4-4「消えない煙草。」
普段はパンプスを履いているから気づかなかったが、こうして横に並んで見ると、彼女はイメージよりも背が低いことがわかる。顔が幼いつくりをしているのか、黙っている成瀬さんはまるで年下のようだった。ガラスの反射越しに合ってしまった目は、その瞬間に逸らしてしまった。
「動かないな」
「え?」
「この魚」
「ああ。動かないですね」
意思とは関係なく漏れだしてしまった「ああ」が想像よりも虚しく響いた。何か言葉を続けようとして、声にならなかった音を舌の上で転がしている。一瞬だけ自分がいま立っていることを忘れて、危うく身体のバランスが崩れるところだった。
呪い、という言い方ができるような気がした。僕があのとき想いを伝える選択をしていれば優菜が死ぬことはなかった。
こうして成瀬さんに連れられるだけの外出は、僕に優しかった。彼女に付いていくだけで僕は閾値を超える楽しさを味わうことができる。選ばなければいけないことと言えば昼食のメニューくらいだった。
「あの」
「なんだ」
「成瀬さんは今日、どうして僕を誘ったんですか」
「どうして、とは?」
前屈みになったまま、成瀬さんは上目遣いで僕を見上げる。襟の間から覗く鎖骨がやっぱり生々しくて、やめてくれ、と思った。とっくの昔に死んだ人間を、現在の親しい人間に重ねるのは決して正しいことではなかった。
「いや、なんとなく気になっただけです」
成瀬さんは一度逡巡するような素振りをしたあと、「暇そうだったから」と言い残し、次の水槽へと向かっていってしまった。やっぱり成瀬さんはすこし背が低く見えた。
水族館はかなりの広さをしていたようで、出口を抜けるころには空が夕方の光を発するようになっていた。水族館の裏側には海が広がっていて、微かな橙色に照らされる波の様子を、鮮明に観察することができる。海が広がっているのは東西どちらの方向でもなかったようだが、藍色でも橙色でもない微妙な色の空が一番綺麗に見えた。
「綺麗だな」
「そうですね。浄化されそうです」
「そうか。それはよかった」
風が心地いい。潮の香りを含んでやってくる風は、それ自体が秋という属性を帯びていた。冬の凍えるような風より、秋の心地よい空気のほうがよっぽど人肌の恋しさを想起させる。優菜が死んだ季節は間もなく終わろうとしていた。
僕に背を向けて、成瀬さんは藍色の空とは反対の方向へ歩き始めた。燦々と輝く夕日がやけに眩しかった。彼女の身体の正面が向くほうに、逆光で真っ黒になった観覧車がくっきりと見える。観覧車の麓までやってきたとき、彼女は「乗ってみたかったんだよなあ」と、子どもみたいな表情で笑った。
料金を支払うとき、水族館のチケットを提示すれば割引されることを知った成瀬さんは、僕だけに聞こえるような声で「ラッキー」と言った。係員の指示に従ってゴンドラに乗り込み、成瀬さんの向かいに腰を下ろす。想像以上の揺れがすこし不安だった。
「夕陽のほうは今どうなってる?」
「え?」
成瀬さんの顔は海のほうを向いていた。まださほど高度はないものの、それでも海を遠くまで見渡すことができる。水面には、丸めた紙を開いたみたいな波が立っていた。
なかなか言葉の続きがないと思って視線を戻してみても、彼女はやはり海を眺めたままだった。口を開いて、閉じる。その間に観覧車はどんどん進んで、いつの間にかさきほどの水族館を軽く見下ろせる高度になっていた。
「熊谷優菜のことだよ」
「……わかんないです。バーチャルヘヴンで生きてるって聞いて、でも会うべきなのか、そもそもまた会いたいのかすらわかりません」
いや、成瀬さんから優菜のことを聞く前からほとんど変わっていなかった。彼女の死から目を逸らし続けている。一度は「絶望すればいい」という鍵を手に入れたものの、その鍵をどこに差し込んだらいいのか、全くわからない。
一度深く考えてしまえば優菜に関する鬱々とした感情を抑えきれなくなってしまいそうで、怖かった。
どうして人は何も考えずに生きていられないのだろう。ただなんとなく日常を過ごして、些細な、ほんのちいさな幸せだけを謳歌できていればよかった。優菜のことを完全に切り捨てられないし、うまく過去にすることもできないから僕は中途半端だった。
海とは別方向の景色を眺めてみて、僕は初めてこの観覧車が大きな公園施設の敷地内にあることを知った。横から差し込んでくる鋭い夕日のせいで、視界の方向が自然と誘導されている。橙色の空から海を経由し、なんとなく宙を漂った視線は、結局成瀬さんの何か言いたげな表情に着地するしかなかった。そして僕はまた彼女から視線を外す。
観覧車は間もなく最高地点に到達しようとしていた。そういえば、唯はいまの恋人に観覧車のなかで告白されたと言っていた。たしかにこれほど圧巻な景色に囲まれていれば、そういう言葉に心を動かされてしまうのも当然だと言える。
近くの駅に、電車が入線していくのが見えた。水族館帰りなのかそれとも他の目的を達成した人たちなのかはわからないが、地元の駅よりもずっと多くの人がホームと電車の隙間を跨いでいる。唐突に、なぜか、心のなかに虚空が広がっていった。
「夕陽」
名前を呼ばれた瞬間、心臓がより強く鼓動を刻み始めたのがわかった。言葉、成瀬さんの口から発せられる音に聴覚が吸い寄せられている。心の核、のような部分がふわりと上昇し始めて、うわずった声が出てしまいそうだった。
「はい」
あの、と言った成瀬さんの声が震えていた。
「覚悟が決まらない」
「え?」
「データを消せない」
彼女のいまにも砕け散ってしまいそうな声は、夕日が橙色に照らす狭い個室の内側でかなしく響いた。気づけば心臓の激しい鼓動は落ち着いていて、幸せな夢から覚めたときのような、なんとも言えない虚しさが他の感情を押しつぶすように広がっていく。僕はこの瞬間、一日のなかで最も冷静だった。
「……難しい、ですよね」
銀色のはずだった手すりは、やっぱり赤い色をしていた。太陽と、車内にある光のごく一部だけを鈍く反射している。そのなかに僕の姿はなかった。成瀬さんもいなかった。
「服も私物も、全部捨てた。でも、データを消せば、その先私はどうやって生きていられるのか見当も付かない。心が空になってしまうような気がする」
自分が同じ立場だったとして、優菜のデータを消すことができただろうか。夕日はやけに眩しかった。その光に目を細め続けなければならないことにひどく煎りつくような焦りを感じる。
「生活の、本当に些細な部分にアイツの顔が浮かぶ。待ち合わせに使った駅前のコンビニとか、いつも寄ってた煙草屋とか」
いつからか、毎朝目を開くといつもそこがひどく寂しい空間をしているような気がしてならなかった。気づけば夜を越すための冷房は必要なくなっていた。夢から覚めたばかりのとき、心のなかは空っぽになっていると思う。いや、空っぽというより、虚無のような感情に飲み込まれそうになっている。
「どうすればいいかな」
成瀬さんの声は決して震えていなかったし、目に涙を溜めているわけでもなかった。幅が広い二重の下から伸びたひどく長い睫毛の、反り返って器のようになった部分の先端に夕日色の光が乗っかっている。膝の上で組まれた手を握ってしまいたくなる衝動の出所を僕はうまく掴むことができなかった。
「僕が、その隙間を埋めますよ」
音が喉に詰まって、声が裏返ってしまいそうだった。成瀬さんが目を丸くした一瞬だけ、時間が止まっていた。観覧車も地上の人々も、それから海面を滑る波の形も、何もかもがめまぐるしく変化しているから不自然だった。この狭い空間内だけが切り離されていた。
成瀬さんは丸い目をゆっくり伏せて、次に困ったような笑みを浮かべ、それから一度咳払いをして、ようやく僕と目を合わせたあと、「そうか」、いつもの得意げな笑顔で言った。
成瀬さんが浮かべる笑顔には、昼下がりの眠気に近い心地よさがあった。
「……夕陽はまだ、幼馴染のことを片付けられていないだろう」
少しの間があって、成瀬さんがそう言った。「たしかに」、中身のない言葉が虚しく地面に落下する。僕には、成瀬さんが本当は他の言葉を紡ごうとしていたように見えて仕方がなかった。
苦しいことをいくつもこなすためには、自分をうまく騙し続ける必要があった。いまの自分は落ち込んでなんかいなくて、いい一日をずっと続けていて、決して不幸に浸ってなんかいない。そういう日を、この先、気が遠くなるほど積み重ねていく必要があった。途方もなかった。
「でも、期待しているよ。有里くん」
成瀬さんが言う「有里」は、優菜のすこし舌っ足らずな言い方とは全く違っていた。余裕を含む大人らしさと、子どもっぽいあどけなさの両方が込められていた。観覧車は間もなく一周を終えようとしていた。
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