、彼の信念を無下にすることになってしまう。自分の選択を、担保してくれる何かがほしかった。


 右を上にして組んでいる足が落ち着かなくて、左脚を上に組み替える。参考書のページをめくる。口が寂しくなってコーヒーカップを手に取るけど、冷めていたことを思いだしてソーサーに着地させる。その拍子にコーヒースプーンが間に入り込んで、位置がずれる。直す。参考書に目を戻す。急に店内のBGMが気になって、リュックのジッパーを開く。今日はヘッドホンを持ってきていないんだったと気づく。また脚を組み替える。


「……あの」


 高橋は最初、自分に向けられた言葉だと気づかなかったのか、数秒の間があってから顔を上げた。何の用だ、という彼女の心の内が、ひどく細められたその目から伝わってくる。


「その小説、おもしろいですか」

「つまんないです」

「じゃあなんで読んでるんですか」


 すぐには返答がなかった。彼女は視線を小説に戻して、珈琲を啜り、それからページをめくる。会話の終了を察して正面を向き直ろうとしたとき、「昔、誠士郎が読んでたんで」、高橋の凛とした声がした。


 高橋の言葉を聞いて、少なからず僕は安心していたように思う。まだ有明に対する思いが残っているのかもしれない。彼女がまだ完全に見限っていないのであれば、話し合いの場が設けられる可能性も充分ある。


「彼と仲直りしないんですか」


 その言葉に、今度は返事がなかった。店内BGMが途切れたタイミングで、キッチンの換気扇が音量を上げたように感じる。冷めて酸味の強くなった珈琲を飲み干し、唯に追加の珈琲を注文した。


 僕が珈琲を飲むのは、ただ惰性でそういう選択をしているだけだった。無機質な味だけを身体に取り入れたくなるときがある。甘味みたいに脳が両手を挙げて喜びそうなものではなくて、もっと無表情で、心を動かすには及ばない程度の味がいい。たぶん、「泣ける」とか「大声で笑った」とかで話題の映画を見たくないときと同じメカニズムなのだと思う。心が、感動するのを面倒に感じている。内容がないものを求めているときがある。


「ねえ」


 唐突に背後から声がして、「はいっ」息を吸い込む途中、出来損ないの返事が口を衝いた。


「誠士郎は元気でしたか」


 小説に視線を落としたまま高橋が言う。彼女の黒髪は、不自然に照明を反射していた。僕は返答に困って、「ああ」とも「いや」とも取れない曖昧な言葉を返している。どちらの意味として受け取ったのかはわからないが、高橋は「そう」と呟いた。


 彼は「自分は過去になるべき人間」と言っていた。そして高橋が自分の人生を歩むことを望んでいた。僕がふたりにしてあげられることはなんだろう。和解すれば高橋はこれまでと同じくバーチャルヘヴンに依存した生活を送ることになる。いや、高橋が幸せならそれでいいのではないか。いくら考えても結論は出ない。


 携帯を見ると時刻はちょうど二十時になったところだった。傍らの伝票に記載されているのは十八時半、自分が思っているよりも時間が経っていたようだ。時間の割に、資格の勉強は進んでいない。


 この資格が人生でどれほど価値を持つかはわからないが、僕は、何かに打ち込む以外に憂いを忘れる方法を知らなかった。生きていくためには何か可能性があるものに縋らなければならない。いや、生きるためというより、重荷に潰されないようにするため、というほうが正しい。憂鬱な気持ちにはたしかな重さがあって、それに潰されたとき、人は死にたくなるのだと思う。


 家事が溜まってしまっているし早めに帰ろう。そう考えて会計を済ませ、荷物をまとめて立ち上がったとき、ちょうど顔を上げたらしい高橋と視線が交わった。


「余計なこと、しなくていいですから」

「え?」

「この小説。主人公がヒロインと離れるために嘘を吐く場面があるんです。『他に好きな人ができた』って」


 ああ、そんな場面もあったなと考えたあと、どきりとした。何か気の利いた言葉を、そう考えて周囲を見回してみても、それっぽい言葉は何も浮かばない。そんな僕に構わず、高橋は淡々とした声で続けた。


「私は誠士郎の言葉が嘘か本当か、別に知らなくていいです」

「ど、どうして」

「嘘かもしれないって、疑うほうが楽なので。疑ったまま彼のことを消します」


 疑うほうが、というより「希望を持っていたほうが楽」と彼女が考えていることを、僕は直感的に理解した。実は他に好きな人ができてなんかいなくて、有明は自分と離れるために嘘を吐いている。彼女にとって、そう考えたほうが生きやすいのかもしれなかった。


「高橋さんは、それでいいんですか」


 僕がそう訊いたとき、一瞬、ページをめくっている途中の手がぴたりと停止した。それからすぐに、何ごともなかったかのように新しいページが開かれる。


「ダメだったら、どうすればいいんですか」


 いまの質問はよくなかったと、すぐに気づいた。一度放出した言葉は訂正が効かない。僕は身をもって知っているはずだった。


「勝手に死んだのはあっちなのに、なんで突き放されないといけないんですか」


 彼女の声がわずかに震えていた。背後で、扉の閉まる音がする。唯がバックヤードに戻ったようだった。僕と高橋の他にもう客はいなかった。


「依存しちゃダメって言われて、でもそうしないと生きていけなかったらどうすればいいんですか」

「でも有明くんは……」

「『でも』じゃない! お母さんもお父さんも私のことを見てくれないのに、誠士郎しか私のことわかってくれないのに、『もう会えない』って言われたらどうすればいいって言ってんだよっ」


 僕はここまできて、真相を口に出せなかった。彼女の震えが大きくなるたび、吐きだすべき言葉の重さが増していく。


「……言われなくてもわかってますよ、いつまでも依存してちゃダメだって。いつか、データを消さなきゃいけないのもわかってます。いまも流れのままに行動してるだけです。未来の私がデータを消してくれれば、それでいいなって。現実味なんてないです」


 店内の空気は乾ききっていた。スピーカーから流れている流行りの曲は場にそぐわない陽気さを帯びていて、どちらかといえば、雑音のようにしか機能していなかった。この店内に合っているのは、高橋のちいさな嗚咽だけだった。


「……こんな気持ちになるなら、バーチャルヘヴンなんて使わなければよかった」


 どうしてこうも上手くいかないのだろう。何かを成し遂げようと一歩踏みだしてみても、エスカレーターを逆走するみたいにどんどん後退していってしまう。答えが見つかりそうと手を伸ばしてみても、あと、数センチ届かない。


 胸に溜まった悲しみ、のようなものを空気ごと吐きだしたとき、思ったより大きく音が響いて、自分でも驚いた。


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