4-2「ねこちゃんのもふもふスフレパンケーキ。」

 運とか神様とか、そういう目に見えないものを信じなくなったのは一体いつからだったのだろう。少なくとも幼稚園に通っていたころはサンタクロースが来るのを待ち望んでいたし、優菜が死んでからしばらくの間は、幽霊になって会いにきてくれるのではないかという漠然とした希望を抱えていた。


 幽霊も神様も存在しない。運の善し悪しというのも、自分や他人が選択し、決定したことの結果でしかない。不安とか焦燥とか、そういった負の感情を何かのせいにしなければ人は壊れてしまうのかもしれなかった。


 だからこの日、僕が朝の星座占いを信じてみようと思ってしまったのは、成瀬さんと出かける緊張の拠り所として絶妙すぎるタイミングだったからとしか言いようがない。


 BGM代わりにしていた朝のワイドショーからは、どういうわけか、明るいニュースばかりが流れてくるようだった。近頃、仕事に追われる日々が続いている。脳が無意識に心の明度を上げようとしているのかもしれない。ラッキーカラーと同じ色の服を着てしまったのはただの偶然だった。


 八月末からだらだらと続いていた雨はいつの間にか降らなくなっていた。何かに没頭している間は嫌なことを忘れられるけど、そのぶん、どうでもいいようなことに心を躍らせる瞬間もなくなってしまう。


 約束の正午、僕はそれよりも十五分早く駅の改札口に到着した。成瀬さんの姿はまだない。彼女はいつも就業時間の直前に出勤してくる。今回もきっと、時計がぴったり正午を差す数ミリ前に現われるだろう。


 私服で出かけるのは久しぶりだった。社内ではある程度ラフな格好が認められているものの、成瀬さんにつられて自分までスーツで出勤するようになっていた。成瀬さんは役柄上、急な顧客対応が入りやすい。いつでも応対できるようにスーツを着ているのだろう。いや、僕と同じで私服を選ぶのが面倒なだけなのかもしれない。


「待たせたな」

「ひっ」


 背後の耳にごく近い場所から声が聞こえて、ほぼ反射的に身を引いてしまった。「なんだその顔は」、成瀬さんが眉をひそめて言う。「おつかれさまです」と返したところ、彼女の眉間にあった皺はより深いものとなった。時刻はまだ十一時五十五分だった。


「今日はそういう集まりじゃない」

「え、じゃあどういう集まりなんですか」

「後輩を連れ回すのに理由が必要か?」

「必要だと思います、それは」


 成瀬さんはいつもの「ふっ」という得意げな笑いではなく、もっと普通の女性のように、「ふふっ」と胸の内側からこぼれるみたいな笑い方をした。白いリネンのシャツブラウスに、高い位置でベルト留めされた花柄のロングスカート。長い髪が風に揺られている。ふふっ。声がまだ耳の奥に残っている。


 ちょうどやってきた電車に、成瀬さんは乗り込もうとしなかった。疎らに人が降りていって、ホームに立っていた申し訳程度の利用客たちが乗車していく。聞き慣れた音楽のあと、電車の扉はあっけなく閉じてしまった。


「乗らなくてよかったんですか?」

「次の快速に乗る」

「なるほど」

「ちなみに一時間半は移動するから覚悟しておけ」

「早く言ってくださいよ、そういうのは」


 あはは、と笑う成瀬さんには「行き先も」と注文を追加しておいた。「そうだな」という、中身の伴っていない言葉が返ってきた。


 昨夜連絡が来たときは休日出勤を覚悟していたが、やりとりを重ねるにつれてそういうわけではないことが判明していった。そもそも、成瀬さんが出勤日以外に仕事のことをするなどあり得ない。


 ちなみに、昨夜のうちに得られた情報は「どこかにでかける」という一点のみで、目的地やそこで何をするかという有用な情報は一切わからなかった。彼女が僕を外出に誘った理由も不明だ。誘ったというより、連行した、か。


『間もなく、二番線に快速・新木場行きが参ります――』


 ここから一時間半と言っていたので、目的地は都内のどこかと見て間違いないだろう。


 時間の関係か車内は空席ばかりで、僕たちは日の当たらない側の、端っこふたつの席に並んで腰を下ろすことにした。普段はひとりで電車に乗ることが多いため、これほど席が空いているなか人と隣り合って座ることになんとも言えない後ろめたさを感じる。


「成瀬さんって休日、なにしてるんですか?」

「部屋の掃除だ。あとはだらだらしたり……、している」


 以前入った彼女の部屋はお世辞にも綺麗とは言えない状況だった。毎週掃除しているとは考えがたい。いや、きっと彼女には瞬時に部屋を汚す類い希なる才能があるのだろう。もしくは掃除という言葉の概念に齟齬があるのかもしれない。


「何か言いたげだな」

「え、そんなことないですよ、決して」


 きっと以前の彼女は休日にもバーチャルヘヴンに潜っていたのだろうが、それに言及するのはいま必要なことではなかった。「だらだらしたり」のあとの隙間には、本来、その言葉が入る予定だったのかもしれない。


 流行りの曲やSNSの話をしている間に電車はかなり目的地に近づいていたようで、もうふたつほど話題を消費するころには乗車から一時間以上が経過していた。窓の外に見える景色はいつの間にか、人工的なものばかりになっている。


「降りよう」

「はい」


 車内からエスカレーターにかけて、長い人の流れができていた。その列に並んでいる間に電車は走りだしていて、目の前がひらけた瞬間、視界いっぱいに海が広がった。思えば県外に出るのは入社以降初めてのことだった。


 都内でもこれほど海を見渡せる場所は珍しい、と思う。水平線から海岸にかけて、太陽の光を受けた波の先端がきらきらと輝いていた。


 たしかこの周辺には、水族館や遊園地があったと記憶している。成瀬さんの目的地はそのどちらかだろう。そんなことを考えながら景色を眺めていたら、エスカレーターで降っていく途中に、一瞬、観覧車の影を見たような気がした。


「まずは近くのカフェで昼食にしよう。腹が減っているだろう」

「はい。おなか空きました」


 昼食というには遅いし、間食と位置付けるにしてはまだ早すぎる。そんな中途半端な時間帯だった。それでもこの日はまだ昼食を摂っていないため、ちょうどよく胃に隙間が空いている。


 都内に暮らしていたことはあるが、水族館や遊園地どころか、映画館やカラオケといった比較的手軽な娯楽施設にすら一度も足を運ばなかった。唯には「たくさん遊べる場所あるのに行かないなんてもったいない」と言われたが、近くに観光地があっても「いつか行ける」という慢心ゆえになかなか足を運ばないということがあると思う。


 実際、地元から近い場所に県内でも数少ない観光名所があるが、高校に入ってからは全く行かなくなってしまった。たぶん人は、遠出することそのものに非日常を感じたいのではないだろうか。


 成瀬さんに案内されて入ったのは、喫茶ナカムラよりもずっと雰囲気の明るい、現代的で清潔感のあるカフェだった。心なしか、女性客が多いような気がする。


 店員に誘導されるまま席に着いてメニューを開いたとき、僕はようやくこの店に女性客が多いわけを理解した。最初のページに堂々と佇むクマのかわいらしいカップケーキは、女性客を引きつけるのにこれ以上ない効果を発揮しているようだ。隣の席に座る女性二人組が、運ばれてきたクマのカップケーキを楽しそうに撮影している。


「夕陽は何を頼む?」

「アイスコーヒーと、これにします」


 口頭ではなく指で差して成瀬さんに示したのは、「くまさんのブルーベリーソース仕立てふわふわパンケーキ」という商品名を口にする勇気がなかったからだ。二十三歳男性が読み上げるには少しあざとすぎる。


 そんな心配をする僕の正面で、二十六歳の女性上司がちょうど注文を訊きに来た店員に、アイスコーヒーと「くまさんのブルーベリーソース仕立てふわふわパンケーキ」、続けて「ねこちゃんのもふもふスフレパンケーキ」と「ねこちゃんのにゃんにゃんキャラメルマキアート」を注文していた。あの部屋で唯一丁寧に飾られていたぬいぐるみたちの記憶が蘇る。

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