4-5「呼び出し。」
大きな動きがあったのはその一週間後のことだった。
その日の仕事終わり、いつもどおり定時ちょうどに席を立った僕は、「ちょっといいかな?」と部長に呼び止められた。すでに出入り口の扉に手を掛けていた成瀬さんは不思議なものを見る目でこちらへ視線を送っていたが、「成瀬も」、部長が追加した言葉によってみるみるうちに表情を曇らせていった。
これまでは仕事でちいさなミスをすることはあっても、時間を取って説教されるようなことは一度もなかった。それはもちろん成瀬さんの圧力によって丁寧な仕事を余儀なくされた結果のことである。今回は成瀬さんも一緒に呼び止められてしまったため、彼女を巻き込んだ盛大なミスをやらかしてしまったのかもしれない。
彼女がこちらへ歩いてきている間に、怒られるための心の準備を進めておく。視界の端で、麺二郎さんがもの珍しそうにこちらの様子を窺っているのが見えた。
「いかがなさいましたか、部長」
成瀬さんは平常を取り繕っているようだったが、僕には彼女から放たれる帰りたいオーラが具現化したみたいに見えていた。部長は「ああ、えーと」と何ごともなさそうに言うから、おそらく彼女の核弾頭のような雰囲気には気づいていないのだろう。口籠もった部長が続けた言葉は、覚悟を固めた僕の予想を遙かに上回る内容だった。
「社長が成瀬と夕陽を呼んでるんだ」
「え、社長が?」
「いま内線があってね」
最初に浮かんだのは自分が会社の大損害に繋がるミスをしてしまったという心配と絶望で、次はバーチャルヘヴンで暮らしているとされる優菜のことだった。後者が浮かんだのはどうやら成瀬さんも同じだったらしい。部長を捉えていた不機嫌そうな視線がゆっくりと僕のほうへ向けられる。
「成瀬、何をしたんだ……?」
部長のほうは僕が最初に浮かべたものと同じ考えを結論に据えてしまったようで、おそるおそる、というように成瀬さんのほうへ視線を移した。たしかに成瀬さんほど仕事を完璧にこなす人間が、後輩のミスだとしても、社長に呼びだされるほど大きなミスをしたとはどうしても考えられないのだろう。
「個人的な用事でしょう。私がついていながら夕陽が社長直々に叱られるようなミスをするとは考えられません」
成瀬さんの視線がぎゅっと細まって、再び僕のほうへと向けられる。その目には自分の力量に対する自信ではなく、明らかに「私に迷惑をかけるようなミスはしないはずだよな」という、僕に対する圧力が力強く宿っていた。
「夕陽は幼いころから社長と面識があります。定時後に連絡が来たということからしても間違いないでしょう」
「そうか……」
部長は安心したように息を吐きだすと、「じゃあ、頼むよ」とだけ言って自分のデスクへ戻っていってしまった。反対に、成瀬さんは冴えない表情を浮かべている。ついに優菜との関係に決着をつけるときが来た僕を慮ってくれているのだろうと思ったが、「私も行かないといけませんか?」と不機嫌そうに言うので、おそらくは定時後まで会社に残り続けることが単純に不満なのだと思う。
熊谷社長、つまりは優菜の父とはたしかに面識があるが、それを成瀬さんに話したことはない。社長から直接聞いたのか、もしくは僕と優菜の関係から推定し、部長を宥めるためにそう言ってくれたのだろう。
優菜の父親に初めて会ったのは小学生のときだった。苗字のとおり、熊のように体格がいい男だったことを覚えている。もちろん今となっては顔も忘れてしまった。
席に戻った部長はすぐに外線を取ってしまっていたので、不機嫌そうな顔の成瀬さんにグッドサインを送っただけだった。
「あの」
社長室へ向かう途中の廊下で、僕はひとつ、気になっていたことを質問してみることにした。「なんだ」、成瀬さんが低い声で言う。
「成瀬さんって優菜と会ったことあるんですよね?」
「ああ」
「それって、バーチャルヘヴンのなかの優菜に、ですよね?」
優菜のことだろうと思う反面、本当に叱られるのではないかという懸念もあった。優菜に関する用事なのであれば、僕だけを呼べばいい話だ。わざわざ上司の成瀬さんまで呼び寄せる必要はない。それに、なぜ今さらという疑問もあった。
「当然だろう。あの子が亡くなったのは七年以上も昔だ。そのころ私は二十歳にもなっていない。就活すらしていなかったあの時期に、容姿端麗の女子大学生がどうやってあの熊爺さんと知り合うんだ」
熊爺さん、と僕が繰り返すと、成瀬さんは「そうだ」とまた低い声で言った。羨望を含んだ成瀬さんの視線が、帰宅中の社員とすれ違うたびに後方へ引っ張られている。本当に帰りたいんだろうな、と思った。
彼女とは反対に、僕は居残りできてラッキーとすら思っていた。このまま家に帰ってもやることはないし、喫茶ナカムラに寄ればどうせ高橋凪に遭遇することになる。あの面談以降、彼女とは顔を合わせていない。「カフェの常連同士」以上の関わりを持ってしまったせいで、あの場所に行くのがすこし気まずくなってしまった。
「……そうか。まだ言っていなかったか。私は社長に頼まれて、熊谷優菜との会話を試みたことがある。そして現在、我々は熊谷優菜と接触するのが難しい状況にいる」
「え、どういうことですか?」
「どういうわけか彼女は、我々社員の姿を見つけると逃げだすんだ」
麺二郎さんが言っていた「人見知り」というのは、こうして逃げだす優菜の行動を見たことによる見解だったのろう。明確ではないが、死者の脳から記憶を読み取るENT技術の性質上、優菜がバーチャルヘヴンに復元されたのは彼女が死んだ七年前とみて間違いない。優菜は七年間、そうして社員から逃げ続けていたとでもいうのだろうか。
そもそも、ENT技術が発表されたのは株式会社バーチャルヘヴンが設立するよりも前の話だ。当然優菜はすでに死んでいる。ENT技術の研究段階で優菜が復元されていなければあり得ない。
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