4-6「不安定な存在の証明。」

「職場には慣れてきたか? 有里君」


 熊谷正臣は、記憶にあるよりもひと回りちいさな体躯をしていて、それでいて熊のような雰囲気を持つ男だった。以前よりも縮こまって見える理由が、僕が大人になったせいか、それとも彼が歳を重ねるにつれて萎縮していったせいなのかはわからない。それでも社長らしい貫禄を感じられるから不思議である。


「は、はい。結構慣れて、きたと思います……」

「そんな畏まらなくていいよ。お察しのとおり、君を呼んだのは個人的な理由だ。まずはふたりとも、そこら辺の椅子にでも座ってくれ。成瀬ちゃんもすまないね」


 社長に言われるままひとり用のソファを引き、腰を下ろす。ソファの座面は想像していたよりずっと柔らかかった。


 個人的な理由。やはり社長が僕を呼んだのは優菜に関することだったらしい。自分の、息を呑む音が聞こえる。このあとすぐにでも、優菜と会う機会が訪れるかもしれない。


「社長。私が呼ばれた理由は? 帰ってもいいですか?」

「ふたりには取らせてしまった時間のぶん、私から謝礼としていくらか支払うよ」


 椅子の背後で立ったままの成瀬さんに、社長は眉尻を下げたまま穏やかな口調で言った。「ならいいですが」、全然よくなさそうな口調で成瀬さんが返事をする。


「有里君にはまず、優菜のことを話さなければならないね」

「……はいっ」


 社長は僕たちの前にそれぞれ珈琲を置くと、「砂糖は?」、僕と成瀬さんを交互に見ながら言った。「大丈夫ですっ」「ふたつで」、それぞれの回答を聞いた彼は、エスプレッソマシンの横からスティックシュガーを持ちだし、成瀬さんの前にそっと差しだす。それから僕たちの正面のソファに、音も立てずに腰掛けた。


「有里君、優菜が自殺したことは知っているね?」

「はい。聞きました。……原因も」


 優菜が中学二年生の終わりごろに引っ越してから約半年後、次に届いた彼女の情報は訃報だった。そして二日後に行われた葬式で、僕は唯から「自殺だったらしい」と聞かされることになる。


 加えて、以前飲みに行ったとき、成瀬さんは「転校先でのいじめ被害により自ら死を選んだ」と言っていた。これが、優菜の死に関して僕が知っていることのすべてだった。


「有里君。私は後悔しているんだ」

「後悔、ですか?」

「私は、あの子が自殺した理由を、ちゃんと聞きたい。いじめによる自殺、と言われても到底受け入れることはできないんだよ。それは検察の見解でしかないからね」


 社長はマグカップに手を伸ばして、それからすこし動きを止めたあと、取手に触れかけていた手を再び膝の上に置いた。窓の外は少しずつ明度が落ちていく。僕も成瀬さんも、まだ珈琲には手を付けていなかった。傍らに、スティックシュガーのゴミがふたつ、転がっている。


「……妻が死んで、いっぱいいっぱいだったんだ。余裕がなかった。だから、あの子の心のケアができなかった。話を聞いてやることくらい、できたはずなのに。君に責められても文句は言えない」

「……いえ」


 扉の向こうからは、社員たちの楽しげな話し声が聞こえてくる。時計は定時の三十分後ろを指していた。


 僕も社長と同じだった。僕に社長を責める筋合いはない。大切な妻を病気で亡くしたあと、続けて娘を自殺で失うなんて、言葉では測りきれない痛みを背負って生きてきたのだろう。


「別に、今日でなくてもかまわない。私には、優菜がどこにいるのかすらわからないんだ。だから、成瀬とふたりで優菜を説得して、話をする機会を作ってほしい」


 優菜に会うべきかどうかの時点で悩んでいたことも、思い返してみれば思考放棄した結果でしかなかった。僕はちゃんと優菜と話をして、彼女がすでに死んでいることを再認識し、絶望する必要がある。


「無理にとは言わない。でも、もし有里君がいいなら、優菜に会ってほしい」


 これは優菜の死に絶望し、前を向くためのチャンスだ。気づけば僕は、「行かせてください」と立ち上がっていた。珈琲はまだ、湯気の生成を続けている。


「……成瀬さんは先に帰ってもらって大丈夫です。僕、今からバーチャルヘヴンで優菜を探してきます」


 * * * * *


 ひとりでバーチャルヘヴンに来るのはこれが初めてだった。見慣れた景色のはずなのに、今回はいつもと全く別の世界を歩いているような錯覚に足を取られている。おそらく、夜のバーチャルヘヴンに足を踏み入れた経験がないからだろう。


 この仮想空間にも時間の概念は存在する。とはいえここの住民たちは半永久的な寿命を持っているため、彼らにとって時間は、朝と夜が順にやってくる程度の認識でしかないのかもしれない。


 季節は現実世界に合わせて春夏秋冬と移り変わっていくが、復元された死者に温点や冷点が備わっているのかも不明だ。システム上、そういう認識をさせられているだけとも考えられる。


 藍色の空には満月が浮かんでいた。月の暦が外の世界と同じなのか、空を見上げる習慣のない僕に判断することはできない。季節や時間まで律儀に再現しているのだから、そういった細かい設定にまでこだわっていると考えるのが自然だろう。


 車が走っていないせいか、片側二車線の大きな道路はやけに寂しく見えた。風と自分の衣擦れしか聞こえない世界では、あるはずのものがない景色も相まって、強制的に畏怖のような感情が引きずりだされる。


 優菜がどこにいるのか、たしかな情報があるわけではなかった。これまで優菜を探してバーチャルヘヴンに潜った職員のなかには一度も彼女の姿を見たことがないという者もいるらしい。今回僕が向かっているのは、この時間に優菜がいる可能性が最も高いとされる、高台の公園だった。


 社長が僕に課した使命はひとつ、優菜を説得し社長との話の場を設けることだ。社長はおろか、普通の社員ですら優菜と話せずにいるのが現状だ。優菜との話の場を設けるに当たって、僕は切り札的な存在だった。


「有里君にはまず、バーチャルヘヴンがどういうものなのかを把握してほしかった。そして、死という現象の捉え方も。私同様、優菜という大切な存在を失った君だが、きっと私とは違う考えを持つことになるだろう。君なりの見解で、優菜を説得してほしいと考えていた」


 入社後すぐに優菜との接触を頼まなかった理由を、社長はそう語った。


 万が一彼女に逃げられた場合、追いかけるためにはバーチャルヘヴンの構造をしっかり頭に入れておく必要がある。優菜と話をするために必要なことのひとつだ。


 優菜がどういう存在で、どう接するべきか。残念ながら、僕はまだ自分なりの結論を出せていなかった。


 彼女に会ったとして、前と同じ外見をしているであろう優菜を前に、どうやって死を受け入れられるのかは未だにわからない。しかし立ち止まってばかりではなく、成瀬さんがしていたように、今できることに手を伸ばす必要があった。


 もしくは高橋凪のように思いっきり喧嘩別れしてしまったほうが幾分か楽だったのかもしれない。いや、その方法では後悔が残りそうだ。再来週にデータ消去の立ち会いがあったことを思いだし、心がぐっと重くなる。


「あれ、夕陽くん?」


 本社から北へ延びる道路を歩いているとき、うしろから聞き覚えのある声がした。振り返り、声の主を確認する。

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