4-3「七色の水槽。」
ほどなくして運ばれてきたパンケーキは、好みの味ではあったものの、社会人の胃によろしくない甘さをしていた。珈琲がなければ今夜はパンケーキに追いかけられる夢を見ていただろう。キャラメルマキアートを頼んでいた成瀬さんは大丈夫だろうか。
「美味しいか?」
「あ、はい。美味しいです」
年齢を増すごとに、胃が許容できる甘味の量が減っている気がする。近頃はケーキを一ピース食べきるのも難しい。これを年上の成瀬さんに言ったら怒られるだろうから黙っておくことにした。
「こっちも美味しいから食べてみろ」
成瀬さんが差しだしたねこちゃんのふわふわスフレパンケーキは、チョコレートソースがかかっているせいか、より重たそうな見た目をしていた。
「ありがとうございます。じゃあいただきます」
「おい待て、ブルーベリーソースが付く」
成瀬さんが眉間に皺を寄せてそう言うので、仕方なく彼女が先ほどまで使っていたフォークを借りることにした。変な緊張感を悟られないよう、スフレパンケーキの端っこのほうをフォークで切り落とし、口に運ぶ。チョコレートとブルーベリーでは味のベクトルが違っていたのか、不思議と鬱陶しい甘みは感じなかった。成瀬さんが勝手に奪って使用した僕のフォークには、やっぱり先端部分に淡い桃色の口紅が付いていた。
朝食兼昼食を終えて次に連れてこられたのは、僕が予想していたとおり、すぐ近くにある水族館だった。この時間になると陽射しも強くなり始め、九月らしい残暑が容赦なく僕たちを照りつけている。エントランスを通ったあとの、館内の冷房は僕の知る天国の概念を大きく覆すものだった。
駅から水族館までは徒歩で十五分ほどだ。真夏とそう変わらない位置にある太陽は、真夏と変わらない勢いでアスファルトを熱し続けている。予報ではそれほど暑くなかったはずなのに、日光に引きずられて空間の温度がぐっと上昇しているようだった。
「大人になってから水族館に来るの、初めてかもしれないです。成瀬さんはよく来るんですか?」
「このあたりに住んでいたころはよく来ていたな」
「え、成瀬さん、この辺に住んでたことあるんですか?」
「学生のころはな。東京の大学に通っていた」
意外な共通点だ。地元周辺の大学では、学べる内容に限りがある。仮想空間に関わる職に就きたいのであれば、あの街を出たほうが選択肢は広がるだろう。
チケットを購入して足を踏み入れた先、最初にあったのは熱帯魚たちの水槽だった。広い水槽の中心にはサンゴ礁があって、その周辺を色とりどりの魚たちがのびのびと泳いでいる。天井から吹いてくる空調が、身体に籠もった熱を引きずりだしてくれていた。
「水族館はいいぞ。心が浄化される」
たしかに、水槽のなかをゆっくり泳ぐ魚たちを見ていると、つられて感情の起伏もゆるやかになっていくのを感じる。たまに何かを思いだしたように動きだす魚もいるが、不思議と心を乱されることはない。
館内では子連れの夫婦やカップルが水槽を見て回っていた。順路と書かれた看板に沿って、成瀬さんと並んで足を進めていく。エスカレーターを降りていくと、フロアふたつに渡って巨大な水槽が広がっていた。
「ほら見ろ、夕陽。サメだ」
成瀬さんが差した方向を見ると、身長の何倍もある大きな水槽で、青空を羽ばたくみたいに巨大なサメが泳いでいた。頭がハンマーのようになっている、典型的なサメだ。きっと有名な種類なのだろう。子どもたちも貼り付くようにして水槽を見上げていた。
「なんていうんでしたっけ、あのサメ」
「シュモクザメだ」
派手で人気な生物が彼女の好みなのかと思いきや、名前すら聞いたことがない小魚をじっと見つめることもあった。成瀬さんの嗜好を僕は未だに掴みきれていない。僕がまだ彼女のことを知らないだけなのかもしれないし、掴み所というものが彼女には備わっていないのかもしれなかった。
水族館というのは、改めて見ると、想像よりも多くの生き物が展示されていることに気づく。イソギンチャクの仲間やヤドカリ、そして海藻のネームプレートがあることには驚いた。
成瀬さんは、水槽のなかで輝く、ちいさな魚の群れをじっと見つめていた。水槽の上部に掲示されたプレートからその魚の名前を探してみる。その魚は、写真とともに「デバスズメダイ」と紹介されていた。
デバスズメダイは緑色に輝いているようにも、青にも、そして赤にも見えた。その不思議な魚を見つめる成瀬さんの目には、何か特定の感情というよりもっと曖昧な、純粋さのようなものが宿っている。その横顔に、なぜか、懐かしさを感じた。その理由をすぐに思いついて、あ、と思った。
すこし上から見下ろしたときだけ確認できる、二重幅の広い人に特有の儚げな目つきに、優菜を重ねてしまっていた。このままではよくないと思い、急いで彼女から視線を逸らす。成瀬さんはおそらく水槽を眺めたまま、舌っ足らずではない普通の言葉遣いで「綺麗だな」と言った。
「デバスズメダイっていうらしいですよ」
「よく知ってるな」
「書いてありました。上に」
「本当だ」
静かで落ち着いた空間というのは、考えごとをするのにちょうどよかった。周囲にいる他の来場客たちも薄暗さのおかげで全く気にならない。水族館が心を浄化してくれるというのはこういうことなのではないかと思った。
成瀬さんがこの日僕を誘った理由はやっぱりわからなかった。優菜のことで頭を抱えている僕を元気づけるために連れてきてくれた、というのは考えすぎだろうか。
成瀬さんに優菜のことを聞かされてからずっと、僕は優菜に会うべきなのか迷っている。唯は「会わなくていい」とすぐに決断していたのに、僕は結局憂鬱な思考を延々と続けてしまっていた。
「夕陽はどの魚が気に入った?」
「さっき成瀬さんが見ていたやつです」
「ここまでの魚、全部見たが」
「えーっと、なんでしたっけ。もう名前忘れました」
そういえば、成瀬さんは恋人のデータを消すことに決めたのだろうか。あの煙草がどうなったのかもよくわからない。絶望ってなんだっけと思った。自分のやらなければならないことを知っているのに、その方法を探る状態がずっと続いている。
成瀬さんが煙草を吸っていたあの日以降、僕はほんのすこしだけ煙草の匂いが嫌いになった。元々嫌いだったのを改めて自覚しただけなのかもしれないし、そのとき成瀬さんへ向けてしまった刹那的で同情的な感情が関わっているのかもしれなかった。
優菜と別れたとき、僕は彼女のことが好きだった。そしておそらく優菜も僕に好意を寄せてくれていた。
バーチャルヘヴンにいる優菜はどうなのだろう。こうして成瀬さんと出かけていることを知ったら彼女はどう思うのだろう。成瀬さんに誘われて悪い気はしないなんて言ったら、口をきいてもらえないかもしれない。
順路の先には深海コーナーが続いていた。それまで薄暗かった照明から、もう一段階明るさが失われている。前屈みになって深海魚を見つめる成瀬さんの、シャツの隙間から覗く鎖骨を見て、この人も女性なんだなと思った。
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