第4章『死にたくなったら会いに来て。』

4-1「どうしようもなくなったら。」

 どうしようもなくなったら、お空に向かっておねがいすればいいよ。きっと、有里のおねがいも叶えてくれるから。ずっと昔、優菜がそう言っていたことを思いだした。雨が降っているのに、空気はお日様のにおいがする。窓の外、薄い雲に午後六時半の太陽が滲んでいる。


 この日は天気の影響なのか、仕事が終ってすぐに足を運んだにもかかわらず、喫茶ナカムラの店内にいる客は僕と、常連の黒髪ツインテールの少女だけだった。人が少ないぶん、珈琲豆の香ばしい匂いが際立っているような感じがする。


 ここ数年、八月の終わりは雨が降ってばかりだった。それが季節的にそうなりやすいせいなのか偶然の産物なのかはよくわからない。


 晴れの日は気持ちがいいとよく言うが、灰色の空の下で、低気圧に当てられた身体を引きずるみたいにして出勤するような瞬間にこそあの清々しさを知ることができるのだと思う。快晴は快晴なだけで、その気持ちよさは相対的にしか存在しない。


 優菜の存在を聞かされてから二週間が経過しようとしていた。一度は当然のように会いにいくことを考えたが、ここのところは仕事が忙しく、なかなか時間を作ることができなかった。お盆休みのしわ寄せが来ているのかもしれない。


 そもそも、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。最初の言葉どころか、彼女を前にしたとき、自分がどんな反応をしてしまうのかすら想像できない。僕は本当に、優菜に会いたいのだろうか。忘れようと決心したはずなのに、手の届くところに優菜がいると聞かされて、どうするべきなのかわからずぐるぐる回っている。


「ねえ、唯」


 パソコンの画面に視線を残したまま、食器を洗っている唯の横から声をかける。彼女は洗い場の水を止めると、すこしの間を置いて、「んー?」、間の延びた返事をした。換気扇の、空気を切り裂く音がした。


「もし優菜がバーチャルヘヴンで生きているとしたら、会いたいと思う?」

「……え」


 顔を上げた先、唯の視線は僕を捉えたり、シンクに落っこちたりを繰り返していた。僕が質問した内容から、優菜がバーチャルヘヴンにいる事実を可能性として感じ取ったようだった。


「……わかんないよ、いきなりそんなこと言われても」

「そう、だよね」


 パソコンの画面は暗くなっていた。唯と視線が交差して、堪らず逸らした先、画面越しに黒髪ツインテールの少女と目が合った気がした。


 雨音と換気扇の音で、客席に流れているジャズはその根本から激しくかき乱されているようだった。どの音も互いに反発し合っているのに、この空間はなぜか静まりかえっているような感じがする。このうちどれかに、音と音を調和する性質があるのかもしれない。


 訊き返さなかったな、と思った。優菜がバーチャルヘヴンにいるのかどうか、事実を確認するような言葉を唯は口にしなかった。疑問を解消するのではなく、唯は、可能性としてそれを留めておこうと考えたのかもしれない。


「……うん、やっぱり、会わなくていいかも」

「そっか」


 彼女がそういう結論を出すことはなんとなくわかっていた。その回答が僕との差だった。


 * * * * *


 ちょうど眠気がやってくる昼下がり、僕の安寧は少女の鋭い声によって木っ端みじんに吹き飛んだ。


「だから、不良品だったって言ってるでしょ!」


 応接室にやってきた少女は依頼人ではなく、顧客という位置づけが正しい。彼女には他の担当者がついていたものの、その社員が休職を取ったためにこの案件が僕と成瀬さんの元へと回ってきてしまったのだ。


「それは申し訳ございません。不良品と思われた理由をお聞かせいただけますか?」


 こんなときでも決して頭を下げないのが成瀬さんの悪いところであって、彼女らしい部分でもあると思う。少女は不自然に真っ黒な髪を揺らしながら、猫のような目で成瀬さんを睨み付けた。


 これが全くの他人だったら精神力の削り値は幾分かマシだったはずだ。黒髪ツインテールに、無数のピアス。高橋凪と名乗るこの少女は、「見覚えがある」程度では済まされないほど記憶に馴染みのある姿をしていた。間違いない。喫茶ナカムラの常連客だ。


 全く知らない人間というわけではないし、だからといって言葉を交わしたことは一度もなかった。中途半端な関係をしているだけに、どんな顔で話したらいいかわからない。高橋のほうもそれは同じだったようで、成瀬さんに続いて「同じく担当の夕陽です」と言ったとき、彼女は一瞬だけ戸惑いのような表情を見せた。結局彼女は、僕を初対面の人間として扱うことに決めたようだった。


「明らかに別人だもん、あの人。だから全額返金してください」


 一年前、高橋は事故で亡くなった有明誠士郎という男性をバーチャルヘヴンに復元したらしい。そして、前任者から引き継いだ資料からは、高橋がほぼ毎日チェックインしていることが窺えた。彼女は機器の買い取りを選択したようだが、一応、会社のコンピューターからもチェックイン履歴を閲覧することができるのだ。


「事前の説明にもあったとは思いますが、ENT技術を用いて死者の脳から記憶を抽出し、それを人工知能に学習させることで生前の人物を復元しています。万が一にも他の人物が当人の姿で復元されることはありません」


 そもそも、一年間ほぼ毎日利用し続けていまさら不服を申し出る理由もよくわからない。有明誠士郎が別人として復元されたのだとしたら、どうして最初に言わなかったのだろう。


「だったら記憶の読み取りに失敗したんだ。そうじゃなきゃあり得ない」


 高橋が唸るような声で言ったとき、成瀬さんが微かに眉をひそめたのがわかった。


「では、高橋様がどのような点でご不満を抱いているのか、詳しく聞かせていただけますでしょうか」

「他に好きな女ができたって言うの! 彼が私以外を好きになるなんてあり得ないし、五年付き合ってこれまで私たちは一度も喧嘩をしなかった。彼がおかしくなったのは、このバーチャルヘヴンで生き返ってから」


 そうですか、と成瀬さんが言う。


 喫茶ナカムラで感じた寡黙な印象は、もう一切感じられなくなった。こんなにヒステリックな声を出し続けていれば、有明が離れていくのも仕方のないことだと言える。もちろんそんなことは口が裂けても言えない。


 しかしどうやら顔には出てしまっていたようで、成瀬さんのほうへ向けられていた鋭い視線がぐんっとこちらへ移動した。喉まで出かかっていた悲鳴をなんとか飲み込み、軽い会釈でその場をやり過ごす。


「契約時の説明にあったとおり、申請期間を過ぎてからの返金はいたしかねます。しかし契約の終了をご希望とのことでしたら、有明誠士郎様のデータを消去することになります。よろしいですか?」


 消去という言葉で、高橋の表情が一瞬だけ引きつったのがわかった。追い打ちをかけるように成瀬さんが続ける。


「バックアップは三ヶ月の間だけ保管されますが、その後は自動的に破棄されます。そうなればデータの復元はできません」


 バーチャルヘヴンの住民が病気や事故で死ぬことはない。しかし、一見不死身のような彼ら死者にも明確な死は存在する。


 成瀬さんが説明したとおり、データが消えてからの三ヶ月間は会社のデータベースにバックアップが保管される。しかし、そのあとにあるのは完全なデータの抹消だ。バーチャルヘヴンの住民は、死者の脳に残された記憶痕跡のデータが元になっている。有明誠士郎の遺体はすでに火葬されてしまっているだろう。そうなればデータを復元することはできず、有明誠士郎は完全に死を遂げることになる。


「……いいです、別に。あんな奴のデータ、早々に削除してください」

「もう一度冷静なときにお考えになったほうが――」

「私が冷静じゃないって言いたいのっ?」


 冷静な人が感情的な声を出すことはない。そう言いそうになるのをまた溜飲する。僕の胃のなかは溜め込んだ言葉と朝食の大豆バーがてろてろに絡み合って、リゾットのようになっているに違いなかった。想像したら気持ち悪くなってきた。


「失礼いたしました。でしたら契約終了のお手続きをいたします。その後はこちらで準備期間をいただいたのち、我々の立ち会いの元、お客様の手でデータを削除していただいております」


 しばらくの沈黙ののち、高橋は詰まり気味に「わかりました」と言った。


 維持費が払えなくなったり会う必要がなくなったりを理由に、三ヶ月に一回ある契約更新の際に契約終了を申し出る人は意外と少なくないらしい。そういう顧客には、トラブル防止のため、本人の手でデータを削除してもらうことになっている。これは先週、桐原のデータ削除に立ち会ったときに知った。そういえば彼は結局、自殺を幇助した鈴木薫の罪を告発することはしなかったらしい。


 彼の場合が特殊だっただけで、本来はデータの削除に罪の意識を持つ人もいるようだった。しかし、バックアップデータを復元しに来る人はごく稀なのだという。きっと彼らは死者のいない環境を手にすることで、大切な人の死に絶望することができたのだと思う。


 データ削除依頼を受けたのは初めてだったが、基本的な内容を契約時に説明しているぶん面談は早く終了した。一見、成瀬さんは普段どおりの様子だったが、高橋が残していったペットボトルをゴミ箱に投げつけていたから心のうちでは苛ついていたのだろう。


 それからの一週間はやはり忙しかった。唯のカフェで資格の勉強をして帰るなどの日々で精神はどんどん摩耗していく。何より優菜の足取りをひとつも掴めていないことが心の疲弊を加速させていた。


 とにかく、今週末はゆっくり休もう。そう考えながら家の鍵を開けた金曜の夜、スケジュールアプリや家計簿ばかりで容量を重くしていた携帯が、『明日の正午、改札前』という成瀬さんからのメッセージを通知した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る