4-9「さいごの一本。」
「……そうか。君でもダメだったか」
僕の報告を聞き、社長は落胆の色を隠しきれないようだった。ふたりだけの社長室に、身体を蝕むような沈黙が広がる。
「力になれず申し訳ないです」
優菜は「お父さんと話すことなんて何もない」と言っていた。その言葉だけでは、当時話を聞いてくれなかった父を恨んでいるのか、それとも生き返ったことが不満なのかを判断することはできない。そして、この言葉を彼に伝えるべきなのかもわからなかった。
「いや、これは仕方のないことだ。別の方法を探すことにするよ。……今日はありがとう」
社長はそう言うと、僕の前に封筒を置き、自分のデスクのほうへと歩いていってしまった。封筒には手を付けず、「あの」、詰まってしまいそうな喉をこじ開けて声を出す。
「僕も、まだ、優菜の死をちゃんと受け入れられてないんです。だから、もう一回、ちゃんと優菜と話したい。改めてもう一度臨んでもいいですか?」
個人的に、また優菜と話してみたかった。自殺したということを聞いて、力になれるはずだったあのとき、僕が話を聞く相手になれなかったことをきちんと謝りたかった。
現実世界は様々な雑音がしている。ビルのすぐ近くを救急車が通り過ぎていって、サイレンの音がしなくなったころ、今度は空調の機械音が鈍く部屋の空気を揺らすようになった。
「じゃあ、また頼むよ」
そう言った社長の声にはやはり力がこもっていなかった。そのあと「明日も仕事があるだろう。もう帰るといい」と言われてしまったので、僕はその場を去らなければならなかった。謝礼の封筒はそのままにしておいた。社長のデスクにはもうひとつ、手が付けられていない封筒が置いてあった。
廊下を歩く人はもういなかった。社長室に呼びだされてからすでに二時間が経過している。社内にはちらほら灯りの点いている部屋があったものの、そのうちどこからも人の話し声は聞こえなかった。仕事熱心な人が残業をしているか、電気を消し忘れてしまったかのどちらかだろう。
バーチャルヘヴンの住民はみんな死者の記憶を持っただけの人工知能であり、データ上の存在でしかない。これは世間的にも、法律的にも定められていることだ。それでも、あの優菜は七年前まで生きていた存在の延長であると、脳が勝手に認識してしまう。
僕が最初に担当した山中夫婦は、毎月、バーチャルヘヴンに通い続けている。いまの僕なら、彼らが死んだ息子に縋ってしまう気持ちをちゃんと理解することができた。
優菜に想いを伝えなかった未練というより、役割を果たさずに思考を放棄してしまった自分を許すことができず、起こったかもしれない可能性を拠り所にし続けていた。
エントランスの外はバーチャルヘヴンの世界と変わらない肌寒さをしていた。ここ最近は、朝の清々しい陽射しに惑わされて上着を持ってこなかったことを、帰り道で後悔するような日々が続いている。それなのに、迷いと憂鬱に侵された脳では、その後悔を解決するための行動ができずにいた。
「夕陽、おつかれ」
「……あ」
声がした方を振り返ると、そこには成瀬さんが立っていた。どうしてここに、という問いを口にするよりも早く、彼女が手に持つ煙草のほうに目がいった。吸い始めだったのか、まだ充分な長さが残っている。
「煙草、まだあったんですね」
成瀬さんはポケットから煙草の箱を取りだすと、「あと一本」、ちいさく微笑みながらその中身をこちらに向けた。それから最後の煙草を取りだし、僕に差しだす。「いいんですか」「消費してやらないともったいないだろ」元々予定されていたみたいなやりとりが地面に転がった。
「どうしたんですか、こんなところで」
「どうせ元恋人に逃げられて落ち込んでいるであろう後輩を慰めてやろうと思ってな」
「別に、元恋人じゃないですよ。でも、……ありがとうございます」
煙草に火をつけてライターを返却すると、成瀬さんは満足そうに笑った。彼女が僕のために待っていてくれたなんて意外だった。たしかに定時で帰ったとしても、成瀬さんを待つものは何もない。
煙を構成する粒子ひとつひとつが街灯の光を乱反射し、一瞬、視界がぶわっと押し広げられたようになった。天国、というものを連想した。天使は恐れられる存在であるはずなのに、かわいがられてキャラクター化しているのはなぜなんだろうと思った。
煙が空気に溶けていく様子を眺めていると、「夕陽」、成瀬さんが口をぱくぱくさせて、イルカのバブルリングのような輪を煙で吐きだしてみせた。
「え、すごい」
「そうだろ。さっき夕陽を待っている間に練習した」
「もっと時間を有意義に使ったほうがいいですよ」
煙草の匂いはやっぱり好きではなかった。でも、手軽に身体を汚す手段があるのはいいことだと思う。やりきれなさを解消するのにちょうどよかった。
大量の脂肪分とかアルコールとか、しばしば身体に悪いものを摂取したくなるときがあった。身体が悲鳴を上げるほど憂鬱な気持ちが減っていく。あとになって、知らないうちに溜まったストレスを自傷によって紛らわせているだけだと知った。リストカットで血を見て生を感じるのとそう変わらないと思う。これが自殺志願者の考えの根本にあるものなのかもしれなかった。
「で、どうだったんだ?」
「優菜に会えば何かが変わるものだと思っていました。でも実際に会っちゃうと、……難しいです」
厄介な記憶だけを消してしまいたかった。どうして僕はこんなに中途半端なのだろう。彼女の死に縋ってしまえればもっと楽だった。距離を置いて、悪い結果にたどり着きそうな思考を放棄し続けた結果がこれだった。
重たい感情に浸り続けているときのほうがずっと楽だった。自ら幸せを避け続けることは自分を戒めるのにちょうどいい。自殺はその究極型だ。逃れられない苦しみや自責から逃れる方法は他に思いつかなかった。
アスファルトの地面を踏むたび、身体に風が纏わり付いてくる。いくら力を入れてみても、同じところばかりを進んでいるような気がした。秋風はやっぱり冷たかった。
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