3-13「君と仮想天国。」

 居酒屋の喧騒にジョッキのぶつかる音が割り込んだとき、一瞬、意識がふわりと浮き上がったような気がした。お通しのポテトサラダを箸で掬いながら、「おつかれさま」と成瀬さんが言う。一度口を付けただけなのに、彼女のビールはすでに半分がなくなっていた。


「飲み過ぎないでくださいね」

「自分の飲酒量くらい自分で管理できる」


 成瀬さんはわざとらしく眉をひそめると、見せつけるみたいに残りのビールを飲み干した。軽い音を立てて着地したジョッキには、まだ結露のひとつもついていない。


 この日やってきたのは、前回とは別の居酒屋だった。この店はすべて喫煙席だ。店に入った瞬間からずっと、煙草の乾燥したような匂いが身体に纏わり付いている気がする。家に帰ったらまずはバッグとスーツを消臭する必要がありそうだ。


 歳を重ねるにつれて変化するものはたくさんある。そのほとんどは喪失であって、だからこそ人は過去に思いを馳せてしまうのではないだろうか。しかし、変化のなかには、人生のランクを一段階上げるような革命が起こることもある。


 僕にとっては、茄子を食べられるようになったことがそれに該当する。子どものころは上手く茄子を避けて食べていて、それをよく優菜に注意されたものだ。今となっては茄子のとろっとした食感にハマりつつある。大人になるのも悪いことばかりではない。


「前は悪かったな」

「別に、気にしてないですよ。でも明日が休みだからって今夜も飲み過ぎないでくださいね」


 成瀬さんはまたわざとらしく眉をひそめ、「違う」と不満そうな顔で呟いた。赤く染まった頬としかめっ面が幼い子どものようにも見えて、つい笑いが零れてしまう。僕も酔いが回ってきているようだった。


「私は夕陽に偉そうなことを言っておいて、自分のほうが恋人の死を受け入れられていなかった」


 バッグのなかでうごめいていた成瀬さんの手が、少しの間を置き、煙草の箱を握って登場する。橙色のパッケージのまんなかに紅茶のイラストが描いてある、珍しい煙草だった。


「成瀬さんって喫煙者だったんですか?」

「いや。元恋人が残していったのを、お守り代わりに持ち歩いていただけだ」

「案外可愛いところがあるんですね」


 言うつもりのないことが声に出てしまう瞬間は案外頻繁に起こり得るのではないかと思う。このまま変な誤解を生んでしまったら困るため、急いで「いや違くて」と訂正の言葉を続けた。「うるさい馬鹿」と返ってきた。


「もう断ち切ってやるつもりだ。だから夕陽も吸え」

「いや僕、煙草苦手なんで」


 成瀬さんが取りだした煙草は、ほのかに紅茶の香りがした。すこしだけぎこちない手つきで火をつけられた煙草の、先端のほうが黒く焦げてしまっている。


「……成瀬さんはちゃんとその人の死に絶望できたんですね」

「どうだろうな。よくわからないから、手当たり次第やっていくしかない」

「まあ、そうですよね……」


 データ、いつか消さないとなあ。ひとりごとみたいに成瀬さんが言った。はは、と僕は笑う。


 人の死を受け入れるためには、その人の死に絶望する必要がある。優菜の葬式で唯がそうしていたように、思いっきり泣いて区切りを付けて、その人を死んだものとして認識しなければならなかった。


「ほら」

「え?」

「一口吸ってみろ」


 成瀬さんが吸いかけの煙草をこちらに差しだすから、僕は圧力に負けてそれを受け取るしかなかった。仕方なく煙草を口に運び、軽く息を吸い込んでみる。フィルター部分に、淡い桃色のリップが付いていた。


「どうだ?」

「特に何も」


 あはは、と成瀬さんは笑った。僕から受け取った煙草を口に咥える瞬間まで、僕は彼女から目を離せなくなっていた。


 僕たちはおそらく、絶望するためのタイミングを逃してしまったのだと思う。僕はあまりにも長い時間、目を逸らし続けていた。彼女が死んだことを実感し直すためには、もう一度彼女が死ぬ必要があるのではないのかとすら思ってしまう。


「ん」


 なぜかふたつ運ばれてきたビールの片方を、成瀬さんは「飲め」とでも言いたげに差しだしてきた。僕のジョッキにはまだ半分ほどのビールが残っている。ためしに首を傾げてみると、成瀬さんからは非情の「飲め」が発せられた。


「残ってますけど。いつの間に二杯も注文したんですか」

「難しい顔をしていただろう? とりあえず飲むといい。アルコールは間違いなく人の悩みを取り除いてくれる」

「前にも聞きました、その理論」


 灰皿から立ちのぼる煙が電球の下に溜まって、机の上に繊維状の影を作りだしていた。


 何か言いたいことを準備して、そのタイミングを見計らっているとき、その内容にかかわらず妙な緊張感を抱くことになる。とはいえ、今回はその緊張感に相応しい内容をしていたかもしれない。


 緊張で疲弊した心臓がしびれを切らして、僕に唐突な勇気を与えてくれたのは、成瀬さんが店員に六杯目のビールを注文し終えたときだった。


「あの、成瀬さん」

「なんだ」


 ほとんど吸われないまま灰になった煙草は、三本、灰皿のなかで寄り添うように並んでいた。成瀬さんは新しい煙草に火をつけている。机にはやはり繊維状の影ができていた。


「成瀬さん、本当は社長が僕を採用した理由、知ってますよね」

「なぜそう思った?」

「成瀬さんに、優菜のことを詳しく話したことはないはずです。……僕の口から。それなのに優菜の苗字を知っていたし、僕との関係も知っていました」


 やはり、彼女が優菜のことを知っているのは不自然だ。それに、「私もああなりたかった」と、会ったことがあるような口ぶりをしていたこともある。社長の目的はわからないが、優菜のことが関係しているのは間違いない。成瀬さんの入社が五年前で、優菜が死んだのは七年前だ。僕が知っている以上に社長と成瀬さんは深い繋がりを持っている。


 成瀬さんが優菜のことについて知っていることも、社長から聞かされたのであれば納得できる。彼女は「そうか」とだけ呟き、新しくやってきたビールに口を付けた。


「知っていることを教えてください」

「熊谷優菜は転校後、いじめによって自殺する道を選んだ。父親を含め相談する相手はいないし、教員たちも相手にしてくれなかったそうだ。彼女は片親だったことや地方からの転校生ということで迫害の対象にされた」


 なんとなく、それは予想が付いていた。麺二郎さんが「人見知りのように見えた」状態になった経緯も説明が付く。


 しかし、それは僕が知りたいことではなかった。


「……そうですか。他には何かありますか?」


 いや、特に知りたい事柄があったわけではない。僕は、自分を絶望させるための何かを見つけることができればそれでいいのかもしれなかった。


「……先に謝っておく。今まで黙っていてすまなかった」

「え、なんですか」

「タイミングが見つからず、なかなか言いだせなかった。バーチャルヘヴンで働いている以上、いつかはわかることなのに」


 持ち上げた視線が成瀬さんの真剣な眼差しと交差し、自分の心臓が波を打ったのがわかった。


「熊谷優菜は現在、バーチャルヘヴンで生活している」


 灰皿の縁でバランスを取っていた煙草は、灰が崩れた拍子に、ころりと机に転がった。机が火に炙られていく焦燥感が脊椎を走り抜けていくのに、膝の上に置いたままの両手を動かすことは叶わない。


 単語というものは「シニフィエ」と「シニフィアン」、つまりは概念と音に分けて考えることができるとスイスの言語学者ソシュールが言ったらしい。大学の講義で習ったことだった。


 ソシュールが言葉をこのふたつの要素にわけたことは、きっと間違いだったと思う。人と人が、それぞれ思い浮かべる概念をそっくりそのまま共有することは不可能だ。つまり、概念というのは個人の解釈でしかなくなってしまう。概念と音の分離は、人が「死」に対してそれぞれの見解を持つことを許容しているのと一緒だった。


 死の概念がなにか基準で明確に定められていれば、僕はこれほど優菜の死に囚われていないはずだった。僕は自分のなかで優菜を殺すことができていたはずだった。


「――えっ、いや、そんなはず……」


 そんなことはあり得ないはずだ。優菜が死んだのは七年以上も前だ。その間ずっと、彼女はバーチャルヘヴンで生活していたとでも言うのだろうか。


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