4-8「かなしい夜景、かなしい君。」
ベンチの横まで来たとき、少女がゆっくりとこちらを振り返った。心の中身をごっそり持っていってしまうような、秋らしい風が吹いている。長い黒髪は風にあおられて、柔らかそうに膨らんだ。
「……こんばんは」
挨拶をしても、少女は何も言わなかった。何ごともなかったかのように正面を向き直り、街の灯りが作りだす壮観な景色を、懐かしむみたいにじっと眺めている。優菜が僕だと気づかないのも無理はない。この七年間で背は伸びたし、きっと顔つきも変わっている。
優菜は何も変わっていなかった。幅の広い二重も透き通るような肌も、それから鞄に付けた四つ葉のキーホルダーも七年前と一緒だった。ひとつだけ、その表情を占める明るさの割合だけが変わってしまっていた。
「ひとり?」
「……そう、ですけど」
優菜の返事を聞いて、ああ、自分は声まで忘れかけていたんだなと思った。日に当てられ続けた紙がインクを落としていくように、時間が優菜の輪郭を薄めてしまっていた。それなのに憂鬱だけは鮮明に刻まれたままだったから困る。
「隣、いい?」
僕がそう訊くと、優菜は何も言わずにベンチの端っこに寄ってくれた。気遣いに甘えて、彼女の右隣に腰を下ろす。視界いっぱいに広がる夜景のせいで、僕は場の雰囲気に酔ってしまいそうだった。秋の風は冷たくて、すこしだけ寂しい。
少しでも気を抜けば、優菜の煌めかしい横顔に見入ってしまいそうだった。地上の景色を眺める優菜から視線を逸らし、同じようにその夜景を正面に据えて、またいつの間にか流れるように移動していく視線を急いで逸らしている。
ここ数ヶ月、正しい選択がなんなのか、ずっと考えていた。彼女の死を受け入れて前を向くことが正しいのだろうけど、今にも消えてしまいそうな優菜の姿を目に映すと、正しく選ぶことがすべてじゃないと思わずにはいられなかった。
地上の光たちは踊っているようだった。ある光は点滅していて、またある光はフェードアウトするみたいに姿を消していった。
「名前……、君の名前、訊いてもいいかな」
結局僕は、自分の正体を偽るという選択をした。「今後も接触しやすくなるから」をその理由として位置づけて、すぐにしっくりこないことに気がついた。もしかしたら、忘れられていることが怖いのかもしれなかった。優菜は何も答えなかった。
社長のアドバイスどおり私服に着替えてよかったと思う。社員としての姿で来ればこのわずかな会話ですら成し得なかった可能性がある。
「よく、ここに来るの?」
「……うん。ここの景色が好きだから」
「綺麗、だよね」
優菜が死んだと聞かされたあの日から、平坦な日々がぐつぐつと続くだけだった。酷いことは起きないし、だからといって反対にいいことばかりがやってくるわけでもない。中途半端なできごとをなんとなく処理しているうちに、気づけば社会人になっていた。唐突に、この夜景は地元の山から見える景色に似ていることに気がついた。
社長と話の場を設けてほしい。その言葉をどこで差し込むべきなのかわからなかった。それを口にした瞬間、優菜は手の届かない遠くへ行ってしまうような気がしている。それくらい、この空間は不安定だった。
「……有名人らしいね」
くるり。優菜が振り向いて、怪訝そうな顔をする。「社員からよく逃げるって噂」、僕が言葉を追加すると彼女は、納得したような、それでいて寂しそうに目を細めた。
「……お父さんに、会いたくないから」
「どうして?」
「私は生き返らせてほしいなんて、思ってない」
「……でも、生き返ってくれて喜ぶ人もいるんじゃないかな」
「私が生き返って喜ぶ人に、会いたくないよ」
「え、どうして」
感情が押し上げられて、つい顔に出してしまったことを後悔し始めた瞬間、優菜と目が合った。心臓が、ぶわっと膨張するのを感じる。何か、言葉。
「でも、優菜は――」
絞りだして、失敗した。気づいたときには遅かった。「なんで、名前……」、優菜が目を丸くして僕を見つめている。しばらくの間目が合って、優菜の真っ黒な瞳に確信の色が浮かんだとき、しまった、と思った。
「……有里」
あり、と舌っ足らずな言葉遣いで僕の名前を呼んだ。心のなかの大部分を、動揺より、懐かしさが占めている。木々の、風に揺られて擦れ合う音が聞こえた。
「優菜、僕は話をしにきた。僕は優菜の話を聞きたい」
「……有里と話すことなんて何もない。お父さんとも話さない」
彼女は素早く立ち上がると、次の瞬間、猛スピードで階段のほうへ走りだした。慌てて立ち上がり、彼女のあとを追う。
「優菜!」
優菜の足は速かった。負けじと草木を掻き分け、彼女の後ろを走っていく。唐突に目の前から優菜の姿が消えて、次に重たい物の落ちる音がした。
「え」
優菜が消えた場所で下を覗き込み、様子を窺う。暗くてはっきりとは見えないが、一〇メートルほど下の地面に人の姿はなかった。バーチャルヘヴンで肉体が壊れることはない。優菜はそれを十分に理解していたようだった。
昔、優菜に本を貸したことがあった。小説なんて全く読まないのに、その本だけは、唯に勧められるまま買った記憶がある。小説は上下巻の二部構成で、下巻を読み切る前に優菜に貸してしまった。その小説の行方はもうわからないけど、たぶん、優菜が持ったままなのだと思う。
結局、どんな結末だったのだろう。「いいお話だった」と優菜が言っていたことから、ハッピーエンドを迎えたことは間違いなかった。
最後に見えた優菜の顔には、たしかに涙のあとが敷かれていた。最初にかけるべき言葉は、僕自身の謝罪だったのかもしれない。
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